パンタン (Pantin)は、フランス、イル=ド=フランス地域圏、セーヌ=サン=ドニ県のコミューン。パリの北東のバンリューであり、19区 (パリ)と接している。
国道N2とN3が交差する平野に位置する。 コミューン内には鉄道のパリ=ストラスブール線、ウルク運河が通る。
パンタン内で発見された考古学的証拠から、鉄器時代以降ケルト人が定住していたことがわかっている。ローマ人はルテティア=トリーア間の道路を建設し、この道路はパンタンを通過していた。オセール司教であった聖ジェルマンによって、この地にキリスト教の教区がつくられた。11世紀、サン=マルタン=デ=シャン修道院へ土地を寄進する布告の中に、Penthinumという地名が書かれた。これがパンタンの最古の地名である。
百年戦争中の1419年、パンタンはアルマニャック派に略奪された。
18世紀、良い空気のあるパンタンは上流階級の人々をひきつけた。政治家シャルル・ド・モルヴィルは1730年にパンタンに劇場をつくった。文書がないため舞踏家マリー・カマルゴがパンタンにいたことを証明できないが、劇作家カロン・ド・ボーマルシェについてはよく知られている。彼は1768年にパンタンにかなりの不動産を持つ裕福な未亡人と結婚していた。彼は12軒の家を住民に貸し、多くの土地やかわいらしい田舎の住宅を1774年に売り出した。しかし当時最も有名な人物は、バレエ舞踏家のマリー・マドレーヌ・ギマールであろう。彼女が所有していた住宅は現在シャルル・オレー校となっている。
1806年、アウステルリッツから帰還したナポレオンの古参近衛隊は、パンタンの平原で野営した。1808年、ウルク運河が決壊し平野に水があふれた。1814年、パンタンは第六次対仏大同盟によるフランス遠征の戦地となった村であった。フランスの将軍ジャン・ドミニク・コンパンは頑強に抵抗したが、ヴュルテンベルク王子ヴィルヘルムが指揮するロシア軍に敗れた。同年3月31日、パリ市長がパンタンに出向き、ロシア皇帝アレクサンドル1世とプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の前で降伏した。その後3ヶ月にわたってパンタンはイングランド=スコットランド軍に占領され、荒廃した。
1864年に鉄道駅ができると、人の往来が活発になり、町の経済成長が促進された。1875年、ウルク運河と鉄道路線が町を2つの地区に分割し、ヴィラージュ地区とレ・カトル・シュマン地区が生まれた。後者の地区は、パンタン住民からプティット・プリュス(Petite Prusse:小さなプロイセンの意。ドイツと国境を接するアルザス=ロレーヌからの移民が多かった)と呼ばれていたが、パンタンからの独立を求めた。この独立要求は否決されたが、市長は、その意を汲んで、礼拝所を造ったり、新たな市庁舎の位置を運河沿いにするなどして、共同体の維持に腐心した。
1942年、パリメトロ5号線がパリ北駅からエグリーズ・ド・パンタン駅まで延長された。エグリーズ・ド・パンタン駅は、1985年までこの路線の終着駅だった。駅前に大きなバス・ステーションができると、郊外からのバスが行き交うターミナルとなった。1959年、エミール・アヨー設計のクールティリエール地区集合住宅建設が始まった。
パンタンにはほぼ2000の企業がある。そのうち21社は100人以上を雇用している(エルメス、ブルジョワ、シャネル、グッチ、アニエス・ベーなど)。またフランス国鉄はTGVの管理部門をパンタンとボビニーにおいている。
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