科学技術館(かがくぎじゅつかん、英: Science Museum)は、東京都千代田区北の丸公園内にある博物館(科学館)である。公益財団法人日本科学技術振興財団が運営・管理を行っている。
科学技術館設置の構想は、日本科学技術振興財団の創立準備段階から中心事業として検討されていた。その構想は以下のようなものであった。
財団が正式に発足した1960年(昭和35年)には科学技術館建設委員会が設けられ、学会、産業界、博物館関係者などが委員として就任した。同年8月から委員会の会合が開催され、建物、展示内容、展示方法、付帯設備などが決定した。想定した来場者は青少年および一般で、理解水準を中学生から高校生相当とした。また展示方法としては「動的で興味深い表現」を用いることに重点をおいた。
1961年(昭和36年)3月、建設場所が皇宮警察職員宿合跡地に決定した。1963年(昭和38年)3月、展示内容が決定した。建設にあたっては、以下の20業種から計223社・団体が建設資金を提供した。
1964年(昭和39年)4月9日、建物が竣工した。4月10日、昭和天皇と香淳皇后が行幸し、開館式典が行われた。一般公開の開始は、4月12日であった。9月3日、内閣総理大臣池田勇人が見学に訪れた。11月27日、当時の皇太子(現在:上皇)も見学を行った。
開館当初の展示品は「現代日本の科学技術の成果を示すもの」で、機械、実験装置、模型など約400点であった。以下に、開館当初の展示内容を示す。
1964年6月から開館を記念して初の企画展「ドイツ科学展」が開催された。この展示会ではヨハネス・グーテンベルクの活版印刷機が出品された。1965年9月には、「ソ連宇宙開発展」が開催された。会期中には、女性として初めて宇宙飛行を行ったワレンチナ・テレシコワの講演会が、地下のサイエンスホールで開かれた。
日本の技術水準を示す展示内容を維持するため、開館後もIC利用の電化製品、大型タンカーの模型など展示更新が行われていった。この費用については1967年(昭和42年)より、日本自転車振興会より補助金が交付されるようになった。
開館直後の1965年度の年間入場者数が約53万人であったのに対し、1970年度は約41万人に減少した。特に団体入場者数が開館以来一貫して減少傾向であった。決定的であったのは1970年に開催された日本万国博覧会の開催であった。
他方、1970年代に入ると、自然科学系の博物館で視聴覚を合む総感覚的展示が増え、入場者の理解を促すため参加性の高い展示が増加するようになった。科学技術館のこれまでの展示について「故障が多い」「展示内容が難しい」といったことが入場者減少の理由として挙げられていた。このような状況を受け、展示内容のリニューアルが計画された。
リニューアルについてシカゴ科学産業博物館が行っていた企業出展方式を参考に、業界出展方式が採用された。業界出展方式とは、展示テーマと関連する業界団体や助成団体の協力により展示や内容更新を行っていく方式である。業界出展方式の目論見は以下の通りである。
以下に、業界出展方式に変更した後の展示内容を示す。
1975年(昭和50年)4月1日より、これまでの月曜休館から年末年始を除く年中無休に変更した。1977年(昭和52年)には当時のスーパーカーブームを背景に「スーパーカーフェア」と題した特別展を実施し、1977年8月の月間入場者数が83,050人を記録した。1979年(昭和54年)11月、「第1回全国ロボット大会」の会場となり、大会最終日の日曜日には1日の入場者数が15000人とこれまでの最高記録となった。 また1979年(昭和54年)は日本科学技術振興財団の創立20周年、科学技術館開館15周年にあたり、これを記念してC棟とD棟の間に3階建ての展示室の増築が決定した。また「ミュージアムショップ」が1階に開設された。
このような改革の実行と企画イベント開催により、1976年度の年間入場者数は約60万人、1980年度は約85万人と増加傾向に転じた。
1987年(昭和63年)、NHK総合テレビの「地球大紀行」の放映と並行して「NHK地球大紀行展」が開催された。スミソニアン自然史博物館所蔵の隕石、鉱物、化石などが展示された。会期中、約2か月間で、20万人が訪れた。
1991年(平成3年)、高校の理科教師であった後藤道夫が「理工系離れ」に危機感を持ち、日本物理教育学会の主催で「中学・高校生のための科学実験講座」を開催した。 日本科学技術振興財団からの共催の申し出でと、科学技術庁からの援助も決まり、1992年(平成4年)より「青少年のための科学の祭典」と改題し、東京会場は科学技術館で開催されることになった。年々規模が拡大し、1995年は全国9か所での開催となり、この年より科学技術館で行われる「青少年のための科学の祭典」を全国大会とした。
1994年(平成6年)、科学技術庁長官であった田中眞紀子が、科学技術館を視察した。このとき、田中は科学技術館の展示について「甘口のカレーライス」「これでは子供たちの理工系離れは止められない」と批判した。
これを受けて日本科学技術振興財団は5階フロアを中心とした約2400m2の展示面積のリニューアルを計画、予算15億円を計上した。検討の結果、「テーマプロデューサー制」が導入された。これは職員や展示専門会社が企画設計するのではなく、従来の概念を覆すような意欲的な人をプロデューサーに指名して展示方法を提案する方法である。当時、東京大学助教授であった下條信輔を総括ディレクターとして、餌取章男、戎崎俊一、佐伯平二、霜田光一、森田法勝、米村でんじろうがテーマプロデューサーとして参加した。
1995年(平成7年)8月から改装工事が始まり、1996年(平成8年)4月、「FOREST(フォレスト)」がオープンした。この展示は科学的思考を養うため「遊び」「創造」「発見」を重視し、個々の展示がいずれかに焦点をあてまた他の展示と関連していたりする多義性をもたせるようになっている。この多義性という考え方を表現したものとして「FOREST」と命名された。
2006年(平成18年)4月より、愛・地球博でデモンストレーション展示されていたHRP-2およびパラサウロロフス型の恐竜ロボットの常設展示が開始。4月20日、内閣総理大臣小泉純一郎が視察に訪れた。12月1日には、「鉄の丸公園1丁目」がリニューアルオープンした。
2007年(平成19年)に、累計入館者が、2500万人に達した。2008年(平成20年)8月20日、4階B室に全天周立体ドームシアター「シンラドーム」がオープンした。MDGRAPE-2が映像システムに接続されており、リアルタイムシミュレーションをそのまま出力できる。国立天文台や理化学研究所での研究成果の発表の場としても活用されている。
実験教室や工作教室による、会員制の理科教育活動。小学校3年生から高校3年生が対象。
建物1階に大小11室のイベントホールがあり、貸出施設としてイベント等の会場として活用されている。
地下には410名収容の劇場型のホールであるサイエンスホールがあり、アニメ・声優イベントで多く利用される傾向にある。
科学技術館の2階および3階の一部にテレビ撮影用スタジオがある。日本科学技術振興財団はテレビ事業として「東京12チャンネル(現:テレビ東京。当時は同財団のテレビ事業本部の「愛称」として名称が存在)」を経営しており、科学技術館の展示施設の一部、「見学できるテレビスタジオ」として意図されたものであった。
1970年4月に、千代田ビデオが設立され、スタジオ運営業務が移管された。またテレビ事業は経営難から1973年に、日本科学技術振興財団から切り離され、独立企業としての「東京12チャンネル」として再出発した。
その後、千代田ビデオの本社スタジオとして利用され、TBSのワイドショー『3時にあいましょう』(全期間)と『スーパーワイド』(1992年10月 - 1994年3月)がこのスタジオから生放送されたほか、『料理天国』(TBS)、『アイ・アイゲーム』『TVプレイバック』(共にフジテレビ、千代田企画制作)などの番組の収録に使用された。なお、TBSは館内に第二制作局(1979年12月から1985年6月)→社会情報局(1985年6月から1996年5月)の部署の一つである千代田分室も設置していたが、1994年10月のTBS放送センター移転を機にそちらへ集約されたため撤退している。
2018年時点でも、『はやく起きた朝は…』(フジテレビ、千代田企画制作)や東京メトロポリタンテレビジョン(TOKYO MX)の一部番組収録などに使用されている。
上からみると建物を5つの放射状に配置した星形になっている。星形にならんだ各棟は正面から右回りにB棟、C棟、D棟、E棟、F棟と呼ばれる。各棟の中央の建物がG棟、またB棟と垂直に交わるようにA棟(事務棟)があり、これが建物正面となる。中央棟にあたるG棟に業務用エレベーター、エスカレーター、階段が集中配置されている。建設時には、A棟、B棟、C棟、F棟の間の空間に屋外展示スペースが存在していた。
1972年よりB棟、C棟、D棟、E棟、F棟の間にあった各スペースに建物が逐次増築されている。建物1階には大小11室のホール、センターホールがあり、それぞれ連結して使用することができる構造となっている。特別展やイベントの規模に応じて単体または複数のホールを使用する。地下2階には劇場型ホール「サイエンスホール」がある(座席数410席)。テレビ撮影用スタジオがA棟とB棟の2階に当たる位置に設置された。
科学技術館の建設にあたって、「科学技術館建設委員会」が設置され、1960年(昭和35年)8月に最初の委員会が開催された。
建築設計は、科学技術館建設委員会の委員でもあった東京大学の松下清夫、平山嵩の両氏に依頼された。設計に関しては以下のような制約条件が課された。
松下、平山は、シカゴ科学産業博物館、シアトル万国博覧会会場、ドイツ博物館など、欧米の博物館の視察した上で、以下のような提案を行った。
建物全体を上からみて、中央棟を核として各棟を5つの放射状に配置し、「科学の『手』」を象徴する平面設計のコンセプトになった。これは「限られた敷地で、展示スペースとなる壁面をできるだけ多くする」「敷地予定が台地の上にあり、どこからも良く見えるため、どの方向からも正面に見える裏の無い建物にしたい」「立地予定地が公園内であったことから、公園のどこの方向からも入館できる」ように考えられた結果であった。しかし、建設地が皇宮警察職員宿舎跡(現在地)に決定し、公園中央での建設ではなくなったため玄関側を定める必要が生じた。5つの放射する線の1つに横線が接するような形で建物正面となるA棟(事務棟)を設け、上空平面からみると漢字の「天」の字のような、建物の姿に決定した。
建物外壁には六芒星に打ち抜きされた、「プレキャスト・コンクリート・パネル」がほぼ全面に使用された。これは平山嵩のアイデアで、外面から建物が一見して何階建てなのかわからなくすることで、建物を大きく見せようという設計意図であった。
プレキャストパネルは、標準寸法が長さ3450mm、幅975mm、リブ厚180mmで、凸面を外向きに取り付けられた。工場で製造されたパネルを現場の大型クレーンで屋上に釣り上げ、取り付け位置には順番に小型クレーンで建込みして取り付けられた。目地はモルタル詰めされ、最後にセラスキン吹付けで仕上げを行った。
1961年(昭和36年)11月に、建設計画が承認され、建設請負業者として鹿島建設が決定した。1962年(昭和37年)3月に設計完了し、6月に着工。1964年(昭和39年)4月9日に建物が竣工した。鹿島建設で初めて水平タワークレーン(ブーム長:30m)を使用し、作業効率向上を狙った。
1972年度に、B棟とF棟の間、F棟とE棟の間の空きスペースに平屋2棟を増築した。1978年度にB棟とC棟の間に平屋を増築。日本科学技術振興財団の創立20周年として、1982年度にC棟とD棟の間に地下ピロティーを含む地上2階建てが、記念展示室として増設された。翌1983年度にD棟とE棟の間に平屋1棟が増設。財団の創立30周年として、C棟とD棟の間にある記念展示室の3階から5階部分が増築された。
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