![嘉門タツオ 嘉門タツオ](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/26/Tatsuo_Kamon_20191212006h.jpg)
嘉門 タツオ(かもん たつお、1959年(昭和34年)3月25日 - )は、日本のシンガーソングライター。さくら咲く所属(クラッチ.と業務提携)。かつては松竹芸能、アミューズ、代官山プロダクションに所属していた。大阪府茨木市出身。血液型はA型。
旧名:笑福亭 笑光(しょうふくてい しょうこ)、嘉門 達夫(読み同じ)。本名:鳥飼 達夫(とりかい たつお)。
1980年代に登場したシンガー・ソングライターで、以降、多くのコミックソングで笑いを提供してきた。代表曲に『替え唄メドレー』、『小市民』、『鼻から牛乳』などがある。
茨木市立中条小学校、茨木市立養精中学校、大阪府立春日丘高等学校を卒業。
中学生の頃、落語家・笑福亭鶴光のラジオ番組『MBSヤングタウン』(以下、『ヤンタン』)の常連ハガキ投稿者となった。高校在学中の1975年、憧れのラジオパーソナリティである鶴光に16歳で落語家の見習い弟子として入門。17歳の頃、鶴光から“笑福亭 笑光”(しょうふくてい しょうこ)の名を授かり、所属事務所は松竹芸能となる。
1978年、19歳で『ヤンタン水曜日』にレギュラー出演するなど芸能活動を行うが、“鶴光に叱られては飛び出し、謝っては戻る”ということを繰り返した。1980年の秋からのレギュラー番組も決まっていたが、先の行動を繰り返した上に、鶴光とその妻や兄弟子の學光に対して時折反抗的行動に出ることもあったため、鶴光一門より改善が見られないと判断されたことにより、鶴光・學光と鶴光の妻との協議の結果、同年についに鶴光から破門を宣告され、松竹芸能との専属契約も解除され、担当番組も全て降板。21歳から日本放浪へ旅立ち、ヒッチハイクをして佐渡島(新潟県)、北海道、信州(長野県)、与論島(鹿児島県)などを巡った。
1981年、日本放浪の旅から戻った後、芸能事務所・アミューズの大阪事務所の契約社員として雇われた。本社所属のサザンオールスターズ関連の仕事を担当したことで、サザンの桑田佳祐と親しくなり、桑田出演のステージに歌手として出演させてもらった後、彼の助言を受けて芸名を“嘉門達夫”に改名。1982年10月に『ヤンタン』に復帰するなど、芸能界で再起を目指した。
1983年に自作の「ヤンキーの兄ちゃんのうた」をリリースし、大阪有線が主催する読売テレビ全日本有線放送大賞新人賞とキャンシステムが主催するTBS有線大賞新人賞を受賞した。また1984年6月には、『水曜スペシャル 川口浩探検隊』のヤラセ演出を皮肉った「ゆけ!ゆけ!川口浩!!」を発売しヒットした。以後飛ぶ鳥落とす勢いでヒットを生み出していく。
1989年7月、プロデューサーの新田一郎がアミューズから暖簾分けで設立していた代官山プロダクション(代プロ)へ移籍し、レコード会社もコロムビアからビクター音楽産業へ移った。
1991年にリリースした「替え唄メドレー」が82万枚(または84万枚)を売り上げて自身最大のヒット曲となった。1992年末の『第43回NHK紅白歌合戦』に「替え唄メドレー〜紅白バージョン」で紅白初出場を果たした。また、1993年には日本武道館での公演も行った。
1997年、ビクターから代プロの自社ブランド「DAIPRO-X」にレコード会社を移り、移籍第1弾「新・替え唄メドレー」を発売した。
2001年、トレードマークのオールバックを黒髪から金髪へとイメージチェンジした。同時期にジョギングをして体重も13kg絞った。
2002年発売の『ガッツ石松伝説』や同じく2003年の『明るい未来』など、話題作を続けて発表。2003年4月、デビュー20周年記念アルバム『達人伝説』を発売。同年6月には初のDVDメディア作品『達人伝説』を発売。また2005年には、東京都立翔陽高等学校校歌「はばたけ!未来へ」の作詞と作曲を担当した。
2009年9月、所属の代官山プロダクションが倒産し、個人事務所「さくら咲く」を設立して独立した。この頃よりギターをTakamineから、K.Yairiのカスタムメイドギターへ変えている。
2013年7月、芸能生活30周年を記念して万博記念公園で「真夏のカモン!EXPO!歌と笑いと食のワンダーランド」を開催した。明石家さんま、桂雀々、北野誠、ワハハ本舗の久本雅美と梅垣義明、スターダストレビュー、きたやまおさむ、押尾コータロー、ET-KINGら芸人や歌手仲間が多数出演した。
2017年3月25日、58歳の誕生日より、名前の部分を片仮名にした“嘉門 タツオ”に改名している。
2022年8月5日、急性膵炎で緊急入院。15日、退院。27日、東京・目黒のブルース・アレイ・ジャパンで行われた「39(サンキュー)ライブツアー 2022夏」で復帰。
2023年1月後半、飲酒運転事故を起こしたため、同月以降はレギュラーラジオ番組の終了や、予定されていたライブ等の活動を休止した。4月18日に自身の公式サイトを通じて免許取消の行政処分を受けたことを明かし、今後、免許の再取得はしないと宣言した。
2024年2月10日、65歳の誕生日にあたる同年3月25日にライブを開催し活動再開することを発表。3月25日、ライブ「反省と叱咤の会」を行い、活動を再開させた。
旭屋書店に務める父、母のもとに長男として生まれ、妹と弟がいる。10歳の頃、ザ・フォーク・クルセダーズの楽曲『帰って来たヨッパライ』の世界観に影響を受け、音楽に目覚めた。小学校6年時にラジオを買ってもらい深夜放送に熱中するようになる。中学生になると先述の笑福亭鶴光のラジオ番組『MBSヤングタウン』のハガキ投稿者となり、3枚に1枚は読まれる常連となった。この頃から「ラジオで喋ったりする人になりたいなぁ」と漠然とではあるが考え出す。
中学2年生になると親戚よりクラシックギターを譲り受け、ギターの練習を始める。最初に弾いた曲は「瀬戸の花嫁」。翌年の正月にお年玉の17,000円でSONOROのアコースティックギターを購入。また友人(中沢君)とオリジナル曲の制作も始める。初めて作ったオリジナル曲は「小さなすみれの物語」。しかしそれより以前に「空飛ぶロッキーくん」という楽曲を作り、それが初めて作った曲だとも発言している。フォークデュオの「あのねのね」に影響を受け、カセットテープレコーダーを用いてテープに自作曲の録音に熱中する。前述の友人(中沢君)とともにアルバム・カセットを製作する。中学高校時代で60曲の楽曲を制作する。
高校在学中の16歳の頃、落語家・笑福亭鶴光に弟子入りを志願しようと放送局の楽屋口へ訪れるも言い出せずにいた。その後、意を決して友人二人(高倉君、炭窯君)とともに千里セルシーでのテレビの公開録画を終えた鶴光が乗る車を、友人のバイクの後ろに乗せてもらって追跡した。当時、大阪の南森町にあった読売テレビの前に横付けされ車から降りてきた鶴光に駆け寄り、弟子入りを申し出た。当時27歳の鶴光は「そぉーかー。じゃあ一回、親連れといでぇ」と電話番号を書いたメモを手渡した。そして後日、母親とともに鶴光の自宅を訪れ入門することとなった。
弟子入り以降は、在学中であることから毎週土日や平日の放課後に師匠の家に通う「通い弟子」を務め、家事や雑務をこなした。高校卒業後は鶴光邸へ住み込み、兄弟子の學光とともに内弟子となった。19歳でレギュラー出演した『ヤンタン水曜日』では、『笑光の涙の内弟子日記』というコーナーを持たせてもらい、弟子修行の辛さをネタにした弾き語りがリスナーに受けた。先述の鶴光から破門された理由にはもう一つ、“当時、若気の至りで鶴光の妻に反抗的な態度を取り続けた”というものもあった。
日本放浪の旅に出たきっかけは、破門直後に一門の先輩(叔父弟子)である笑福亭鶴瓶から「人生経験を積むために旅に出ろ」とアドバイスを受けたことである。日本放浪の旅は、まず能登半島を経由し佐渡島へと渡った後、あのねのねを頼って一旦東京へ向かった。あのねのねのライブにゲスト出演させてもらい、その夜の打ち上げで北へ向かうことを宣言し、二人から餞別を受け取り北海道へと向かった。道内では利尻島、礼文島をヒッチハイクで周り、約40日ほど経ったころ大阪へと戻る。
その後、北志賀竜王高原「ホワイト・イン・北志賀」で冬季のアルバイトをするため信州へと向かう。そこでは夜ごとパーティが行われ、何かやるよう声がかかった。中高生時代の曲作り、5年間の弟子生活での経験を活かし、現在のスタイルへと繋がる楽曲製作を始める。このことにより歌手になろうと決意する。スキー場や翌年の夏には与論島でアルバイトをしながらコミックソングの面白さを認識した。
1981年、日本放浪の旅を終えて大阪に戻ると、ヤンタンの初代プロデューサーである渡邊一雄の勧めで「次は海外へ放浪しようか」と考え、渡航資金を貯めるためアルバイトをしていた。そんな中、先のスキー場で作った曲がアミューズの大里洋吉会長に評価されたことから、当時開設されたばかりのアミューズの大阪事務所で働くことになった。
同事務所社員として、関西地区の有線ラジオなどへサザンオールスターズの新曲「チャコの海岸物語」の売り込みを担当。プロモーション活動に奔走した結果、同曲のヒットによりプロモーターとして評価され、この縁でサザンの桑田佳祐と親しくなった。サザンが関西でコンサートをする時の打ち上げなどに参加したり、桑田の別働バンド「嘉門雄三&VICTOR WHEELS」の前座で10分間、歌手として出番を与えられるなどした、。
桑田に自らの芸名を考えてほしいと依頼すると、彼から「カメリア・ダイヤモンドという芸名はどうか?」と提案された。しかし嘉門が拒否したため、桑田が別の活動時に使用していた「嘉門雄三」の苗字を譲り受け、以降、“嘉門達夫”を名乗ることになった。
高校2年生の頃、所属する剣道部の女子マネージャーと剣道部の部室でファーストキスを経験する。デートにも行くようになり初めて二人で観に行った映画は「エマニエル夫人」であった。しかし交際半年後、別れを迎えることとなる。喫茶店に入り別れを告げることとなったが、店内に偶然「エマニエル夫人のテーマ」が流れ二人で涙した。
1992年、一般女性との婚約を発表するも、のちにこれを解消。1996年には、ファッションモデルとの交際が報じられる。
2007年、友人を介して出会った6歳年下の眼科医の女性と交際を始め、2008年11月30日に嘉門は49歳、相手は43歳で結婚した。2009年2月に披露宴と結婚会見が行われ、東京と大阪で行った披露宴では明石家さんま、久本雅美など多くの芸能関係者に盛大に祝福された。お互い食べることが好きなため、結婚後は夫婦で色々な飲食店を巡った。しかし2022年9月15日、14年間連れ添った愛妻が脳腫瘍により57歳で死去した(同年11月に妻の死を公表)。
1986年、27歳で自動車運転免許を取得。最初に購入したのがアコードエアロデッキであった。免許が交付される試験場に納車してもらい、免許を受け取ってすぐに新車を運転して帰った。2年後の29歳の時に東京にも部屋を借り、モスグリーンのミニクーパーを購入し東京での移動に使用する。
その後、大阪の車もアコードからユーノスロードスターに乗り換えた。さらにその後、友人である高見恭子より黒のオープンカーのポルシェを売りたいとの申し出があり購入する。そこから15年間、黒いポルシェばかり4台乗り換えることとなる。
2001年頃、自身の音楽に迷いが生じ、どこに向かって進めばよいのか迷っていた。自分という「入れ物」の見た目を変えれば、生まれる「唄」も変わるのではないか?と思い、黒髪を金髪にするイメージチェンジを図った。ヘアメイクを担当している黒須氏により行われ、落ち着きと風格ある金髪をイメージし、まず脱色、そこに青を入れて一度流し次に茶色をいれることで実現している。ヘアカット、ヘアカラーは2〜3週間に1度行なっている。
部活動は、小学校時代には剣道を習った。中学校ではテニス部に所属していた。高校では再び剣道部に入部し、剣道を再開した。
小学校6年時に日本万国博覧会が開催され、21回足繁く通いピンバッジを64個収集して学年3位となった。
2005年1月5日、アポロ・シアターで「アマチュアナイト」に出演した。当時流行の『ラストサムライ』と『キル・ビル』からサムライ姿での切腹をパントマイムした後にギターでブルースを歌う予定が、歌に入る前のパフォーマンスでブーイングを受け、退場となった。
2021年9月24日、文化人放送局の特番「緊急公開!高市早苗エンタメ業界と意見交換会!」に出演。高市が奈良県出身であることから、「タラリ〜♪奈良から総裁〜♪」と持ち上げて見せた。
アコースティックギター
ここではレギュラーでの出演経験がある番組のみを列記する。
ここではレギュラーでの出演経験がある番組のみを列記する。
「替え唄メドレー(1・2)」が大ヒットした1991年・第42回にも応援団として出演依頼があったが、白組での出演でないことを理由に辞退したと嘉門は語っている。
注意点:出演順は「出演順/出場者数」で表す。
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