![高安 (八尾市) 高安 (八尾市)](/modules/owlapps_apps/img/nopic.jpg)
高安(たかやす)は、大阪府八尾市内の地域名。八尾市内では最東部に位置する。
玉串川沿いの旧大和川堤防跡の東から生駒山地・奈良県境にかけての広範囲にわたる。 ひとつの町名でなく、いくつもの町・字が地域に含まれる。現在の八尾市の行政区では高安地区、南高安地区に分かれている。
旧くは、河内国高安郡、さらには中河内郡高安村(北高安村、中高安村)および南高安町(南高安村)とよばれた地域に該当する。
現在では旧高安郡外の地域でも近鉄高安駅西側周辺は俗に高安と呼ばれている。逆に旧高安郡地域内でも現在は高安とは呼ばれない地区がある(後述)。
本頁では旧高安郡の地域について説明し、併せて旧高安郡地域に存在した自治体および南隣の大県郡から編入された神宮寺地区についても記載する。
かつて高安地区の西側には河内湖とよばれる大きな湖があった。次第に湖には土砂が堆積して陸地となるものの、低湿地であり、かつ河川の氾濫が頻繁に起きたため、長らく居住には向かなかった。 そのため一部を除き生駒山地の麓の少し高い位置に複数の集落が形成された。
古墳時代には在郷豪族によって大小さまざまな墳墓が作られ、「心合寺山古墳」のような大きなものの見受けられるが、多くは千塚地区周辺に小さなものが多数存在し、現在では「高安古墳群」とよばれている。このころには各々の集落を結ぶように道が出来、後に在原業平伝説と結びつき、「業平道」とよばれるようになる。
飛鳥時代ごろは、このあたりは物部氏の勢力範囲で、権勢を争った蘇我氏とこのあたりで戦を行なった。そのとき、蘇我氏方に付いた聖徳太子は戦勝祈願のため、秦河勝に教興寺を建立させたといわれている。
『延喜式』神名帳に記される郡内の式内社。
中世になると、仏教信仰の広まりに伴い、高野山への参拝道として京都と高野山を最短で結ぶ「東高野街道」が作られ、高安地区内を南北に貫いている。集落沿いや近くを通るのではなく、低地と山地の間にほぼまっすぐにつけられた。
戦国時代から江戸時代の初期にかけて、高安はしばしば戦場と化した。特に教興寺の戦いでは大規模な戦闘になった。
大坂夏の陣の後は支配者が頻繁に入れ替わるが、最終的には高安郡の大部分が淀藩の所領となり、明治維新を迎えている。
幕末の時点では本地域は概ね河内国高安郡に属した。「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。●は村内に寺社領が、○は寺社除地が存在。(14村)
高安地域は八尾市の東側の大半を占める。その中央付近を南北に国道170号線が貫ぬいている。その西側は概ね平坦であり、田畑と住宅地が混在している。東側は急峻な山地(生駒山地)で、高安山が地区内の最高峰である。国道170号線の西側を恩智川が南から北へ流れており、地域内の生駒山地からいくつかの小河川が合流している。
かつて旧河内国高安郡には、万願寺、楽音寺、大竹、水越、神立、千塚、服部川、山畑、大窪、郡川、黒谷、教興寺、垣内、恩智の14ヶ村が存在し、現在でも万願寺を除いて旧村名が町・字名として用いられている。 部分的に新しい町名表記に変わっている。
旧村落は農業用水・生活用水確保の観点から生駒山地から恩智川に注ぐ小河川沿いの谷間に形成され、村の境界は概ね尾根に沿い、ほとんどの村が東西に細長くなっている。標高20~100メートル程度の緩斜面に数百のため池が分布する。扇状地を利用して江戸時代から明治時代までは木綿栽培、明治時代以降は花きや植木栽培が盛んである。
近鉄大阪線や近鉄信貴線が通り交通の便も良いことから住宅開発が進んだが、生駒山地を含むことから八尾市の他地域に比べると人口密度は低い。
八尾市南東端の神宮寺地区は旧大県郡に属していたため、通常は高安には含まれない。
鉄道
バス
主な道路
現在の住所表記では、西高安町、楽音寺、大字楽音寺、大竹、大字大竹、神立、大字神立、水越、大字水越、千塚、大字千塚 の各地域に該当する。
国道170号線(大阪外環状線)沿いより西側の西高安町は、もとは楽音寺、大竹、水越の一部だった。かつては集落が存在せず、現在も国道沿いが商店になっている以外は大半が田畑と工場地である。大阪外環状線新設による地域の分断と新住所表記施行に伴い新設された地名である。なお、ここの西にある上尾町は旧河内郡三野郷村だった地域である。
西高安町
楽音寺
大竹
水越
神立
千塚
現在の住所表記では、大窪、大字大窪、服部川、大字服部川、山畑、大字山畑、郡川、大字郡川、東山本町、東町、東山本新町、高安町北(4丁目)の各地域に該当する。
旧万願寺村のみ、その名が現在の地名に引き継がれず、現在の東山本町、東山本新町の一部となっている。高安地域としてはここのみ旧くから立石街道沿いの低地に集落ができていた。このあたりは近鉄河内山本駅に近く、駅周辺を含めたいわゆる山本地域に包括される。 東町はかつては大字大窪の一部であった。
その南側、東山本新町、高安町北地区は、今では住宅地に変貌しているものの、かつては集落が存在せず、万願寺、服部川、郡川の一部であった。
東山本町
東町
東山本新町
高安町北
服部川
山畑
大窪
郡川
現在の住所表記では、教興寺、大字教興寺、黒谷、大字黒谷、垣内、大字垣内、恩智北町、恩智中町、恩智南町、大字恩智、高安町北(1〜3丁目)、高安町南の各地域に該当する。
高安町北、高安町南地区は、今では住宅地に変貌しているものの、かつては集落が存在せず、教興寺、黒谷、垣内の一部であった。 ここの西にある近鉄高安駅は山本高安町1丁目(旧若江郡山本新田村)にあり、厳密には高安地域に含まれないが、周囲の地域、山本町南、山本高安町、中田、刑部、柏村あたりは一般的に高安の一地域と認識されている。
恩智地区は広義の高安地域とは区別されることが多い。近鉄恩智駅から恩智神社にかけての旧街道沿い周辺は住宅地になっているが、その南北は田畑が残っている。
高安町北、高安町南
黒谷
教興寺
垣内
恩智北町、恩智中町、恩智南町、恩智
南高安村発足時に大県郡から編入された地域。旧神宮寺村。古来より恩智村との結びつきが強かったとされる。
高安では玉祖神社の氏子地区11か村で毎年7月中旬に夏祭りが行われる。各村単位で「ふとん太鼓」を担いで村中を練り歩き、神社に奉納される。北高安地区は松の馬場(高安中学校前の玉祖神社参道)に集まり、中高安地区は中高安小学校に集まり合同で祭りが行われ、地域の風物詩となっている。ふとん太鼓以外に「地車」を所有している村もある。
高安地区には古くからさまざまな伝説や言い伝えが残っている。
平安時代の歌人・在原業平が大和国から高安郡神立村へ八百夜も通いつめたという、『業平の高安通い』として伝えられている。
伝説の概要
在原業平が大和国から十三峠を越えて玉祖神社に参拝したおり、神立茶屋辻にあった福屋という茶店の娘、梅野を見初め、しばしば通うようになった。
ある日、いくら笛を吹いて呼んでも娘が家から出てこないため、不思議に思い東の窓から中を伺うと、手ずからご飯を器に盛って食べている娘の姿が見えた。業平はその姿を見てすっかり興醒めし、持っていた笛を置いて逃げるように帰っていった。娘は悲しみのあまり近くの池に身を投げて死んでしまったという。
この言い伝えにより、神立地区では母屋の東側に窓を作ると縁談が来なくなるといわれていた。また業平が残していったとされる笛が玉祖神社に伝わっている。 また、在原業平が通ったとされる現在の天理市から八尾市に至る道筋を『業平道』ともいう。なお、業平道は複数のルートが伝えられている。
この伝説に関しては、『伊勢物語』、『大和物語』、『河内名所図会』、『河内鑑名所記』、さらに「井筒」という題名の能の演目などで伝えられるものの、表現や解釈がかなり異なり、高安は斑鳩町の高安ではないかという説も存在する。
俊徳丸は、高安郡山畑村に住んでいたとされる伝説上の人物である。
伝説の概要
俊徳丸は四天王寺の聖霊会で稚児舞楽を演じることとなった。この舞楽を見た隣村の蔭山長者の娘は俊徳丸に一目惚れし、二人は恋に落ち将来を誓う仲となった。
しかし俊徳丸は我が子を信吉長者の跡継ぎにしたいと願う継母から呪いをかけられ、失明させられてしまったうえ病気になり家から追い出されてしまった。俊徳丸は何とか四天王寺に行き着きつくものの物乞いする状態にまで成り果てた。この話を聞いた蔭山長者の娘は俊徳丸を探しだして再会した。二人が観音に病気治癒の祈願したところ、俊徳丸の病気は治り、その後二人は夫婦となって蔭山長者の家で幸福な人生を送ったという。
それに引き換え、山畑の信吉長者の家は信吉の死後、家運が急に衰退し、最後には蔭山長者の施しを受けなければならなくなったという。
上記は説経節『しんとく丸』の概要である。 謡曲『弱法師』、人形浄瑠璃・歌舞伎の『摂州合邦辻』等でも俊徳丸が主人公であるが、少しずつストーリーが異なっている。
俊徳丸が高安から四天王寺へ通ったとされる道筋は「俊徳道」と呼ばれ、沿道の広範囲にわたり『俊徳』と冠される施設・旧跡などが点在する。
山畑地区に『俊徳丸鏡塚』と呼ばれている塚がある。本来は高安古墳群に含まれる横穴式石室古墳であるが、いつしか俊徳丸の伝説と結びつき、石室入口前には歌舞伎俳優実川延若が寄進した焼香台がある。
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