![ゴッドファーザー (映画) ゴッドファーザー (映画)](/modules/owlapps_apps/img/nopic.jpg)
『ゴッドファーザー』(原題:The Godfather)は、1972年に公開されたアメリカ映画。監督はフランシス・フォード・コッポラ。
マリオ・プーゾによる同名小説の映画化作品で、三部作「ゴッドファーザー・シリーズ」の第一弾。2004年のデジタルリマスター版公開時における日本でのキャッチコピーは、「権力という孤独 愛という哀しみ 男という生き方」。
家族の愛と絆、義理と人情、忠誠と裏切り、金と権力などが交錯するなかで揺れ動く人生の機微や人間社会の模様をイタリア系移民の裏社会を通して描き出した、一大叙事詩の第1章である。
20世紀半ばにおけるアメリカの移民社会やマフィア暗躍時代の実態をギリシア悲劇やシェイクスピアやドストエフスキーにも通ずる格調高い年代記としてまとめ上げられた脚本に、19世紀の豪華なオペラ様式や黒澤明の影響を示唆させる複数の対照的要素が連続的および並列的に配置されたダイナミックな物語の構図、イタリア系を中心とした個性的な俳優陣によるリアルで重厚な演技、忠実に再現された戦後間もないアメリカやシチリアの雰囲気を秀逸なカメラワークと郷愁的色調やフィルム・ノワールならびにドイツ表現主義的陰影に満ちた照明で捉えた芳醇な映像美に、ニーノ・ロータによる叙情的な旋律の劇伴など、その画期的な作風で新たな映画芸術を確立した。
公開されるや当時の興行記録を塗り替える大ヒットになるとともに評論家や映画関係者からも高い評価を受け、同年度のアカデミー賞において9部門にノミネート、そのうち作品賞・主演男優賞・脚色賞を受賞、劇伴は同年度のグラミー賞 映画・テレビサウンドトラック部門を受賞した。
テレビ放送の普及による米国映画産業の衰退を打開したブロックバスター映画の発端となる作品であると同時に、芸術的なこだわりが強い映画であっても興行的に成功できることを世界に証明した。また、監督から脚本家から俳優や音楽担当に至るまで多くのイタリア人が製作に関与した映画であり、これまでのハリウッドに当然のように蔓延していたホワイトウォッシング(白人以外の役を白人が演じること)を打開した先駆的作品とも考えられている。
1990年には、「文化的、歴史的、また芸術的に重要である」としてアメリカ国立フィルム登録簿に永久保存登録された。2006年には、フランシス・フォード・コッポラ監督および撮影監督のゴードン・ウィリスによって、ネガフィルムの大規模な修復プロジェクトが1年半かけて行われ、その出来も高い評価を得た。
「ゴッドファーザー」(またはゴッドマザー、ゴッドペアレンツ)とは、日本語版では原作、映画共に「名付け親」と訳されているが、正式にはキリスト教(特にカトリック)文化において洗礼式に選定される代父母のことであり、その後の生涯にわたって第二の父母として人生の後見を担う立場である。すなわち、タイトル『ザ・ゴッドファーザー』は、主人公のドン・コルレオーネが幅広く一族郎党のボスであることを暗示している。
第二次世界大戦終戦直後の1945年。ニューヨーク五大ファミリーの一角で、最大の勢力を誇るイタリア系マフィア「コルレオーネ・ファミリー」の邸宅では、ドン・コルレオーネ(ヴィトー)の娘コニーの結婚式が盛大に開かれていた。ドンには他に3人の息子と1人の事実上の養子がおり、その中で末弟であるマイケルはただ一人裏社会には入らずに大学を経て軍隊に入り、戦場での活躍で英雄扱いを受けていた。式に参列したマイケルは婚約者のケイを家族に紹介し、祝福される。その華やかな雰囲気の一方で、ヴィトーは娘を凌辱された葬儀屋の男の請願を執務室にて受け、困惑しながらもその報復を部下に指示する。また、自らが代父となった歌手のジョニーからも懇願を受け、弱気なジョニーを叱咤激励しつつ、事実上の養子であり組織の弁護士かつ顧問(コンシリエーレ)であるトム・ヘイゲンを介して、ジョニーを干そうとしていたプロデューサーのウォルツを脅し、彼が大事に育てていた雄馬の首を切り取り、彼のベッドへと放り込ませる。
ある日、五大ファミリーのタッタリア・ファミリーの客分で麻薬密売人のソロッツォが、政治家や司法界への太い人脈を持つコルレオーネ・ファミリーに麻薬(ヘロイン)の取引を持ちかけてくる。麻薬取引を固く禁じるヴィトーは拒絶するが、長男で跡継ぎ(アンダーボス)のソニーは乗り気の姿勢を見せたために、ソロッツォ(及びタッタリア)は邪魔なヴィトーを消せば取引は可能と考える。ソロッツォはヴィトー襲撃事件を引き起こし、ヴィトーは複数の銃弾を受けて昏睡状態となるも一命を取り留め、思惑が外れてしまう。一方のコルレオーネ・ファミリーではソニーが報復を訴えるも、全面抗争を避けるため様子を見ることになる。そんな中、夜半の病院で、いまだ意識の戻らない父の見舞いに来たマイケルは、味方の護衛達が警察の指示で追いやられたと知り、敵の暗殺者が迫っていることに気づく。マイケルは機転を利かせて父を別室に移し、同じく見舞いに来ていたパン屋のエンツォと共に玄関で見張りに立ち、近づいてきたタッタリアの襲撃者たちを素通りさせる。間もなくタッタリアの依頼を受け護衛たちを帰らせたマクラスキー警部が病院に到着し、目論見を失敗させたマイケルの顔面を殴りつける。トムの機転で護衛問題は片付くが、再度父を狙われたことに激怒したソニーはタッタリアの跡継ぎブルーノを殺害し、ここに全面抗争が確定する。また、父を守る思いと怒りに燃えるマイケルは裏社会に入ることを決意して兄ソニーや父の盟友で幹部(カポ・レジーム)のクレメンザやテシオに相談する。そしてマイケルは、ソロッツォとマクラスキーとの会談に応じる振りをして、レストランでの交渉の席で二人を射殺すると、ケイに黙ったまま、組織と縁が深いシチリア島へ高跳びする。
その後もニューヨークでの抗争は熾烈を極め、コルレオーネ・ファミリーはソニー指揮の下でタッタリアに大損害を与えていた。コルレオーネの勝利が間近と見られていたが、そんな折に、ソニーは妹コニーがその夫のカルロより日常的に暴力を受けていることを知って激しく怒り、義弟カルロを問い詰めるために単身屋敷を飛び出してしまう。その隙を狙われ、ハイウェイの料金所にてソニーは刺客たちから短機関銃の集中射撃を浴びて無残に殺される。一方、シチリア島で知り合った現地の美女アポロニアと結婚し安穏とした生活を送るマイケルにも敵の手が伸び始めており、護衛役のファブリツィオの裏切りでアポロニアが爆死する。
意識を回復するもまだ体調は万全ではないヴィトーは息子ソニーの死にショックを受けつつ、タッタリアとの手打ちを決める。コルレオーネに次ぐ勢力を誇るバルジーニが仲介役となって五大ファミリーの会合が開かれ、その場でヴィトーは麻薬取引を部分的に認めつつ、残る息子マイケルの身の安全を要求し、タッタリアとの講和が結ばれる。その帰途、ヴィトーはトムに今回の騒動の黒幕はバルジーニだと指摘する。
ヴィトーは帰国したマイケルを正式にファミリーの跡継ぎにすることを決め、自らは相談役として退く。若く新参のマイケルに不安を覚える部下たちも多い中、マイケルは5年以内にファミリーを合法化して一部のシマは譲ると言い、また有能だが平時の人材と目する義兄トムを遠ざけ、ファミリーの仕事をしたがっていた義弟カルロを重用する。加えてマイケルはケイと再会して結婚し、2人の子供をもうける。しかし、コルレオーネ・ファミリーは落ち目だと内外にみなされ始めており、ラスベガスを新天地とする構想は、次兄フレドを預かっているラスベガスの有力者モー・グリーンとの対立で破綻する。また、死期が近いことを悟ったヴィトーは、マイケルに自分の死後にバルジーニが動き出すだろうと忠告し、さらに彼との会談を持ちかけてきた者が裏切り者だと指摘する。間もなくヴィトーは孫と庭の菜園で過ごしている際に心臓発作で亡くなり、その葬儀の場でテシオがバルジーニとの会談を持ちかけてくる。マイケルは会談の日を自らが代父(ゴッドファーザー)となる妹コニーの息子の洗礼式の日と定める。
洗礼式当日、マイケルは信頼するロッコやアル・ネリらに命令を下し、バルジーニを含めたニューヨーク五大ファミリーのドン全員と、モー・グリーンの同時暗殺を実行する。さらにテシオを粛清し、実は家庭内暴力が故意のもので、バルジーニにそそのかされてソニー暗殺計画の一端を担っていたカルロをも粛清する。
数日後、転居を控えたコルレオーネ邸に酷く取り乱したコニーが現れ、洗礼式の日に幼子の父親であるカルロを殺したこと、そもそも初めから殺すために手元に置く目的で重用していたことなどを指摘し、兄マイケルを人でなしと罵る。それを聞いて心配になるケイは事実かとマイケルに問うが、彼はこれを否定する。表面的には安堵の顔を浮かべるケイであったが、書斎に入ってきたカポ・レジームたちが新たなドン・コルレオーネとしてのマイケルに忠誠を誓う姿と、不安気な表情の妻の目の前でドアが閉じられるところで物語は終わる。
※吹替は上記の他、ジェームズ・カーンを羽佐間道夫が吹き替えたものもある。
本作は、その製作過程において、監督と会社の衝突や本物のマフィアからの脅迫など、さまざまなトラブルを抱えたため、完成まで茨の道を歩んだ。その舞台裏の物語は、2022年に『ジ・オファー / ゴッドファーザーに賭けた男』としてドラマ化された(主人公はアルバート・S・ラディ)。『ゴッドファーザー』の原作者マリオ・プーゾは晩年、「映画産業はベガスよりも、そしてマフィアよりも、ずっとクセモノだと思う」と述懐している。
イタリア系の小説家のマリオ・プーゾは5作目の長編小説の題材として、ニューヨークの犯罪ファミリーを選んだ。出版社からわずかな前払い金を受け取って書き始めた小説『マフィア』をパラマウント映画が知ったのは1967年、同社のスカウトが当時のパラマウントの製作担当副部長のピーター・バートに60ページの未完成原稿を紹介したときであった。バートはこの作品が「マフィアの物語をはるかに超越している」と感じ、プーゾに12,500ドルのオプションと、完成した作品を映画化する場合には8万ドルの報酬を約束した。プーゾの代理人はこのオファーを断るように言ったにもかかわらず、プーゾは無類のギャンブル好きで金に困っていたためこの契約を受け入れた。パラマウントの制作部長であったロバート・エヴァンスによれば、1968年初頭にプーゾと会ったとき、彼はギャンブルの借金を返済するために1万ドルを緊急に必要としていることを打ち明けていた。1967年3月、パラマウントは映画を作ることを期待して、プーゾの今後の作品を経済的に支援することを発表した。プーゾはパラマウントの経済的援助を得て執筆を進め、1969年3月10日に446ページからなる小説『ゴッドファーザー』を上梓した。原作は同年9月に売上げ1位を記録し、その後67週間にわたって「ニューヨーク・タイムズのベストセラーリスト」に留まり、2年間で900万部以上を売り上げることになる。
1969年、パラマウントは8万ドルでこの小説を映画化する意図を確認し、1971年のクリスマスに映画を公開することを目指した 。同年秋から1970年冬にかけて、ピーター・バートとロバート・エヴァンスは製作スタッフを探しにかかるが、有名なプロデューサーたちはマフィアを理想化したようなこのプロジェクトに加わることに消極的であった。一方で、独立プロデューサーたちが映画化権を持っている会社の上層部へ「我々にやらせて欲しい」と売り込みをかけてきた、ともエヴァンスは説明している。名前を上げているだけでもヘクト、ヒル、ランカスターがあり、バート・ランカスターは監督と主演を望んでいるとエヴァンスは聞かされていた。
結局映画のプロデューサーはその時点で1本のテレビ番組と1本映画の経験しかなかったアルバート・S・ラディが務めることとなり、1970年3月23日、パラマウントはラディの会社アルフラン・プロダクションを通して映画の製作を行うことを発表した。ラディが起用された理由は、スタジオ幹部がラディとの面会で彼に感銘を受けたことと、彼が映画を低予算で製作することで知られていたためであった。なかでもラディは面会のなかで、マフィアと関係の深いミケーレ・シンドーナと交流があった、パラマウントの親会社ガルフ&ウエスタンの重役チャールズ・ブルードーンに対して、「あなたの愛する人々についての震えるような映画を作りたい」と売り込み、彼に衝撃を与えた。
ロバート・エヴァンスは、この映画を「ethnic to the core」(根っからのエスニックなもの)で観客が「smell the Spaghetti」(スパゲッティを味わう)ほどにするために、イタリア系アメリカ人によって監督されることを望んだ。当時のパラマウントの最新のマフィア映画であった『暗殺』は興行成績が非常に悪かったが、エヴァンスはその失敗の理由をイタリア系のキャストやクリエイターがほとんどいないことだと考えていたためであった(監督のマーティン・リットと主演のカーク・ダグラスはイタリア系ではなかった)。 今回の新作では、第一候補としてまずセルジオ・レオーネにオファーしたが、レオーネは自身のギャング映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』に取り組むため、この誘いを断った。その後、ピーター・ボグダノヴィッチに声をかけたが、彼はマフィアに興味がなかったため断った。さらに、ブルードーンとパラマウントの社長であったスタンリー・R・ジャッフェは、有名な監督たちにオファーをしはじめた。ピーター・イェーツ、リチャード・ブルックス、アーサー・ペン、コスタ=ガヴラス、オットー・プレミンジャーといった面々であったが、マフィアをロマンチックに描くことは不道徳であるとして、全員にそのオファーを断られた。そこでピーター・バートは、低予算で仕事ができるイタリア系の監督として、最新作『雨のなかの女』が興行的に不発に終わっていたフランシス・フォード・コッポラを提案した。当時のコッポラは批評家からの評価は高かったが、興行的にはまだ成功を体験していない、いわばマイナーな監督であった。コッポラは当初、プーゾの小説がいかがわしく扇情的で「pretty cheap stuff」(かなり安っぽいもの)だと述べて、オファーを断った。しかし当時、コッポラのスタジオであるアメリカン・ゾエトロープは、ジョージ・ルーカス監督映画『THX 1138』の予算超過のためにワーナー・ブラザーズに40万ドル以上の借金をしており、また彼の経済状態の悪さと、ルーカスなどの友人や家族のアドバイスもあり、コッポラは最初の決定を覆して仕事を引き受けた 。コッポラは1970年9月28日に本作の監督として正式に発表された。コッポラは125,000ドルと劇場レンタル料の6パーセントを受け取ることに同意した。
しかし実際のところ、ピーター・バートとロバート・エヴァンスは、上層部の反対もあり、監督発表の48時間前でも、コッポラにするべきか決めかねていた。当時はマフィア映画が当たらないという風潮が根付いており、原作が人気を得ていたとはいえ、最初からこの映画を大規模な作品にすることは想定していなかったため、最終的にはコッポラという長編映画3本を連続してコケた監督にお願いするしかなかった。
『ゴッドファーザー』の製作以前、パラマウントは不遇の時期を過ごしていた。最新のマフィア映画『暗殺』(1968年)の失敗に加えて、パラマウントが製作または共同製作した『ペンチャー・ワゴン』(1969年)、『暁の出撃』(1970年)、『ワーテルロー』(1970年)といった直近の映画は、予算を大幅に超過していた。この映画の予算は当初100万ドルから250万ドルほどであったが、小説の人気が高まるにつれ、コッポラはより大きな予算を要求し、最終的には600万ドルから720万ドルほどとなったが、それでも大作規模に及ぶものではなかった。パラマウントの幹部は、映画を現代のカンザスシティに設定し、コストを削減するためにスタジオの映画セット(バックロット)で撮影することを望んだ。しかしコッポラはこれに反対し、小説と同じ時代、1940年代と1950年代に映画を設定したいと考えた。その理由は、主人公の海兵隊への勤務と帰還、企業国家アメリカの台頭、第二次世界大戦後のアメリカの様子を描きたかったためであった。原作はますます成功を収めていたため、コッポラの願いは最終的に叶えられた。スタジオの責任者はその後、コッポラにニューヨークとシチリアでのロケを許可した。
チャールズ・ブルードーンは、何度スクリーン・テストを行っても納得のいく役者を見つけられない製作陣に不満を抱いていた。実際にコッポラの優柔不断さとパラマウントとの衝突のために製作はすぐに遅れはじめ、1日あたり約4万ドルの費用がかかるようになり、スタジオ側は製作費に目を光らせるようになった。そしてパラマウントが試写を始めたとき、コッポラ監督の映画は退屈なものに見え始めていた。重厚な会話と穏やかな暴力表現に、経営陣は失敗作ではないかと心配になった。彼らは血と根性とセックスとドラッグを求めており、コッポラの使う控えめな威嚇と陰謀は、パラマウントの煙たいオフィスを納得させなかった。そのため、スタジオはコッポラを解雇すると脅し続け、彼自身も撮影中、自分はいつでも解雇される可能性があると感じていた。経験不足のため製作規模の拡大に対処できないことをエヴァンスが懸念して、いざとなればエリア・カザンに監督を引き継ぐよう頼んでいたことにもコッポラは気づいていた。
また、コッポラは、編集者のアラム・アヴァキアンと助監督のスティーブ・ケストナーが、自分を解雇させようと共謀していることを確信していた。アヴァキアンはエヴァンスに、コッポラが十分な映像を撮れていないため、シーンをうまく編集できないと不満を漏らした。しかしエヴァンスは、送られてくる映像に満足しており、共謀を疑っていたコッポラに2人を解雇することを許可した。コッポラは後に「私は『ゴッドファーザー』のように、先制攻撃として人をクビにした。私を解雇させようと最も努力していた人たちを、私は解雇したんだ」と説明している。さらに、監督の進退が問われたこの時期に、主演のマーロン・ブランドは逆に、コッポラが解雇されたら私も辞めると周囲を脅していた。
このようにコッポラは会社からの脅しを全く意に介さず、むしろそれを利用して反抗的に仕事を続けていたようだった。しかし、それでもパラマウントは代役監督を送り込み、映画の進行を監視することをやめなかった。これは、スタジオが脅迫行為を押し付けるだけでなく、プロジェクトの進行状況を把握するための手段でもあった。スタジオと良好な関係を保つために、コッポラは会社の要求をいくつか受け入れ、暴力的なシーンが追加された。たとえばカルロの浮気を知ったコニーが食器を叩き割るシーンは、このために追加された。そしてソニーが銃弾の雨あられに遭う象徴的なシーンのように、スタジオの見解を念頭に置くように心がけた。また、マイケルがソロッツォとマクラスキーを殺害するシーンを撮影したとき、撮影現場から聞こえる断末魔とパチーノの激しい演技が、代役監督とスタジオに彼らの心配が見当違いであることを納得させた。
1970年4月14日、プーゾがパラマウントに10万ドルと映画の利益に応じた報酬を契約に雇われ、映画の脚本に取り組むことが明らかにされた。コッポラは企画段階では原作にあまり興味を示していなかったが、後にこの素材に深いテーマを見出し、この映画は組織犯罪についてではなく、家族の年代記、アメリカにおける資本主義のメタファーであるべきだと決定し、文化、性格、権力、家族といったテーマを映画の前面に押し出したいと考えていたが、プーゾは小説からの側面を残したいと考えていた。150ページの初稿は1970年8月10日に完成した。コッポラが監督として雇われた後、プーゾとコッポラ両名は別々に脚本に取り組んでいる。プーゾはロサンゼルスで、コッポラはサンフランシスコで原稿を書き、2人はそれぞれの脚本から最終版に何を含めるか、何を削除するかを決定するために、連絡を取り合っていた。コッポラはプーゾの本からページを切り取り、自分の本に貼り付けて新たな本を作った(この本は2016年に正式に書籍化され、『The Godfather Notebook』という題名で発売された)。そこで彼は本にある50の各場面について、その場面で描かれている大きなテーマ、その場面の必要性、忠実なイタリアの文化を描くために撮影時に使えるアイデアや概念に関するメモを書いた。1971年3月1日に第2稿が完成、173ページであった。最終脚本は1971年3月29日に完成、パラマウントが要求したボリュームより40ページ多い163ページであった。改稿が進む中で徐々に物語の中心が父ヴィトーから息子マイケルに移っていった。また、原作にかなり見られた猥褻でゴシップ的な要素はコッポラによってほとんど削除された。撮影の際は、コッポラは脚本の最終稿をめぐって、自分が作ったノートを参照していた。第3稿を終えた時点においても、映画のいくつかのシーンはまだ書かれておらず、製作中に書かれた。なお、ヴィトーとマイケルが庭で会話するところなどの一部シーンは、脚本家のロバート・タウンによって手がけられた(クレジットなし)。
五大ファミリーの一つであるコロンボ・ファミリーのボス、ジョゼフ・コロンボが率いる「イタリア系アメリカ人公民権同盟」は、製作の噂を聞きつけると、この映画の公開によってイタリア系アメリカ人が不当な利益を被るとして、製作に反対の意思を表明した。数万人にも及ぶメンバーを動員して大規模な抗議集会を開いたほか、マディソン・スクエア・ガーデンでフランク・シナトラ(彼もまたこの反対運動を支持していた)を招いての慈善コンサートを開催し、50万ドル以上を集めた。ラディによれば、この資金はすべて本作の製作を阻止するために使われた。さらにこの運動を支持する上・下院議員などから百通もの抗議文が寄せられた。コッポラは、マフィアが牛耳るニューヨークの地区で映画を撮りたがったが、住民らからデモやボイコットを受けたり、撮影機材の盗難被害にあった。マフィアの息がかかった労働組合からは、この映画のための輸送と配達をすべて止めると脅された。さらに、アルバート・S・ラディは、ロサンゼルス市警察から何者かに尾行されているとの警告を受けたほか、ラディのアシスタントは、車の窓を撃ち抜かれ、ダッシュボードに「映画を止めろ、さもなければ」というメモが残されていた。ガルフ&ウエスタンの本社は、爆弾騒ぎで2度の避難を余儀なくされた。そしてロバート・エヴァンスは、「お前の顔を傷つけたり、生まれたばかりの子供を傷つけたりしたくない」「この町から出て行け。ここでファミリーの映画を撮るな」と脅迫の電話を受けた。
あらゆる方面から圧力を受けたことで、スタジオは撮影開始にこぎつけることができず、遂にラディはジョゼフ・コロンボと面会することを決意した。数回の会談のなかで、コロンボは「マフィア」や「コーザ・ノストラ」という言葉の使用をすべて脚本から削除し、映画製作にマフィアを関与させ、プレミアから得たすべての利益を連盟の新しい病院建設基金に寄付するよう要求した。ラディが最後の約束を果たすことはなかったが、他の2つの約束は容易に果たされた。プーゾの脚本には「マフィア」という言葉が2回(1回とも)しか使われておらず、「コーザ・ノストラ」は全く使われていなかったため、脚本がわずかに書き換えられ、他の用語に置き換えられただけであった。そして彼らは最終的に脚本を支持した。また、プロデューサーも監督も、もっとイタリア系アメリカ人、特にマフィアに理解のある人を作品に招き入れることを、何よりも喜んでいた(原作者のプーゾも監督のコッポラも、それまで本物のマフィアに会ったことはなかった)。そのため、撮影現場には多くのマフィアがたむろするようになり、俳優たちと交流し、彼らに裏社会の文化や伝統を教えた。カーマイン・パーシコやアンドリュー・ルッソといったコロンボ・ファミリーの幹部連中や、ガンビーノ・ファミリーのメンバーも毎日のように訪れた。
なお、ラディは、コロンボと最終的に握手を交わした会談から2日後、独断でコロンボとともに記者会見を開き、その翌朝の1971年3月20日、ニューヨーク・タイムズで一面を飾った。チャールズ・ブルードーンは、会社の同意なしにマフィアと取引するというこのラディの行動に激怒し、ラディをプロデューサーから解雇した。しかし、ラディがいなければ映画は進まないとの周囲の反対を受け、まもなくしてラディは復帰した。
このような交流から生まれたラディとマフィアとの友情が、製作の歯車になった。脅迫や抗議はぴたりと止み、イタリア系アメリカ人公民権同盟は、以前と打って変わって、地元住民を訪問してクルーに協力するよう働きかけを行った。また、コッポラが切望していたリトル・イタリーやスタテン島のロケも実現させた。例えばスタテン島では、ある土地の所有者が撮影を拒否したとき、ラディはコロンボに連絡し、コロンボはその所有者を脅して、考えを改めさせた。ラディは、1972年のレディズ・ホーム・ジャーナル誌のインタビューにおいて、マフィアとの取引について、「誰も身体的に傷つけられることはなかったと思う」と弁明したが、「でも、彼らの承認がなければ、この映画は作れなかったんだ」とも打ち明けた。
しかし、製作に大きく貢献したジョゼフ・コロンボは、撮影開始から66日後の1971年6月28日、コッポラが映画のクライマックスシーンを撮影していた場所からわずか数ブロック先の通りで、何者かによって銃撃された(銃撃者も直後何者かに殺害された)。この事件は、『ゴッドファーザー』への関与を含むコロンボの派手な活動を快く思わなかった五大ファミリーによる仕業とされ、なかでも首謀者と目されたジョーイ・ギャロは、映画公開直後の1972年4月7日にコロンボ・ファミリーの報復により殺害される。
これらのマフィアの妨害や協力ぶりと撮影中の抗争の勃発は当時センセーショナルに取り上げられ、映画の宣伝と話題に輪をかけた。
1970年の終わり頃からキャスティングは開始された。ロバート・エヴァンスが回想録のなかで「コルレオーネ家の配役をめぐる争いは、コルレオーネ家がスクリーン上で繰り広げた争いよりも苛烈だった」と記すほどにキャスティングは難航した。コッポラは、当初から数人の主要な役を最終的なキャスティングと同じ俳優で想定していたが、パラマウントがそれをなかなか認めなかったこともあり、多くの候補が検討された。そのため、最終的にパラマウントは42万ドルをスクリーン・テストに費やした。
コッポラは、本作の撮影に関して、役者たちのリアルな演技や即興性を重要視した。さらに、美術監督のディーン・タヴォウラリスや衣裳デザイナーのアンナ・ヒル・ジョンストンとともに、その時代特有の背景の小道具からマフィアの暴力の描写まで、映画のあらゆる面で正確さとリアリズムを目指した。撮影が始まる前に、キャストは2週間のリハーサルの期間を与えられ、その期間中、家族内でのキャラクターを確立させるために主要キャスト全員でキャラクターを演じながら夕食させる機会も設けられた。
撮影開始は当初1971年3月29日を予定し、クリスマスプレゼントを買うためにニューヨークのベスト社を後にするマイケル・コルレオーネとケイ・アダムスのシーンから始めるつもりであったが、3月23日に雪が舞う予報が出たため、ラディは撮影日をその日に前倒しした。しかし、結局雪は降らなかったため、スノーマシンを使って3月23日に撮影が開始された。 ニューヨークでの主要な撮影は1971年7月2日まで続いたが、コッポラはシチリアでの撮影に向かう前に3週間の休暇を求めた。 シチリアへのスタッフ出発後に、パラマウントは公開日を1971年のクリスマスから1972年初頭に移動すると発表した。
撮影監督のゴードン・ウィリスは当初、製作が「混沌」としているように見えたため、『ゴッドファーザー』の撮影を断っていた。後にウィリスがオファーを受諾した後、コッポラとの間で、時代映画であるため機械的にシンプルに保つべきであるという基本的な認識のもと、現代の撮影装置、ヘリコプター、ズームレンズを一切使用しないことに合意し、またクラシカルな「タブロー形式」による撮影を選んだ。タブローとは、19世紀の絵画や舞台美術の実践における、運動の形象化を基礎とした理念であり、映画を単純なショット=断面として切り取るのではなく、物語の時空間的展開や、見る者の知覚に作動する図像学的な意味作用を含んだ画面表現を表している。一方で、オープニングの葬儀屋の男の顔が徐々にズームアウトしていくシーンや銃撃シーンでは、革新的な撮影技術を使用した。またウィリスとコッポラは、映画全体を通して明暗を強調させることに同意し、影と低い光量を利用することで心理的な展開を表現した。フィルムの露出を下げることで、ウィリス曰く「(年代物の)色の悪い新聞写真」のような琥珀色の色彩も与えた。シチリアのシーンは、田舎をよりロマンチックな土地として表現するために撮影され、ニューヨークのシーンよりもソフトでクリーミーな印象を与えている。ウィリスのもとには、カメラオペレーターとしてマイケル・チャップマンがついた。
コッポラのロケ要請は守られ、約90パーセントがニューヨークとその近郊で撮影され、120以上の異なる場所が使われた。いくつかのシーンはイースト・ハーレムにあったスタジオ「フィルムウェイ」で撮影された。残りの部分は、カリフォルニアで撮影されたり、シチリアで現地撮影された。ラスベガスを舞台にしたシーンは資金不足のためロケが行われなかった。シチリアのシーンは、実在するコルレオーネ村ではなく、サーヴォカとフォルツァ・ダグロで行われた。オープニングの結婚式シーンはスタテン島で750人近くの地元民をエキストラとして使って行われ、ほとんどフリーフォームの演技で撮影された。コルレオーネ邸として使われた家と結婚式会場の場所は、スタテン島のトッドヒル地区の「110 Longfellow Avenue」であった。コルレオーネ邸周囲の外壁は発泡スチロールで製作された。コルレオーネの事務所と周辺を舞台にしたシーンは、チャイナタウンのモット・ストリートで撮影された。
この映画の最も衝撃的な場面の1つに、実際に切断された馬の頭部が登場する。このシーンの撮影場所については論争があるが、外観のロケーションはビバリーヒルズの「The Hearst Estate」、建物の内部はロング・アイランドの「Sands Point Preserve」で撮影されたようである。頭部は実際に劇中の馬を殺したわけではなく、馬肉で製造されるドッグフード会社から死骸を拝借した。また、この映画で最も費用がかけられた撮影は、ソニーが殺害されるシーンである。6月22日、ソニーが殺されるシーンはユニオンデールにあるミッチェル空軍基地の滑走路で撮影され、3つの料金所とガードレール、看板も設置された。ソニーの車は、無数の弾痕に似せた穴を開けた1941年式リンカーン・コンチネンタルで、ソニーの服には血液に似せた液体の袋と大量の爆竹が仕込まれた。このシーンの撮影だけで3日を要し(ただし撮影自体はワンテイクで終えた)、当時の価格で10万ドル以上かかっている。
1971年8月7日に撮影が終了した後、ポストプロダクションの努力は映画を扱いやすい長さに編集することに集中した。9月には、最初のラフカットが鑑賞された。映画から削除されたシーンの多くはソニーを中心としたものであり、プロットを進展させるものではなかった。11月までにコッポラとラディはセミファイナルカットを終えた。この編集について、ファイナルカットの権利を持っていたエヴァンス(故人)と、監督のコッポラ双方の意見はわかれている。コッポラは何度も2時間10分以内に収めるよう命じられたと主張するが、エヴァンスはコッポラにもっと質感を加えて、長さを気にするなと命じたと主張する。そしてエヴァンスはコッポラに強要して追加した30分が映画を救ったと述べているのに対し、コッポラはエヴァンスがカットするよう命じた30分を元に戻しただけだと述べている。
1971年12月末と翌年1月、映画はパラマウントのスタッフとエキシビターの間で先行上映された。
コッポラは『愛のテーマ』を含むこの映画の背景音楽を作るために、イタリア人作曲家のニーノ・ロータを起用した。スコアについて、ロータは映画の状況や登場人物と関連付けた。また、イタリアの雰囲気を作り、映画内の悲劇を呼び起こすために、1958年の映画『Fortunella』のスコアからいくつかの部分を取り入れた。
エヴァンスはこの楽譜があまりにも「ハイブロー」であると考え、使用することを望まなかったが、コッポラがエヴァンスの同意を得ることに成功し、使用された。コッポラは、ロータの音楽がこの映画にさらにイタリアの雰囲気を与えていると考えた。演奏はカルロ・サヴィーナの指揮によって録音された。
コッポラの父、カーマイン・コッポラは、オープニングの結婚式のシーンでバンドによって演奏されていた音楽など、映画のためにいくつかの追加音楽を作成した。また、結婚式のシーンでは、シチリアの民謡「C'è la luna mezzo mare」や、『フィガロの結婚』のアリア「Non so più cosa son」も歌われている。
公開前から、この映画はすでに400以上の劇場からの事前レンタルで1500万ドルを稼いでいた。世界初公開は1972年3月14日、ニューヨークのロウズ・ステート・シアターで行われ、そこで得られた利益はニューヨークの青少年育成団体に寄付された。翌日からニューヨーク、カナダ・トロント、ロサンゼルスのいくつかの劇場で先駆けて公開されたのち、1972年3月24日に全米公開され、5日後には316の劇場に到達した。公開されるや爆発的なヒットとなり、国内で1億3000万ドル以上の興行収入を達成した。これは『ジョーズ』(1975年)に破られるまで当時の史上最高興行収入記録であった。
日本での公開は、アメリカ、カナダ以外での初の海外上映として1972年7月15日に東京と大阪の4館で封切られた。7月、8月中に名古屋、福岡と札幌の計5館に拡大され、9月末から10月に全国14都市に広がり、年末までには13都市30劇場で公開され、京都、神戸での公開は年明けとなった。暴力の中に漂う家族の愛とロマンチシズムは、日本でも大きな反響を呼び、映画の興行収入は19億9700万円を記録した。
『ゴッドファーザー』では、犯罪組織マフィアの盛衰を、その世界で最も出世した人々の視点から描いており、この世に幻滅した下層階級の堕落を視点にして描いた道徳劇ではない。また本作は、家族とビジネス、ヨーロッパとアメリカすなわち旧世界と新世界という、それぞれ緊張関係にある2つの概念について、その融合への模索としてのアメリカンドリームの狂気と栄光、そして失敗を描いており、「I believe in America」(私はアメリカを信じています)と宣言するところから物語が始まる。
コッポラは、現代マフィアの世界を自由奔放な資本主義社会として扱い、現代マフィアと企業国家アメリカが表裏一体の腐敗した存在であることを風刺的に描いた。旧世界の価値観に根ざした騎士道精神に基づく後ろ向きで準封建的な組織から、自由民主主義のアメリカに適した前向きで準企業的なモデルへと移行するマフィアを扱い、そこでは資本主義的な商業利益が優位に立つが、しばしば道徳心を含む従来の考慮事項が犠牲にされる。こうした問題が頭をもたげる展開、すなわちマフィアの歴史における重要な岐路として、麻薬密売に関与すべきかどうかという問題に焦点が当てられる。資本主義社会は上り坂のレースであり、勝利を掴むためには、競合他社が失敗するかどうかにかかっている。成功する企業は常に競争相手の上に立ち続けなければならない。家族への献身は、しばしばこうしたビジネスへの献身と対立する。家族の忠誠がビジネスの責任を邪魔するように、ビジネスの要求がその人を家族から引き離すこともある。家族経営ではこの対立は尚更切実なものとなり、事業の拡大には、ときに兄弟などの愛ある関係がビジネスマンとしての冷たい関係になることを要求される。
本作の壮大なスケールは、移民を描くことで広い地理的・歴史的範囲を与えている。旧世界の習慣を新世界に持ち込むことは、アメリカンドリームの追求を妨げるかもしれないし、新世界の生活様式は、移民が持つ旧世界の習慣や伝統を台無しにして道徳的な羅針盤を失ってしまうかもしれない。ヴィトー・コルレオーネは移民第一世代であり、旧世界イタリアの住人である。一方でその息子マイケルは、イタリア移民の第二世代であり、彼は生まれたときから新世界アメリカの住人となり、第一世代からイタリア人のキャラクターも間接的に受け継いでいる。したがって、アメリカ人とイタリア人の二重の文化的特徴を持つ。マイケルはアメリカ人らしく独立心が強いが、イタリア文化では父親の不在は家族の崩壊を意味し、それがマイケルのイタリア的側面を呼び起こす。コルレオーネ村は小さなコミュニティの典型であり、その伝統的な生活様式は呪いであると同時に祝福でもあり、人々はそこから逃れつつも、戻ることを切望する。家族の絆が強く、人々は互いに助け合い、その生活は宗教的な信仰に支えられている一方で、強い共同体意識が息苦しさをも生み出し、権力者による独裁的な支配を受けたり、際限のない復讐の連鎖に陥ることもある。アメリカは近代国家の典型であり、法の支配による非人間的な正義を主張し、良きにつけ悪しきにつけ、すべての人間関係を経済取引に変える傾向がある。ラスベガスは、ネバダ州の砂漠から生まれた人工的なコミュニティであり、拡大された非人間的なコミュニティとしてのアメリカの肥大化を象徴している。ニューヨークは、コルレオーネ村とラスベガスの中間地点であり、コルレオーネ・ファミリーが旧世界から新世界へ向かう旅の中間地点である。旧世界の生活様式と新世界の生活様式の両方の美徳と欠点を提示するこの街が、彼ら家族に降りかかる栄光と悲劇の中心となる。コッポラの暗いビジョンでは、独立というアメリカの夢は、マイケル・コルレオーネが犯罪の生活に囚われることで、権力を動かす巨大なメカニズムへの隷属という新たな悪夢へと変化していく。家族を解放し、正当化しようと奮闘する彼は、結局、家族を資本主義のための非人間的な力にさらすことになり、家族の生命を奪ってしまう。
公開時の世俗的な視点として、当時のアメリカはベトナム戦争とウォーターゲート事件の2つの失意に直面していたため、アメリカ人の生活に浸透しはじめていた幻滅の感覚を物語っていた。ノスタルジーという要素も軽視できない。フェミニズムが台頭し、ブラックパワーが台頭したカウンターカルチャーの時代でもあった。『ゴッドファーザー』が提示したのは、消えゆく階層的・伝統的・秩序的な西洋の家父長制社会へのまなざしであり、世界が急速に変化する時代の中で、不安を感じていた多くの人々の心を打った。偉大なる父、ドン・コルレオーネは、自らの手で法律を作り、それを実行に移すほど確信に満ちた人物で、多くの人々に訴えかけた。とともに、価値観の歪みと家族の崩壊という現代社会の不穏な兆しも描いた。すなわち、ダークサイドのなかの真っ当で昔堅気の男であったヴィトーは家族を守ろうと奮闘するなか、彼の未来への希望をすべて託していた期待の息子マイケルが、父を救おうとダークサイドに足を踏み入れたために、その資本主義に侵された歪んだ価値観(しかし現代マフィアとしては優秀すぎる手腕)により家族を失い破滅していくさまを描いた、壮大な悲劇である。
ヴィトーとマイケルは互いに鏡のような存在であり、アメリカ移民のジレンマを示している。ヴィトーはアメリカにある旧世界地域リトル・イタリー(ニューヨーク)で成功を収めるが、家族を守るために旧世界の習慣や原則に固執するあまり、アメリカにおける犯罪の性質の変化についていけず、それは起業家精神とダイナミックな市場を持つアメリカ全般の変化の速さを反映している。その結果、ヴィトーは事実上、組織犯罪から搾り取られ、引退を余儀なくされるが、少なくとも彼には引きこもるべき家族がおり、穏やかな死を享受することができる。しかし、マイケルはそれほど幸運ではない。移民二世としてアメリカで教育を受けたマイケル・コルレオーネは、アメリカのやり方に順応し、犯罪の世界で新たな高みに上り詰めていく。ヴィトーとは異なり、彼はすべての敵を排除することができたが、その過程で自分の魂と家族を失っていく。ヴィトーもマイケルも、アメリカン・ドリームの模範であると同時に、その犠牲者でもある。『ゴッドファーザー』は、彼らの物語を語ることで、アメリカにおける移民の悲劇をより一般的に探求し、アメリカン・ドリームが新参者を引き寄せ、家族とビジネスを両立させるという自堕落で自滅的な闘いに彼らを導いていく様を描いている。
シリーズ全体に共通する豊富な対比構造は、マフィアと彼らの信仰するカトリックの関係性がその根本的な下地として機能している。ブルジョワ・イデオロギーの支柱である宗教をその対極である残虐性と並べることで、教会という精神的共同体が彼らを慰めることのできない無力な存在になっていることを指摘し、それは残虐性なしには成し遂げられないアメリカン・ドリームの現実を、資本主義の破壊力とは別の形で示している。
またコッポラは、20世紀半ばの裏社会の女性が、ピストルを構えた情婦や、陰謀を企むファム・ファタール、大勢のママズ・ボーイから溺愛される家長であるという考えを否定し、むしろ、家父長制の一面として、血と裏切りにまみれた性差別主義者の男性たちに押しのけられることが多かったと主張する。物語は、ドンの愛娘の幸せな結婚式に始まり、最後は男性たちのやり方に疑問を抱き抗議する2人の女性の姿で幕を閉じる。その軌跡は、マイケルがケイやアポロニアら女性たちから離れ、天罰へと向かって破滅していく姿であり、原作でヴィトーの言う「(女性は)天国で聖人になるが、我々男性は地獄で焼かれる」ことを示唆している。ケイ、アポロニア、コニー、ヴィトーの妻カルメラらは、この映画全体を通して夫の犯罪を決して容認せず、常にそこから切り離された場所にいる。結婚式の際に「彼らが授かる最初の子供が男の子であることを」と願う殺し屋ルカ・ブラージの言葉は、祝福というよりむしろ呪いとして皮肉的に描かれる。本作でのコッポラのアプローチは、女性を「卑下、降格」させるのではなく神聖な台座に乗せることで、男尊女卑を非難することにほかならず、男性の人生から女性が排除されたときに何が起こるかについて深く考えている。
一般視聴者から熱烈な支持を得るとともに、世界中の批評家や映画関係者たちからも絶賛されており、史上最も偉大で影響力のある映画の一つとみなされている。
コッポラ自身は、本作を製作中にヒット作『フレンチ・コネクション』を鑑賞しており、その出来栄えを高く評価し、「同じマフィア映画でも、『ゴッドファーザー』は暗くて退屈で悲しい映画だ。男が座って会話する場面ばかりだ。『フレンチ・コネクション』のようにヒットすることはないだろう」と語っていたという。その後「本作が成功したのは私の力ではない。多くの優秀なスタッフに恵まれたからだ」と謙虚なコメントを残している。
レビュー集計サイトRotten Tomatoesでは、148のレビューに基づいて97%の支持率を獲得し、平均評価は9.40/10である。同サイトの批評家コンセンサスは、「ハリウッド最大の批評的・商業的成功のひとつである『ゴッドファーザー』はすべてを正しく理解している。映画は期待を超えただけでなく、アメリカ映画の新しいベンチマークを確立した」とする。加重平均を使用するMetacriticは、16人の評論家のレビューに基づいて100点満点でこの映画を割り当て、「普遍的絶賛」を示している。
『シカゴ・サンタイムズ』のロジャー・イーバートは、小説のストーリーに沿ったコッポラの努力、小説と同じ時代に映画を設定する選択、3時間の上映時間の間に観客を「吸収」する映画の能力を賞賛した。『シカゴ・トリビューン』のジーン・シスケルは4段階中4の評価をし「very good」とコメントした。
『ザ・ニューヨーカー』のポーリン・ケイルは「最高の大衆映画が商業と芸術の融合から生まれるという素晴らしい例があるとすれば、『ゴッドファーザー』がそれだ」と書いた。『ワシントン・ポスト』のデッソン・ハウは、この映画を「宝石」と呼び、コッポラがこの映画で最も称賛に値すると書いた。『ニューヨーク・タイムズ』のヴィンセント・キャンビーは、コッポラが「アメリカ生活の最も残酷で感動的な年代記」のひとつを作ったと感じ、さらに「身近な環境とジャンルを超越している」と言った。監督のスタンリー・キューブリックは、この映画には史上最高のキャストが揃っており、史上最高の映画になりうると考えた。監督の黒澤明は、「あのコッポラはなんて監督なんだ! 彼のゴッドファーザーシリーズの第1部は完璧だと思っていたが、第2部でそれを超えて驚いた」(野上照代の証言)と述べた。映画評論家のジョン・ポドホレッツは、この映画の公開40周年を記念して、『ゴッドファーザー』を「間違いなくアメリカの偉大な大衆芸術作品」「それ以前のすべての偉大な映画製作の総決算」と賞賛した。その2年前には、ロジャー・イーバートが自身の日記に「誰もが認める...疑いなく偉大である映画に最も近い」と記している。
攻撃的な批評で知られる『ヴィレッジ・ヴォイス』のアンドリュー・サリスは、ブランドはじめ各役者たちの演技を賞賛したが、マイケル・コルレオーネの難しいキャラクター設定によって、犯罪というジャンルの厳しさから、反省なき復讐と説明責任なき権力という知識人の白昼夢のような怠惰に流れているように見えるとも述べた。また、全体としては「冷酷な資本主義システムから生まれた典型的な企業人格の表現」と主張するその特殊な解釈を黒澤明の『悪い奴ほどよく眠る』ほど支持することはできないと述べ、コッポラのアプローチは、人間的で、民族的で、ほとんどグロテスクなまでにノスタルジックである傾向があり、私たちが期待する権利よりも多くの感情があり、同時に、物語の展開に曖昧さがあるとした。一般的に絶賛された映画に対して敢えて批判的な意見を書くことで知られる『ニュー・リパブリック』のスタンリー・カウフマンは、パチーノを「彼にとってはあまりにも過酷な役柄をこなし、あちこちで暴れまわっている」と評し、またブランドの演技を「甘く、怠惰」で、「下手」なメイクとし、ロータの音楽を「驚くほど腐った」スコア、全体を通して「限られた工夫のすべてを銃撃と絞殺のために温存しており、それは私が記憶している映画の中で最も悪質なもののひとつ」と痛烈に批判している。また、資本主義のメタファーであると言う本作の主張について、マフィアの起源とその忠誠の血の絆を無視しているとし、さらに登場人物のほぼ全員が殺人犯か共犯者であるために、その道徳的中心が内面的な一貫性と周囲の非殺人的市民との暗黙のコントラストに依存していると述べた。そして物語を通じての本当の変化は、マフィアが「良い」ギャンブルや売春から「汚い」麻薬を扱うようになったことだけだと主張する。
第45回アカデミー賞では、その年の最も優れた映画に贈られる作品賞を獲得した。またマーロン・ブランドは、ヴィトー役の円熟した演技が絶賛され、アカデミー主演男優賞を獲得した(ただし、本作とは別に映画界の人種差別への抗議として受賞は拒否)。また、当時無名に近かったアル・パチーノやジェームズ・カーン、ロバート・デュヴァルといった共演した俳優も助演男優賞にノミネートされ、この作品によって一気にスターダムにのし上がった。
原作者のマリオ・プーゾとその脚色を担ったフランシス・フォード・コッポラは、アカデミー脚色賞を受賞した。ニーノ・ロータによる劇伴は、その年のグラミー賞でテレビサウンドトラック部門を受賞した。アカデミー賞でも作曲賞にノミネートされたが、授賞式直前に既存の曲を再使用していたことが発覚したため、ノミネートは取り消しとなった。しかし、続編の『ゴッドファーザー PART II』では、同じ作品が含まれているという事実があるにもかかわらず、こちらはアカデミー賞で作曲賞を受賞した。また、劇伴のなかでもシチリアのシーンで使用された『愛のテーマ』は、ビルボードをはじめとする各国の音楽チャートで好成績を記録した。
評論家や映画関係者、一般視聴者によって選定された映画ランキングなどのリストで、必ずと言っていいほど上位に名前が挙げられる作品である。ここでは、本作が上位5位以内に挙げられたランキングを掲載する(太字でないものは『PART II』を含めた上での順位)。
『ゴッドファーザー』は、ギャング映画としての枠を超え、大衆文化に至るまでその影響を広範囲に与えており、ステレオタイプに関する活発な議論の場にもなっている。公開当時までアメリカ国内ですらあまり知られていなかった「マフィア」の世界を一般に知らしめ、現在に至るまでそのステレオタイプを確立したことで、一方では、イタリア人およびイタリア系アメリカ人に悪影響を及ぼしたと指摘された。それはすなわち、本作のヒットによってイタリア系移民と組織犯罪が人種差別的に強く結びつけられたというものであった。2015年、イタリック・インスティテュート・オブ・アメリカは、1915年以降のイタリア人について描写された1,500以上のハリウッド映画を調査した結果、本作の公開後、イタリア人をギャングとして特集した映画は81%増加し、50年後に減速する兆候は見られなかった。さらに、イタリア人をギャングとしてフィーチャーした500本以上の映画のうち、それらの映画の90%近くは、実際には根拠のない架空のマフィアのキャラクターを描写しており、ハリウッドの脚本家によって夢見られた偽りのステレオタイプであった。また、2009年のFBIの統計に基づく報告書によれば、イタリア系アメリカ人の中で犯罪団体を組織しているのはわずか0.00782%であり、2000年の国勢調査ではイタリア系アメリカ人の67%がホワイトカラーの仕事をしていたのに対し、2000年の全国世論調査によると、(本作の影響の大きさは定かでないものの)アメリカ国民の74%はイタリア系アメリカ人がマフィアと関係があると信じていた。名付け親や代父を意味する「ゴッドファーザー」や、貴人への尊称である「ドン」という言葉は、本作によって「(決して好ましくないイメージをもった)組織の最高権力者・親分」を意味する言葉として世間一般に定着した。
しかしもう一方で、イタリア系アメリカ人の伝記作家であるトム・サントピエトロは、2012年に発表した著書『The Godfather Efferct』のなかで、本作はむしろイタリア系アメリカ人に対する多くのステレオタイプを抑制したと主張し、この研究は絶賛された。『ゴッドファーザー』では、残酷なマフィアがとても美しく撮影され、編集されているという事実に加えて、大学を卒業し、戦争の英雄を飾った最年少の弟であるマイケル・コルレオーネの温和な堅気の青年から冷酷なマフィアのボスへとそのキャラクター性が変容する様子も映しており、マイケルは決して無学で酷い訛りを発する古典的なイタリア系アメリカ人のイメージではなかった。また、ハリウッドにこれまで前例がなかった、イタリア系移民によってイタリア系移民が描かれた民族的マイノリティーのための映画であり、誇り高いエスニシティを強調した本作は、イタリア系アメリカ人だけでなく、あらゆる文化的ルーツを持つアメリカ人が個人的および国家的な自己同一性とその可能性、そしてそれに伴う失望への見方を変えた。さらにこの映画の根本的なテーマは、家族の感覚と愛の感覚である。米国史上初のアフリカ系アメリカ人大統領であるバラク・オバマが本作を最も好きな映画の一つに挙げていることも、この映画の偉大さを示す上でよく言及されている。
本作は既存のマフィア構成員のイメージを形成することに成功しただけでなく、マフィアに参加するための広告塔としての役割も果たしたと考えられている。1972年の映画公開当時、何人かのメンバーは、この映画はマフィアにとって最高の勧誘ツールだったとコメントしている。マフィア史家のジェリー・カペチは、「この映画によって、ギャングスターは名誉なき殺人者という実態に代わって、名誉ある人物になった」と述べている。『ゴッドファーザー』は、組織犯罪を汚職や違法行為と結びつけるのではなく、気高さ、敬意、伝統として説いている面があった。この映画が公開される以前のギャング映画では、善人と悪人が明確に区別されていたが、『ゴッドファーザー』はある種の「モラルの曖昧さ」をもたらし、登場人物をどう見るかは観客の手に委ねられることになった。マフィアのメンバーは悪意があり、一般大衆とはかけ離れたモラルに欠けた人物であるという、従来のマフィアの固定観念を打ち破る試みがいくつもなされている本作は、マフィアの生き方を積極的に紹介し、新しいマフィアを呼び込むことに貢献した。それまでマフィアを危険で残酷な存在、普通の権力者とは違う存在として見ていた人たちも、その考えを改めさせられた。コルレオーネ一家が見せる威信や気高さが、社会的な後押しを求める弱者を引き寄せたのかもしれない。マフィアとの関わりを考えていた若いイタリア系アメリカ人にとって、『ゴッドファーザー』は、少なくともその可能性を検討するための後押しになったのである。具体的な状況はともかく、この映画が将来の組織犯罪への関与を形成する上で大きな影響を与えたことは確かであった。コッポラ自身も、「マフィアの暴力を間接的に礼賛している」として、映画の人気とは対照的に一部の知識人たちから批判を受けたことを告白している。
映画界への直接的な影響として、本作によってアメリカがマフィアの神話に恋する道を開いたことで、マーティン・スコセッシやブライアン・デ・パルマらが追随し、のちに『スカーフェイス』(1983年)、『アンタッチャブル』(1987年)、『グッドフェローズ』(1990年)、『ザ・ソプラノズ 哀愁のマフィア』(1999年-2007年)などの名作を生み出した。日本では、本作に着想を得て『仁義なき戦い』(1973年)が製作された。マフィアと組織文化的に似た面を持つ暴力団(ヤクザ)の抗争にその舞台を置き換え、よりドキュメンタリー性や激烈さや猥雑さに焦点を当てたこの映画は、国内で大ヒットを記録し、任侠映画を実録路線へと導いた。
マフィアを題材にした作品として抜群の知名度を誇るため、他の映画やテレビドラマ、ゲームなどでパロディにされることも多い。作中でしばしば繰り返される印象的なセリフ「奴が決して断れない申し出をする」(原文:I'm gonna make him an offer he can't refuse)は特に有名であり、ブランドの特徴的な話し方と共にしばしば物真似の対象となっている。2005年にはアメリカ映画協会選定の名ゼリフランキングの第2位に選出された。また、カクテルの「ゴッドファーザー」はこの映画から名付けられたものである。
映画の中で出てくる「ルイズN.Y.ピザパーラー」はユニバーサル・スタジオ・ジャパンで再現され、イタリアン・レストランとして営業している。ただし映画に登場するのはLOUIS RESTAURANT、ユニバーサルスタジオジャパンにあるのはLOUIE'S PIZZA PARLOR、共通するのは「ニューヨークにあるイタリア系の店」という設定のみで、メニューや内装が同じわけではない。
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