![鹿鳴館 (戯曲) 鹿鳴館 (戯曲)](/modules/owlapps_apps/img/nopic.jpg)
『鹿鳴館』(ろくめいかん)は、三島由紀夫の戯曲。全4幕から成る。三島の代表作の一つで、繰り返し上演され続けている人気の高い演目である。明治19年の天長節に鹿鳴館で催された大夜会を舞台に、政治と恋、陰謀と愛憎の渦の中で翻弄される男女・親子の悲劇をドラマチックに描いた物語。修辞に富んだ詩的で高揚感のある台詞まわしと緻密な構成で、華やかな様式美の大芝居が楽しめる作品である。三島は自作について、〈この芝居はいはば、私のはじめて書いた「俳優芸術のための作品」である〉と記している。
1956年(昭和31年)、文芸雑誌『文學界』12月号に掲載され、初演はその号の発売直後の11月27日、文学座創立20周年記念公演として第一生命ホールで上演された。単行本は翌年1957年(昭和32年)3月5日に、東京創元社より刊行され、文庫版は新潮文庫で刊行された。翻訳版は佐藤紘彰訳(英題:The Rokumeikan)、フランスのGeorges Neyrand訳(仏題:Le Palais des fêtes)で行われている。
『鹿鳴館』の舞台は、明治時代の落成間もない鹿鳴館で、登場人物は華族(維新の功臣で勲功華族ともいう)たちである。舞台当日の大夜会は、ピエール・ロティの『江戸の舞踏会』と、芥川龍之介の『舞踏会』に描かれた舞踏会が下敷きとなっている。三島はその意味について、鹿鳴館で踊る日本人の滑稽な様を描いた当時の風刺画そのままの再現ではなく、われわれのイメージの中の〈現実よりはずつと美しい〉舞踏会、〈ノスタルジヤに彩られて、日本近代史上まれに見る花やかなロマンチックな時代〉を描くことであるとし、以下のように解説している。
また、三島が自身の演出で上演したいと考えていたヴィクトル・ユーゴーの『ルクレツィア・ボルジア』(リュクレース・ボルジア)の人物設定なども、藍本になっているのではないかという村松剛や今村忠純の指摘もある。ちなみに、三島自身もボルジャ家について、〈私は生得ボルジャ家の代々が好きである。チエザレ・ボルジャもルクレツィア・ボルジャも好きである〉と語っている。
『鹿鳴館』の「大時代的」な風味や、台詞まわしには、三島が少年期から親しんでいた歌舞伎の影響もあり、その「台詞で構築された、台詞を聞かせる、幾層にも張り巡らされた愛と陰謀のスリリングな悲劇」は、「伝統的でありながら、斬新」でもあり、劇場で芝居の楽しみを味わえる作品だと松本徹は解説し、有元伸子も「緊密に構成され修辞に満ちた絢爛たるセリフによる緊張感と、シアトリカルで楽しめる大芝居の二つの要素を兼ね合わせている」作品だとしている。
三島は『鹿鳴館』を〈俳優芸術のための作品〉だとし、作中の登場人物たちに、人が人を信頼すること、骨肉の情愛や憎悪、人が人を動かす政治についての怜悧な洞察のある長い台詞を吐露させているが、そういったところも聴きどころの一つで、俳優の力量が試される(ゆえに主演はベテラン俳優たちが演じることが多い)。また、ストーリー展開やドラマチックな要素で娯楽性が高い作品だが、「練られた台詞」に緊張感のあるため、「役者の技術だけでなく、身体性や経験、持ち前の雰囲気やパワーまでも総動員しなければ、通俗劇に堕する危険」があると佐藤秀明は指摘しており、役者にとっては難しい芝居である。
執筆当時、文学座に籍を置いていた三島は、看板女優の杉村春子を念頭において『鹿鳴館』を書いたが、1963年(昭和38年)に、戯曲『喜びの琴』の上演中止問題(喜びの琴事件)から、三島と文学座が絶縁となって以降は、文学座による上演は止められ、その後は劇団新派の代表作となり、初代・水谷八重子の八重子十種の一つとして、新派劇の主要な演目となった。初代・水谷八重子没後の公演では、二代目・水谷八重子、市川團十郎の主演で上演された。近年は、劇団四季のレパートリー演目としても公演されている(演出・浅利慶太。主演・日下武史ほか)。
なお、1956年(昭和31年)の初演と1958年(昭和33年)の東京公演では、三島自身も3幕目で鹿鳴館を模様替えする大工・植木職人に扮し、今で言うカメオ出演をしている(三島自身は座興と述べている)。
テレビドラマ化は、1959年(昭和34年)に初演舞台と同じキャストでフジテレビで放映。1961年(昭和36年)は主演に佐分利信を迎え、それ以外は初演舞台とほぼ同じキャストでTBSテレビで放映。1970年(昭和45年)は岩下志麻・芦田伸介主演でNHKで放映。近年は2008年(平成20年)正月に田村正和・黒木瞳主演でテレビ朝日で放映された。映画化は1986年(昭和61年)に東宝によって菅原文太・浅丘ルリ子主演、市川崑監督でなされた。数億円を投じて東宝の大ステージいっぱいに再現された豪華な鹿鳴館セットが話題を呼んだ。
明治維新で武士は廃されたが、本来の華族(旧大名家や旧公家から成る諸侯華族)ではない将軍・大名の一族や、功労者(主に下級武士出身)にも国家への勲功により、1883年(明治16年)に爵位が与えられ、新華族となった。また、旧大名は維新後数年で、公卿は十数年で政治の実務からは外されており、1884年(明治17年)の内閣制度発足後に閣僚となったのは、功労者出身の新華族とこれに続く官僚、軍人のみであった。
『鹿鳴館』ではこういった華族、新華族、閣僚らが主要登場人物となり、実在、架空とりまぜて造形されているが、井上馨と井上武子夫人が主催した天長節夜会当日の1886年(明治19年)11月3日に、この作品内で起こるような事件は起こっていない。なお、外務大臣・影山悠敏伯爵と、「自由党」の壮士・清原永之輔のモデルはそれぞれ、井上馨と後藤象二郎であることは、三島の「創作ノート」から見て取れる。後藤象二郎はこの時期征韓論に敗れて野から自由民権運動を指揮していたが、それ以前は井上馨より早く参議(閣僚である卿より上席)に就いており、また後には伯爵に叙されて閣僚も歴任している。このように二人の関係が、権力者と草の根の反体制活動家ではなく、あくまで二人の大物政治家の政争である点は、劇中の影山と清原の関係にも投影されている。なお、井上と後藤は下級武士出身者が多い明治維新関係者の中では、比較的富裕な中級武士出身者であった(後藤は最終的には実質的な家老にまでのぼっている)点も共通している。
また、明治期にあっては、首相たちを含む政治家・貴顕たちは、芸者を愛人としただけでなく、正妻とすることも一般的に行われていた。朝子=影山伯爵夫人もその一人で、これは隠すべきことでも恥ずべきことでもなかった。三島の「創作ノート」には、「伊藤夫人、陸奥夫人―中心人物」と記されており、朝子のモデルは、井上武子よりも、伊藤博文の夫人・伊藤梅子の方から造形されたのではないかという見方も一部にはある。井上武子が芸者であったかは不明だが、伊藤梅子が元芸者「小梅」であり、陸奥宗光の夫人・陸奥亮子も元芸者「小鈴」であったことはよく知られている。
時は1886年(明治19年)11月3日の天長節。
第1幕 - 午前10時。影山伯爵邸・庭内にある茶室潺湲亭。
第2幕 - 午後1時。同所。
第3幕 - 午後4時。鹿鳴館の2階。
第4幕 - 午後9時すぎ。鹿鳴館の2階。舞踏場。
ほか
劇団四季 自由劇場 2006年初演 浅利慶太演出 衣装 森英恵 音楽 林光 フラワーデザイン 假屋崎省吾 日下武史 野村玲子 末次美沙緒 濱田めぐみ 広瀬明雄 田邊真也 芝清道
木曜観劇会『鹿鳴館』
近鉄金曜劇場『鹿鳴館』
佐分利以外は、初演舞台版とほぼ同じキャストである。
ドラマ『鹿鳴館』
tv asahi 50th anniversary 開局50周年記念tv asahi(テレビ朝日開局50周年記念ドラマスペシャル)『鹿鳴館』
ほか
KNB 北日本放送(日本テレビ系列) 2008年(平成20年)2月2日土曜日14:50 - 16:55放送
東宝配給で1986年(昭和61年)9月20日に公開された。上映時間は125分。貸ビル「丸源」を多数所有していた実業家の川本源司郎が「マルゲンフィルム」名義で製作し、数億円を投じて再現された鹿鳴館や影山伯爵邸の豪華セット、セリフを舞台風に読ませた大胆な演出などで話題になった。
しかし作品は、マルゲンフィルムの解散と権利上の問題で封印されている。作品そのものの版権と原盤の所在が不明確で、そのためソフト化はもちろん上映も困難となっている。また川本の意志によりビデオ化等はもとより、封切りを除きその後の公開を一切許されていないともいう。
なお、三島が存命中の1957年(昭和32年)にも、渋谷実監督により松竹で映画化の企画があったが、実現には至らなかった。
元は実在する鹿鳴館を題材にしたドラマ企画が市川監督に持ち込まれ、市川が以前に三島の戯曲を映画化したいと周囲に漏らしていた事もあり、戯曲の映画化が決定した。その後、スポンサーにマルゲンフィルムの川本源司郎が名乗りを上げ、製作が始まった。
調布基地跡(関東村跡地)に、鹿鳴館のファサードを原寸大で再現した制作費1億円のオープンセットが組まれ、和装と舞踏会の場面で使用する夜会服は三松の斎藤寛社長の全面協力で制作された。衣装監修の斎藤寛はフランスのパリ装飾芸術美術館衣装博物館(Musée des Arts décoratifs)を見学後、現地駐在員の助けを借りて19世紀当時のドレス7点を購入している。影山伯爵邸の庭園は京都嵐山の中山邸(現・宝厳院)にて撮影。
市川は三島の戯曲の忠実な映像化に拘り、芝居の演出も舞台演劇そのままの様式を採用したが、後年、「やっぱり観る人にどこかで違和感を与えているんですね。演劇ではOKだからと、あえて映画でそれをやったのが間違いだった。もう少し慎重な計算が必要だった」と失敗の弁を述べている。同年度キネマ旬報ベストテン14位。微妙に高評価とまでは至らなかった。
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