国鉄オハ35系客車(こくてつオハ35けいきゃくしゃ)とは、日本国有鉄道の前身である鉄道省が製造した、車体長20 m級鋼製客車の形式群である。
なお、「オハ35系」の呼称は国鉄が定めた制式の系列呼称ではなく、1939年(昭和14年)に製造が開始されたスハ33650形(のちのオハ35形)と同様の車体構造をもつ制式鋼製客車を総称する、趣味的・便宜的な呼称である。
1929年(昭和4年)に製造が開始された鉄道省制式20 m級鋼製客車である、スハ32系客車の改良型として、1930年代後半より各車種が製造された。戦時輸送体制への移行で1943年(昭和18年)に一旦製造が打ち切られたが、戦後の1946年(昭和21年)から製造が再開されている。
基幹形式である三等座席車(オハ35形)は1939年(昭和14年)が製造初年であるが、同様の構造を備える車両としては優等車が1936年(昭和11年)より先行製作されており、しかも優等車であってもスハ32系の仕様のままで、オハ35形量産開始後も長期に渡って製造が継続した形式があるなど、単一年度で一気に切り替えられていない。また仕様面でも設計・製造技術の進展に従って、漸進的に設計の改良が実施されたため、後年の20系などのように「系列」が明確に区分可能な客車形式とは異なり、スハ32系と本系列ではその境界は明確ではない。
したがって、本項目およびスハ32系の項目に記載された各形式群については、そもそも当事者である鉄道省およびその後身である運輸省・日本国有鉄道自身は、これらについて何らグループ分けは行っておらず、あくまで趣味的・便宜的な見地から狭幅(700 mm以下)の側窓をもつ車両をスハ32系に、広幅(1,000 mm以上)の側窓をもつ車両を本系列にそれぞれ機械的にカテゴライズしている。
構造面ではスハ32系の基本構造に従いつつ全面的な設計のリファインが実施されているのが特徴である。従来600 mm幅が標準であった側窓が1,000 mm幅を標準とするように変更され、室内の採光性の向上と窓枠の製造工程の削減が両立した。また台枠などを中心に過剰な補強材の省略が進んで軽量化され、基幹形式である三等座席車では重量区分の1ランク引き下げが実現した。従来リベット接合が多用されていた組み立てについても溶接への移行が進められた。
ただし、その量産が戦前と戦後にまたがって長期に渡って継続された結果、その車体構造は製造時期によって大きく異なるものとなった。
特に戦後形では大きな変化が見られ、1946年(昭和21年)度発注分はほぼ戦前と同一の仕様であったが、以後は製作の容易化などを目的として順次仕様変更が行なわれ、車端の出入台部で屋根が絞られ3面折妻となっていたものが、外妻アーチ桁の設計を変更することなどで出入台部の絞りを残したままで切妻化され、さらに長桁の絞りがなくなり雨樋が直線になるなどの変化が生じた。その妻面形状から鉄道ファンの間では「キノコ折妻」と通称される。
なお、本系列については戦前には1941年(昭和16年)度まで北海道向けが製造されず、窓の開閉時に開口部を最小限に抑えられ防寒の点で有利な狭窓のスハ32形とスハフ32形(いずれも二重窓仕様)が継続生産されたが、以後はこれに代えて本系列が北海道向けとして製造されている。
台枠は当初スハ32系の本州向け最終グループ(1938年〈昭和13年〉度発注分)の構造を継承するシンプルな設計の溝形鋼通し台枠であるUF38(2軸ボギー車)・UF51(3軸ボギー車)が採用されたが、その後車載蓄電池の設計変更による取り付け座の小型化でUF116(2軸ボギー車)などに変更されている。
戦前製造グループはスハ32系の設計を踏襲し、2軸ボギー車はTR23、3軸ボギー車はTR73を装着する。
いずれも頭端部にコイルばねを内蔵する鋳鋼製軸箱部と、形鋼の加工品による側枠を組み合わせ、中央部に短リンク式の揺れ枕吊りを下げてここでボルスタからの荷重を重ね板ばねを介して受け止める構造の、いわゆるペンシルバニア形の軸ばね式台車である。
この系統の台車は軸箱間を連結する釣り合い梁(イコライザー)をもたないため、軌道条件の特に劣悪な線区での追従性や乗り心地では若干見劣りした。その一方で台車枠が一般的な形鋼と鋳鋼製部品で構成されており、材料の調達に制約がほとんどなく、ばね下重量の減少で軌道破壊を抑止でき、さらに邪魔なイコライザーがないため消耗品であるブレーキシューの交換時にピットに潜り込む必要もないという、製造保守などの面で極めて有利かつ重要な特徴があった。
もっとも、その反面この系統の台車は軸箱部と側枠の接合部分の設計や工作が難しく、例えばTR23の場合、1929年(昭和4年)のスハ32600形を筆頭とするスハ32系第一陣の製造時に設計された第1世代のもの(図面番号VA3058)では大荷重時などに接合部の強度不足から軸箱部が線路の外側に飛び出す方向に徐々に開いて行くという現象が多発することが就役後の検査で判明した。この問題を解決するため、1930年(昭和5年)以降に製造されたタイプ(図面番号VA3062)では接合部の設計変更で変形を防止するように改良されている。
このように初期にはマイナートラブルも発生したが、戦前には本系列をはじめとする客車だけでなく、電車や一部の電気式気動車にまで、細部仕様を変えつつこれと同種の構造を備える台車が幅広く採用された。戦後製造グループではTR23の基本構造を変えずに、軸受を従来の平軸受からコロ軸受に変更したTR34に移行した。
しかしその後、乗り心地の改善を目的として軸ばねを複列化し、側枠全体を一体鋳鋼製としたウィングばね式鋳鋼台車であるTR40に移行し、TR40をベースにブレーキワークを変更の上、ばね定数の見直しや防振ゴムの挿入などを行ったマシ35・カシ36形用TR46を経て、次代のスハ43系用TR47に至る一連の国鉄客車用鋳鋼製ウィングばね式台車の端緒となった。
このTR40では剛性に優れる一体鋳鋼製側枠の採用と、軸ばねの複列化とばね高さの増大によりばね係数を大きく引き下げることが可能となるウィングばね式軸箱支持の採用、さらには揺れ枕吊りの延長で揺動周期が延びて乗り心地が大きく改善された。当時日本を訪れた中華民国の視察団がこの台車を装着した車両に試乗し、その乗り心地の優秀さを激賞したと伝えられており、以後日本のメーカーに発注された台湾鉄路局向け客車では、これと同種の構造を備えるウィングばね式台車が長期に渡って標準採用された。
その一方で台車の重量が増え、1ボギー分総重量がTR23は5.1 t、TR11は4.5 tであるのに対してTR40で6.1 t、TR47に至っては6.3 tに達した。各車の換算両数やばね下重量も増大するというデメリットも存在し、TR47では鋳造技術の発展もあって側枠の軽量化が行われ、さらに増備途上でウィングばね部が軽量型に設計変更されるなどの対策が講じられている。
従来通りA動作弁によるAV自動空気ブレーキ装置が採用されており、車体床下中央に装架された1組のブレーキシリンダーから各台車にロッドでブレーキ力が伝達される車体シリンダー方式であった。
カッコ内に1941年(昭和16年)の称号改正前の形式を示す。戦後の電気暖房装置設置車は原番号に2000を追加。
特急「燕」を筆頭とする主要幹線の優等列車に用いられる二等車として、1938年(昭和13年)と1939年(昭和14年)に日本車輌で合計38両が製造された。
このうち1937年(昭和12年)度予算で落成した 1 - 5は台枠にUF37を、1938年(昭和13年)度予算で落成した6 - 38はUF38を使用した溶接組み立ての車体を有し、台車はTR23を装着する。
座席定員は当時の20 m級二等座席客車の標準である64名であったが、本形式製造開始後も亜幹線用として増備が継続した先行形式であるスロ30850形(オロ35形)が転換クロスシートを採用し700 mm幅の狭窓が並ぶ伝統的な形態であったのに対し、1,300 mm幅の広窓が並び、室内には方向転換はできないが深々としたクッションの固定クロスシートが対面式の配置でシートピッチ1,960 mmとして並べられた新しいスタイルとなった。
もっとも、この広窓は大型のガラス板を木枠ではさんである構造であるため非常に重く、煤煙侵入防止に難があり、窓つり上げばねがついているとはいえ1人では両端の窓戸錠を同時に解放操作しつつ開閉するのが困難であり、乗客が窓を昇降させる際に障害となったため38両で製造は打ち切られ、以後の増備は窓幅を100 mm縮小して窓の開閉を容易にしたスロ31120形(のちのオロ40形)に移行した。
1941年の称号改定で車両番号がオロ36 1 - 38に改称された。戦災で2両が廃車となったが、残る36両は戦後も長く二等車として使用された。
1963年(昭和38年)には、ほぼそのままの設備を保ったままでのオハ55形100番台への格下げとオハネ17形への改造が開始され、最終的にオハネ17形に5両が改造され、残りはオハ55形100番台に格下げされている。
スロ30960形と対をなす二等緩急車で、1939年(昭和14年)に日本車輌で合計5両が製造された。
構造面ではスロ30960形と共通であるが、特急「鷗」に用いられることを考慮して3位に給仕室、4位に車掌室を割り当てたため、座席定員は56名に減少している。特急用として給仕室をもつことから片側車掌室となっているが、同様の構造をとる他形式とは異なり3位出入台開き戸は通常の開戸が取り付けられていた。
1941年の称号改正でオロフ33 1 - 5に改称された。後年3両がオハフ53形に格下げされ、1967年(昭和42年)に残りの2両(大ムコ所属)の廃車により形式消滅となった。
オロ36形で採用された1,300 mm幅の広窓がスムーズに開閉できない、という苦情が多数寄せられたことから、先に登場していたスロハ32形の二等室と同様、側窓を100 mm縮小して1,200 mm幅に、吹寄の幅を100 mm広げて760 mmとするなどの変更を加えた上で製造された固定クロスシートを備える二等車である。
戦前製は1940年(昭和15年)から1942年(昭和17年)にかけて日本車輌、田中車輛、新潟鐵工所で計37両、戦後製は1945年(昭和20年)末から1947年(昭和22年)にかけて日本車輌と川崎車輛で計50両、合計87両が製造された。
98 - 102(戦後製のうちジュラルミン車)以外の車両では戦災廃車が6両、オハネ17形に台枠を提供した車両が7両あり、マニ36形に7両が改造された。
このうち戦前製37両の番号と製造時期、車体構造の対照は下記のとおりである。オロ40 1 - 32は旧番号(スロ31120 - 31151)をもつが、以後は1941年(昭和16年)の称号改正後の竣工となるため、旧番号をもたない。
普通二等車(のちの一等車。通称:並ロ)としては後期の製造で、1960年代に入ると客車の並ロが順次二等車(旧三等車)に格下げされる中、一部は近代化改造を施工されるなど、最終期まで一等車としての運用が残った。しかし、オハネ17形や荷物車に改造されなかった車両については、1964年(昭和39年)以降はオハ55形に格下げされ、1967年(昭和42年)にはオロ40 28(天リウ)がマニ36 60に改造され、形式消滅となった。
スロハ31形(スロハ31500形)の後継車種となる亜幹線向け二三等車で、1939年(昭和14年)から1941年(昭和16年)にかけて日本車輌、汽車製造、川崎車輛、新潟鐵工所で合計72両が製造された。
車体は丸屋根で、台枠は1939年(昭和14年)落成車の一部にUF30が使用されたほかはUF38を使用し、台車はTR23を装着する。
36名分の座席と1,200 mmの側窓(のちに登場するオロ40形と同寸法)をもつ二等室と40名分の座席と1,000 mm幅の側窓をもつ三等室が中央部の便所、化粧室で二分された二三等車では標準的な客室設備を有する。
このうち60・67は14号御料車とその予備車(マイロネフ38 1)が整備されるまでの間、二等室側に仕切と8名分の寝台を設備して皇太子専用車として使用された時期がある。
戦災により9両が廃車となり、終戦後6両が進駐軍向けに改造され、その後復元されたが5両は復元と同時に北海道向け改造を施工し、100番台となった。残存車も後年20両が格下げされスハ50形100番台とされたほか35両がオハネ17形の種車となり、1967年(昭和42年)10月のダイヤ改正で最終在籍車である28・29(天タヘ)が運用離脱し、年内に廃車されたため形式消滅したが、これをもって客車並ロも消滅した。
オハ35系の中心的存在となる三等車で、1939年(昭和14年)から1943年(昭和18年)と1946年(昭和21年)から1948年(昭和23年)にかけて日本車輌、日立製作所、汽車製造、川崎車輛、田中車輛→近畿車輛、梅鉢車輛→帝国車輛、新潟鐵工所、それに小倉、大宮、大井、鷹取の各国鉄工場で合計1,301両が製造された。
オハ35 1 - 549は旧番号(スハ33650 - 33979・35070 - 35249・35400 - 35438)をもつが、以後は1941年(昭和16年)の称号改正以後の竣工であるため旧番号をもたず、また一部の車両は番号が先行割り当てされたため番号が新旧で一致しない車両がある。
上記の新造車のほか、自重の変更に伴い他形式から編入された車両が8両あり、最終的に総数が1,309両となり、日本の国鉄鋼製客車としては単一形式での最多両数を記録したが、その増備途上で戦災に伴う廃車が53両発生しており、それらの復旧車(694・696)を含めても最大数である1,309両が同時に在籍していたことはない。
のちに車種需給の関係からオハシ30形に3両、マニ36形に44両、オヤ35形に1両、オヤ36形に1両などが改造されたほか、101両がブレーキ弁および車掌室を追加設置してオハフ33形に改造された。
このうち戦前製はオハ35 1 - 581で、1939年(昭和14年)から1943年(昭和18年)にかけて製造されたグループである。車体構造は出入台部が絞られた丸屋根構造をもち、台枠は1939年(昭和14年)に落成した1 - 13にUF30が使用されたほかはUF38が、1942年(昭和17年)以降に製造された515 - 520と550 - 581には、車軸発電機用蓄電池が複電池式から単電池式に変更されたことにあわせて、小横梁の取り付け寸法が修正されたUF116が使用され、台車はTR23を装着する。
丸屋根のスハ32形(スハ32800形)の暖地向け最終製造ロットである1938年(昭和13年)度製造グループの基本構造を踏襲し、前位出入台寄りには便所、洗面所が設置されている。客室は通路を挟んで左右それぞれに2人掛けの固定式クロスシートが対面式にシートピッチ1,455 mmとして11組ずつ配置されており、座席定員は88名である。従来座席1脚ごとに600 mm幅の狭窓が配されていたのが2脚ごとに、つまり対面式のボックス1つごとに1,000 mm幅の広窓を配するように変更されて眺望が改善されたのが最大の変更点である。
このうち国鉄(当時の鉄道省)工場で製造された車両の一部では、溶接技術の進展などを目的に様々な車体設計による試作車が登場している。側柱を屋根肩まで立ち上げた長柱構造のほか、張り上げ屋根や窓の上下に外付けされていたウィンドウ・シル/ヘッダーを外板の内側に溶接することで外板表面を平滑化するノーシル・ノーヘッダーといった各種車体設計が採用されている。一例として1940年(昭和15年)に小倉工場が試作した張り上げ屋根・ノーヘッダー車、1941年(昭和16年)に大井工場が試作したノーシル・ノーヘッダー車などが存在した。
なお本形式は当初スハとされたが、溶接構造化で軽量になりオ級であったので、1941年(昭和16年)の称号改正の際に重量記号の変更が併施され正式に車種記号がオハ(オハフも)に変えられ、車号の書き換えが施工されるまでの間小さいオを左肩に付けて、オスハ33650と標記された。
なお、本形式とオハフ33形の1942年(昭和17年)秋の製造車からは、内妻板省略等、内装造作の一部簡略化や簡易化が実施されており、内妻板の省略は戦後製造車や10系客車までの後続系列にも踏襲された。
オハ35形と対をなす三等緩急車で、1939年(昭和14年)から1943年(昭和18年)と1947年(昭和22年)と1948年(昭和23年)にかけて、日本車輌、日立製作所、汽車製造、川崎車輛、田中車輛、梅鉢車輛→帝国車輛、新潟鐵工所で合計606両が製造された。新造車のほかスハフ41形などから改造編入された車両や、後年オハ35形から改造された車両がある。
スハフ32形(スハフ34400形)の後継車種として、前位出入台側には便所、洗面所が、後位出入台側にはブレーキ弁のある車掌室が設置されている。座席は路を挟んで2人掛けの固定式クロスシートが対面式に10組ずつ配置されており、座席定員は80名である。車掌室側の妻面には屋根への昇降用に梯子が備えられている。
戦前型に分類されるのはオハフ33 1 - 346の346両で、1939年(昭和14年)から1943年(昭和18年)にかけて製造された。オハフ33 1 - 324までは旧番号(スハフ34720 - 35043)をもつが、以後は1941年(昭和16年)の称号改正以後の竣工であるため旧番号をもたない。車両構造は丸屋根、台枠はUF38(1942年〈昭和17年〉からUF116)、台車はTR23を装着する。オハ35形とは異なり、長柱構造車は存在しなかった。
特急「富士」・「燕」用食堂車として1936年(昭和11年)から1938年(昭和13年)にかけて鉄道省大井工場で6両が製造された。
トップナンバーのスシ37850は鉄道省の車両としては初の冷房装置搭載車であり、車軸発電機より得られた電力で冷房装置を駆動する、電気駆動式の冷房装置を搭載して竣工し、優先的に特急「燕」に充当された。
基本設計は食堂部分の側窓を1,200 mm幅の2重窓とした以外は先行するスシ37800形と共通で、食堂の座席も従来通り通路を挟んで2列と1列の3列構成となっており、台車も当時の食堂車の標準仕様に従い3軸ボギー式のTR73とされた。
本形式の最大の特徴である冷房装置は、当初より搭載した37850以外は竣工の時点では未設置で、1937年(昭和12年)から1938年(昭和13年)にかけて37851・37852が37850と同様の荏原製作所製の車軸発電機+電気駆動式、37853 - 37855が車軸からベルトにベベルギア、それにプロペラシャフトおよび電磁クラッチで直接冷房装置を駆動する川崎造船所製の直接駆動方式、と2種に分けて追加搭載が実施されたが、1939年(昭和14年)以降はすべて川崎式駆動装置による直接駆動式に変更されている。
もっとも、これらの冷房装置は時局柄贅沢であるとする指摘があり、また「燕」の大阪打ち切りが1943年(昭和18年)2月より実施され、これに伴い同列車用客車編成の配置が明石操車場から宮原操車場に変更されたことで保守上の問題ともなったため、1942年(昭和17年)夏が戦前最後の冷房使用シーズンとなった。
さらに1941年(昭和16年)10月称号改正でスシ38 1 - 6に改称されたが、戦災で5(元スシ37854)が廃車となった。
戦前製食堂車中では最優秀の設備を備え、しかも戦時中は普通車に改造されることもなく疎開先で温存されていたことから全車が進駐軍の接収対象となり、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) 第3鉄道輸送司令部 (MRS) およびその麾下の鉄道司令部 (RTO) による指示の下、再度川崎式駆動装置による直接駆動式冷房装置を搭載して戦前の状態に準じた再整備を実施の上で、軍番号を与えられて品川客車区に配置され、連合軍専用列車に長く使用された。
日本側への返還は講和条約発効後の1953年(昭和28年)で、以後はマシ38 1 - 5として品川客車区に配置され、東海道・山陽本線系統の特急・急行列車を中心に運用された。
最後の定期運用は呉線経由の東京 - 広島間の急行「安芸」で、1968年(昭和43年)秋までおよそ10年にわたり使用されたが、急行の特急格上げや廃止で余剰となったオシ17形に置き換えられて全車廃車となった。
その廃車は老朽化が主因であったが、その一方で前年に2がレンジ内の燃え残りの石炭から出火して死者2名を出す火災を引き起こし(日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#急行「安芸」食堂車全焼事故を参照)、石炭レンジの危険性と木材を多用する内装の可燃性が問題視されたこともあっての緊急淘汰という一面があり、本形式並びにスシ48形・マシ29形の残存全車除籍をもって国鉄線上から半鋼製3軸ボギー式食堂車が全廃された。
スハニ31形(スハニ35700形)の改良増備車として設計された三等座席荷物合造車で、1939年(昭和14年)から1941年(昭和16年)にかけて日本車輌で65両が製造された。定員48名+荷重5 t。
基本レイアウトはスハニ31形を踏襲し、その側窓を広窓で置き換えた形態であり、車体中央部に洗面所と便所を置き、そこを境界として車掌室、荷物室と客室に二分するレイアウトとなっている。
洗面所を設置したことから定員は48名となり、スハニ31形からは2名減となっている。
当時としては優秀な客室設備を備えていたことから、戦前にはオハ35形やオロ36形などとともに「燕」をはじめとする優等列車に優先投入され、戦後もスハ44系新造まで「へいわ」や「つばめ」といった特急列車に連結されるなど、常に第一線で重用され続けた。
1941年(昭和16年)の称号改正でスハニ32 1 - 65とされ、1943年(昭和18年)には戦時輸送対応のため6両がスハニ34形に改造された(後述)。
戦後、4両が戦災廃車となり、広幅の荷物扉を備えていて便利であったためかスハニ34形も含め25両が進駐軍に接収され、オハネ32形、オシ30形、スロニ31形、スロニ32形、スロニ35形、オミ34形、オミ45形に改造の上で使用された。
講和条約発効後、これらは順次日本側に返還されて戦災廃車分以外はすべて復元された。上記の新製車のほか、スハユ31形からの編入車が2両あり、後年マニ35形に21両、スヤ33形に1両、スエ31形に2両が改造されて数を減じ、原形を保っていた未改造車も手荷物輸送の減少と長年の酷使による疲弊から、1979年(昭和54年)にスハニ32 12(門ハイ)が廃車され形式消滅した。
スハユ30形(スハユ35300形)の改良増備車である三等郵便合造車で、1940年(昭和15年)に日本車輌で3両が製造された。定員48名+荷重3 t(郵袋数240個)。
基本レイアウトの変更点はスハニ32形に準じる。
2両が1950年(昭和25年)に国鉄五稜郭工場でスハニ32形に改造され、1968年(昭和43年)にスハユ31 3(岡ツヤ)が廃車され形式消滅した。
1940年(昭和15年)から1947年(昭和22年)にかけて川崎車輌・汽車製造(本店および東京支店)・帝国車両で製造された荷物車。このうち戦前製はマニ32 1 - 34の34両で、戦前最後の新製荷物車となった。荷重は14 t。
車内はマニ31 59 - 72(旧36790 - 36803)同様前位より出入台・荷物室・便所・車掌室が設置され、水槽は屋根水槽(マユニ31形と同一のもの)を設備した。
側面には1,800 mm幅の両開き式の荷物扉が片側2か所、貫通路には盗難対策として内開き式の扉を設け、各出入台の扉は引戸とされた。
番号と製造時期・車体構造の対象は下記のとおりである。
戦災により1両、事故により2両が廃車となったほか後継車の登場によりオヤ33形に4両、スエ31形に15両が改造され、1976年(昭和51年)にマニ32 60(函ハコ)が廃車され形式消滅した。
なお、上記の新造車のほか、1953年(昭和28年)の車両称号改定時に同一の設備構造をもつマニ31 59 - 72を編入したマニ32 71 - 83、それ以外のマニ31形に便所と屋根水槽を設備したマニ32 91 - 130(欠番あり)がある。(その後の改造参照)
国鉄マロネ40形客車参照。
オロ40 38 - 82は1945年(昭和20年)12月から1947年にかけて日本車輌と川崎車輌で製造されたグループである。鋼体は同時期のオハ35形等に準じて出入台部で車端部が絞られた折妻の溶接組立となり、台枠はUF116、製造時期により台車がTR23のものとTR34のものがある。屋根は日車製がキャンバス張り、川崎製が鋼板張りとされた。
オロ40 98 - 102は1946年(昭和21年)に日本車輌で製造されたグループで、戦時中の航空機用部材の転用と伝えられるジュラルミン合金を外板(ただし吹寄および外帯キセは鋼板張り)や内装材に使用したリベット組み立ての折妻に布張り屋根をもち、台車はTR23を装着する。
落成当初外板が地色のまま落成した車両が存在したが、これには早期に塗装(ぶどう色1号)が施された。星晃によるとジュラルミン客車は塗装された状態で営業運転に入ったとしているが、客車研究者の伊藤威信は名古屋駅から乗車する際に「自身の乗車した車両の後ろに無塗装のオロ40が連結されていた」との記録を残している。
同時期に製造された63系電車「ジュラ電」とは異なり、塗装を施していたため外板の腐食はそれほど酷いものではなかったが、早晩腐食が進行することが予想されたため、1954年(昭和29年)に全車とも名古屋工場で軽量構造の鋼製車体への載せ替えを行い、オロ42形に改造された。
1948年(昭和23年)に製造された転換クロスシートを備えた二等車で、川崎車輛で合計15両が製造された。なお同形式の客車として、スハニ32形の改造車である進駐軍用客車も存在した。
幅700 mmの側窓が並ぶ、戦前のオロ35形に相当する二等車であるが、シートピッチが1,040 mmに拡大されたため定員は60人に減少。側窓数も減り、吹寄の幅が広くなった。
これらは車両需給の都合などから本来オロ40 83 - 97として製造される予定であったものの予算枠を転用して製造されており、このためオロ40形は当該番号が欠番となった。
車体構造は同時期に製造されたオハ35形と同様車端絞りのない折妻に布張り屋根で台枠はUF116、台車はTR34であるが、6については当初川崎車輛が試作したOK-2軸梁式台車を装着し、同台車の長期実用試験を実施した後、TR23に振り替えられている。
後年全車がオハ51形(初代)に格下げされ1965年(昭和40年)に形式消滅となった。
オハ35 582 - 693は終戦後の1946年(昭和21年)に製造された丸屋根車のグループで、戦前型同様の丸屋根車として登場した。戦後型(前期)に分類される。
鋼体は全溶接組み立てとされていたが、工場の技術者の充足状況から一部をリベット組み立てとしたものも存在した。台車もTR34が基本であったが、台車も軸受の品質や供給量が不十分な状況にあり、部材調達の都合などから戦災廃車となった車両から回収されたTR23やTR11を装着した車両も確認されている。ただし、星晃の証言にによれば、会計検査の問題もあり落成時にTR11を装着した車両は存在しなかったとしている。
TR11を装着して落成した車両は原則早期に台車をTR23、または新製のTR34に振り替えられているが、1960年代まで使用した例があった(661号)。
オハ35 700 - 1307はオハ35 582 - 693と並行して折妻車体で製造されたグループで、1946年(昭和21年)から1948年(昭和23年)にかけて608両が製造された。戦後型(後期)に分類される。
車体構造は車端部の屋根の曲げ加工を簡略化した折妻(半切妻)となり、台車はベアリング業界の救済策としてコロ軸受のTR34に変更されたが、戦災廃車から取り外したTR23装着車も若干数存在した。
製造メーカーにより屋根端部の幅方向の絞りの有無や屋根が鋼板張りのものとキャンバス張りのものがあるなどのバリエーションが存在する。
オハフ33 347 - 606は1947年(昭和22年)と1948年(昭和23年)に製造されたグループで、戦後型に分類される。車体構造は車端絞りのない折妻で、オハ35形のような戦後製丸屋根車は登場していない。台枠はUF116、台車はTR34に変更された。
オハ35形の改良増備車として登場した三等車で、1948年(昭和23年)から1950年(昭和25年)にかけて日本車輌、日立製作所、新潟鐵工所で合計140両が製造された。車体形状はオハ35形後期車と同様車端絞りのない折妻であるが、台車がウィングばね式のTR40に変更されたため新形式となった。屋根は木製布張り、鋼板張りの2種類がある。
のちに、マイネ40形などの他形式と台車振替でTR23・TR34に交換された7両はオハ35形に編入された。また、更新修繕を行ない、自重が軽くなった61両は重量等級の変更によりオハ36形に改形式された。北海道向け改造を施された車両は、500番台 (501 - 506) となり、そのうち1両 (501) は車掌室を追加設置して三等緩急車に改造され、スハフ42 523としてスハ43系に編入されている。
オハフ33形の改良増備車として製造されたスハ42形と対をなす三等緩急車で、1948年(昭和23年)に日本車輌で合計20両が製造された。
スハ42形と同様、車体はオハフ33形後期車に準じた車端絞りなしの折妻に布張り屋根とされ、台車がTR40に変更されている。
1949年(昭和24年)にマイネ40形との間で全車台車振替(TR40からTR34に)を行い、オハフ33 607 - 626としてオハフ33形に編入されたため、本形式は短期間で形式消滅となった。
マユ34 5 - 19は国鉄所有の郵便車で、1948年(昭和23年)に日本車輌東京支店で15両が製造された。荷重11 t・積載郵袋数505個。1 - 4からの変更点として妻面を折妻に、台枠をUF30からUF116に、台車をTR23からTR34とした。
車掌室がないことが運用上の問題となったことから、1949年(昭和24年)に車掌室を設備してマユ35形(番号は順に1 - 15)に改造された。国鉄所有であったことから後年9両がスエ31形に改造され(後述)、1971年(昭和46年)にマユ35 2001(仙フク)をスエ31 180に改造して形式消滅した。
郵政省所有の郵便車で、1949年(昭和24年)に日本車輌東京支店で6両が製造された。落成時の郵袋室荷重は4 t。
車体は車端絞りのない折妻で、台枠はUF116、台車はTR23Bと呼ばれるTR34の軸箱守に平軸受けを組み合わせたものを採用していた。製造当時コロ軸受けの故障が多かったため、郵便輸送に影響が出ることを考慮し平軸受けを継続採用したものと推測されている。
本形式の落成時の最大の特徴として、車室の前位半分以上を広大な区分室が占め、郵袋室を後位のみに配置した「通常単送便」と呼ばれるスタイルが採用された。「一函一局式」の小口区分棚が採用されたほか、車体側面には郵便投函口が設置された。
「通常単送便」のスタイルは当時の国内の郵便事情を考えると使い勝手に難があり、1 - 5は1954年(昭和29年)度に室内を従来の郵便車と同様の「通常小包併送」用とする改造を大船工場で施工した。前位の出入台を撤去して郵袋室を設置し、区分室を縮小して後位寄りに移設した。
6は1956年(昭和31年)に日本車輛東京支店で施工された改造により郵袋室が拡大された。荷重7 tとされたことから重量等級が変わり、仕様が近似するスユ40形に編入され、スユ40 11とされた。
その後1961年(昭和36年)に高砂工場で電気暖房を設備してスユ37形に改造され、1977年(昭和52年)にスユ37 2001(仙フク)・2003(秋アキ)が廃車されて形式消滅した。
マニ32 35 - 64は1948年(昭和23年)から1949年(昭和24年)にかけて帝国車両で製造されたグループ。同時期に製造されたオハ35形やスハ42形に準じた車端絞りのない折妻となり、台枠はUF116に、台車はTR34にそれぞれ変更された。
マニ34形は日本銀行が所有する現金輸送用荷物車で、戦後のインフレーションに対応するため1948年に6両が製造された。1970年度に形式がマニ30形に変更された。
後継車で50系客車をベースとしたマニ30 2007 - 2012の新製により、従来型のマニ30形は1980年度までに廃車された。
特急「鷗」用一等展望車として1939年(昭和14年)に鉄道省大井工場でオイテ27000形の台車などを流用して2両が改造された。厳密な意味では本系列の範疇から外れるが、車体の基本設計そのものは本系列と共通であり、便宜上本項目に記載する。
オイテ27000形は木造展望車の掉尾を飾る形式であり、鋼製展望車の第1陣となったスイテ37000形のプロトタイプとなった形式でもあるが、木造ゆえに鋼製展望車の就役開始後は特急運用から外され、1930年(昭和5年)には各等急行第7・8列車の昼行区間である京都 - 下関間に限定運用で連結されていた。
これらの陳腐化が目立ってきたことから鋼製化が計画され、前年のスイテ37040形2両の「富士」への投入によって余剰となったスイテ37000形を第7・8列車に転用し、これに伴い余剰となった同形式2両を鋼製化の上で、新設の特急「鷗」に充当することとなったものであった。
「鷗」が「燕」の増発に相当する通常の昼行特急であったため、内装は洋風の明るいインテリアで統一されており、室内レイアウトは前年に大井工場が手がけたスイテ37040形に準じつつも区分室が設置され、前部展望デッキ側から10名分のソファを配する定員外の展望室、8名分の回転式腰掛と折畳テーブルを有する開放室のほか、政府高官、貴賓用として3名用と6名用の側廊下式区分室が各1室設備され、3位に化粧室および便所、4位に備品室、車掌室が設備された。
当初はオイテ27000時代以来の釣合梁を備える古い設計の3軸ボギー式台車であるTR71を改造したTR76を装着しており、文字通り馬脚を現した格好であったが、これは乗り心地が不評であったことから戦後TR73に交換され、当時現役の他の展望車と同様に、1951年(昭和26年)に乗り心地改善を目的として揺れ枕吊りを245 mm延長してTR73Aに改造された。
これに対し車体は新製されたUF51A台枠上に溶接組み立ての鋼体を組み上げた平滑な車体が実現し、展望室および開放室には1,200 mm幅の、区分室および側廊下には1,000 mm幅の側窓を有するすっきりした印象の外観となった。
戦前には「鷗」の展望車として専ら用いられ、1941年(昭和16年)10月称号改正で木造車の鋼製化車であったことから展望車中最若番となるスイテ37形に改称。その後は「鷗」の廃止まで使用された後、戦時中は休車扱いとして疎開していたが、1はその間に著しく荒廃し、戦後の進駐軍による接収時にKM式冷房装置の搭載を含む大改装が実施されて軍番号2104 STERNBERGとなり、状態が良好であった2も冷房化の上で同様に軍番号2102 BOSTONとして接収された。
返還後は特急「はと」を中心に運用され、1953年(昭和28年)の称号改正でマイテ58形に改称された。
1956年(昭和31年)の東海道本線全線電化時に淡緑5号に塗装変更され、さらに1960年(昭和35年)の三等制廃止時にマロテ58形に改称されて予備車となった後、1962年(昭和37年)に廃車となった。
1943年(昭和18年)に戦時輸送対応のため鉄道省大井工場で当時湘南列車に使用されていた直流1,500 V電源による電気暖房付きのオハ35形54両(オハ35 150 - 163・121 - 136・270 - 293)をセミクロスシート化して定員増を図った車両で、定員は100名(座席80+立席20)とされた。
輸送力増強に貢献したが、空襲による戦災で6両が廃車となった。戦後、残っていた車両はオハ35形に復元された。
オハ40形と対をなす緩急車。1943年(昭和18年)に戦時輸送対応のため鉄道省大井工場で電気暖房付きのオハフ33形2両(オハフ33 231・232)をセミクロスシート化した車両で、定員は92名(座席72+立席20)とされた。戦災に遭遇せず、戦後、オハフ33形に復元された。
1943年(昭和18年)に戦時輸送対応のため鉄道省大井工場で電気暖房付きのスハニ32形(スハニ32 55 - 60)をセミクロスシート化した車両で、定員は54名(座席44+立席10)とされた。戦災に遭遇せず、戦後、1両がスロニ31形に、1両がオミ45形に再改造され、残存車は1949年(昭和24年)度にスハニ32形に復元された。
全国で使用された本系列は、太平洋戦争末期の米軍による空襲により、多数が被災し廃車された。また、戦後の混乱期にも事故により一部が廃車されている。これらは、一部がオハ70形客車として復旧されている。
連合軍専用客車への改造車を示す。
1945年(昭和20年)にスハニ32 62を改造した二等車。国鉄所有で、軍番号、軍名称をもたない。のちにオイネ31 21に再改造された。
スハニ32・オロ36・オロ41形を改造した特別車。
オミ45・オミ35形を改造した部隊用簡易寝台車。のちにオハネ33形を改番して編入した。
オヘ32形を改造した部隊用簡易寝台車。軍番号3421、軍名称は変わっていない。のちにオハネ32形に改番された。
簡易食堂車で食堂と調理室の両方があった。
簡易食堂車で全室が調理室だった。
スハニ32・34形を改造した二等荷物車。
オハ35・オロ36形を改造した三等荷物車。軍番号、軍名称不明。
オハ35・オハフ33形を改造した酒保車(販売車)。のちにオハニ35形を改造編入した。
スロハ32 44・20・8・25を順に改造した酒保車(販売車)。1両が1947年(昭和22年)にスイネ32形に、残りがスヤ51形に改造された。
スハニ34・スハニ32・スロニ31形を改造した衛生車。
オハ35・オハフ33形を改造した酒保車(販売車)。
他に4・5が存在したがスハ32系に属する。
各鉄道局管内視察用に準備された特別職用車(オフィスカー)。オハ35系に属するもののみ記す。
スロハ32形を改造して特別職用車とされていたスヤ51 11 - 14とスヤ34 11を1952年(昭和27年)から1953年(昭和28年)にかけて長野・多度津の各国鉄工場で復元改造を行った車両で、同時に北海道向け改造を施工したために番号が区別された。
1963年(昭和38年)に2両がオハネ17形の種車となり、残る3両も1965年(昭和40年)に格下げによりスハ50形200番台となり区分消滅した。
航空機用ジュラルミン材を使用して製造されたオロ40 98 - 102は車体が塗装されていたため車体腐食は著しくなかったが、将来的には腐食問題が予想されることから軽量車体の試験を兼ねた車体新製を行うこととなり、オロ35形に準じた転換クロスシート車として再設計された車両である。
1954年(昭和29年)度に国鉄名古屋工場で5両全車が改造された。書類上、改造完成は全車とも1955年(昭和30年)3月となっている。
新造された車体は屋根の浅いノーシル・ノーヘッダー・完全切妻構造の鋼製で、構造設計などに当時開発が進められていた10系軽量客車のための要素技術を積極的に採り入れてあり、同系列のための先行試作車の役割を果たすものとなった。この車体を載せるために種車の台枠 (UF116) には隅柱受・妻柱受の交換や入口柱を受ける隅板の追設が施工されUF228(図面番号VC130928)に改造された。
台車は乗り心地改善を目的としてスハ42形と振り替え交換を実施して一体鋳鋼製のTR40Cとした。軽量鋼製車体の導入でジュラルミン製の旧車体と比較して約2.1 tの軽量化が実現したが、TR23→TR40Cへの交換で2.3 tが加算され、自重は差し引き0.2 tの重量増となった。この教訓は当時開発中の軽量台車(TR50X。量産化されてTR50となる)が軽量化実現のキーパーツであることを関係者に強く認識させることとなった。
本形式は1965年(昭和40年)まで品川客車区配置で同区担当の急行「銀河」などに連結されて運用されたが、一旦全車がいわゆる並ロの淘汰方針により二等車(旧三等車)への格下げが実施されてオハ53 101 - 105となった後、同年度中に客室をロングシート化して通勤形客車のオハ41 251 - 255に改造された。
なお、のちに行われたオロ35形の近代化改造工事の施工内容はこの車両の客室設備が基準とされた。
1955年(昭和30年)5月17日に東海道本線東田子の浦 - 原間で発生した踏切事故(東田子の浦事故)で全焼したスハ32 266を名古屋工場で復旧改造した車両で、1956年(昭和31年)に竣工した。
種車の鋼体は火災による高熱にさらされて木部は完全に焼け落ち、側構が垂下するほど損傷していたことから、オハ46形(新製車グループ)に準じた広窓・完全切妻・鋼板屋根に丸パイプの縦樋をもつ鋼体に載せ替えられ、種車のTR23を装着して復旧されたことからオハ35 1313の続番に編入された。この鋼体載せ替えに合わせ台枠 (UF30) も改造され、端梁付近はUF135(スハ43形の台枠)に近い構造とされた。
1965年(昭和40年)に緩急車設備を追設してオハフ33 1011に改造された。
東田子の浦事故で全焼したスハフ32 257を小倉工場で復旧改造した車両で、1956年(昭和31年)に竣工した。被災前と同様緩急車として復旧し、広窓とされたことからオハフ33 607 - 626の続番として編入された。
車体形状はオハ46形(新製車グループ)に準じるが車掌室は復旧前と同じく客室と後位出入台の間に設けられ、縦樋はスハ43形と同形状の平角パイプに変更されているほか、通風器がスハフ42形に類似した配列(客室上に6基が等間隔、車掌室上に1基の計7基)とされた。
落成後は京都区に配置されその後客窓のアルミサッシ化や便所・洗面所窓のHゴム支持化などの改造を施工され、1986年(昭和61年)に米子区(米ヨナ)で廃車となった。
オハ35 342・923(のちにオハフ33 1517に改造)、スハ42 63も小倉工場で完全切妻形態として復旧された。番号の変更はない。これらの縦樋はスハ43形と同形状の平角パイプとされた。
客車列車の短編成化や経年緩急車の置き換えなどのため、1964年(昭和39年)から1965年(昭和40年)にかけて旭川・五稜郭・後藤・幡生・小倉・長野・大宮・多度津・高砂の各国鉄工場で101両に緩急車化改造が施工された。
施工内容は車両を反転させ後位1区画の座席を撤去し仕切り壁を設置、車掌室と手ブレーキ、尾灯の設置が行われ、制動筒(ブレーキシリンダー)は前後逆向きに取り付けられた。車掌室の窓は施工工場により700 mm幅の落とし窓にしたものと1,000 mm幅の客窓をそのまま流用したものが存在し、落とし窓に改造したものは後年に水抜き対策としてナハフ10形等に採用された水抜き用のスリットを設けた車両も見られた。
種車の台車により、下記の番号に区分される。
オハフ33 630はスハフ42 18を1960年(昭和35年)に幡生工場で軽量化改造した車両で、施工内容は窓枠のアルミサッシ化や化粧板の硬質繊維板への張替え、天井灯の蛍光灯化、腰掛枠の交換(鋳鉄製から鋼板プレス材に)、出入台開き戸や床下の電池箱、水タンクは10系向けのものに交換された。改造した際に、スハフ42形の軽量形のオハフ45形ではなく一世代古いオハフ33形に編入された理由は不明である。
落成後は広島区に配置され、1981年(昭和56年)に下関区(広セキ)で廃車となった。
オハ35 1501・1502は1976年(昭和51年)から1977年(昭和52年)にかけてオハ35 1019・1053(広島局所属)を旭川局に転属させることになり、旭川工場で北海道向け改造を施工した際に改番を行ったもの。
従来オハ35形では北海道向け車両と本州向け車両を区別することなく使用されていたが、本車両は改造された時期が比較的遅く、43系や10系寝台車など北海道向けを500番台で区別した車両に合わせたと見られている。
一等車(旧二等車)の中でも、並ロと呼ばれた固定クロスシートや転換クロスシートを備えた車両は、リクライニングシートを備えた車両(特ロ、旧:特別二等車)の普及に伴い設備の格差が目立ち始めた。そのため、1963年(昭和38年)から設備はそのままで等級帯を消して二等車に格下げが行われた。
これらの格下げ車両は元一等車(1960年6月以前は二等車)の設備を生かして準急列車や急行列車にも使用されたものの、準急列車や急行列車の電車や気動車への置き換えが進んだため早い時期に余剰となり、ほとんどは1960年代後半までに消滅したが、オハ55形は1971年(昭和46年)に2114(旧オロ36 2014)が廃車されるまで残存していた。
オハ35系のうち98両はオハネ17形への改造種車となり、1963年度から1965年度にかけて施工された。
1965年(昭和40年)から1968年(昭和43年)にかけて後述する格下げ車を幡生・鹿児島・小倉・盛岡・長野・土崎の各国鉄工場で通勤形客車に改造した車両である。
施工内容は便所以外の客室設備を撤去後、客室の全ロングシート化とつり革の設置、旧洗面所部分はフリースペースとされた。
種車の元形式により下記の番号に区分される。
他に300番台・350番台・400番台・450番台・500番台があるが300番台はスハ32系に、その他の番台はスハ43系に属する。
盛岡鉄道管理局が1960年(昭和35年)にスハシ29形を改造した団体用和式客車(いわゆるお座敷客車)であるスハ88形が好評を博したことを受けて、名古屋鉄道管理局および長野鉄道管理局でオハ35形を改造して和式客車化したものである。
団体客のニーズに応じるべく、まず1969年(昭和44年)5月に3両が改造され、続いて1970年(昭和45年)3月に2両が、さらに同年10月には3両が改造されて合計8両が出揃った。
改造は2001 - 2007を国鉄名古屋工場が、2008を国鉄長野工場がそれぞれ担当し、いずれも種車は後期車(オハ35 1020・1021・1216・832・1213・1024・1026・1192)が用いられた。改造後は全車に電気暖房装置が追設され、車番も2000番台とされた。
車内の座席を撤去して片側通路式の畳敷きとした。通路部分も畳敷きとすることが可能で、通路使用時には畳を跳ね上げる構造であった。また、一部を除き各車の出入台の片側が閉鎖されていた。
オハ80形と対をなす緩急車。オハ80形の登場と同様の経緯でオハフ33形を改造して和式客車化したものである。1969年(昭和44年)5月に3両が改造され、続いて1970年(昭和45年)10月には1両が改造されて合計4両が出揃った。
改造は全車を国鉄長野工場が担当し、いずれも種車はオハフ33後期車(オハフ33 479・548・549・1543)が用いられた。1961年(昭和36年)にスハ88形が好評であったことを受けてオハ61形から改造された車両が存在していたため、区分を目的として10番台とされた。
内装や出入台の片側が閉鎖されていたところはオハ80形と同様である。また、2010番台とされた車番が示すように、改造後は全車に電気暖房装置が追設されていた。2両のオハフ80形10番台が4両のオハ80形を挟み込む形で6両編成に組成され、名古屋鉄道管理局と長野鉄道管理局に各1編成が配属された。
竣工後は好評裏に運用されたが、1972年(昭和47年)に後継としてスロ62・スロフ62形を改造した冷房付きグリーン車スロ81系が営業運転を開始すると陳腐化が一気に目立ちはじめた。このためオハ80系は同年に座席定員を減らした上でグリーン車に格上げされ、オハ80形はオロ80形、オハフ80形10番台はオロフ80形10番台に改称された。しかし冷房装置の未設置や台車の相違による快適性および乗り心地の格差は埋められず、最終的には1974年(昭和49年)にスロ81系に置き換えられる形で2編成とも淘汰され、形式消滅となった。
なお、その一部は廃車後に当時ブームであったSLホテルに払い下げられ、野辺山SLホテルと沖縄リゾートステーションで宿泊施設として使用されたが、いずれもSLホテルの廃業で1990年代までに解体処分となっており、現存しない。
後年9両がスエ31形に改造され、残った車両も1972年(昭和47年)にマニ32 128(門モシ)が廃車され区分消滅した。
三等荷物車を改造した荷重14 t・バラ積み用荷物車である。
一等車(旧特別二等車)の増備および経年荷物車の代替用として旧二等車およびその格下げ車などを改造した荷重14 t・バラ積み用荷物車である。
マニ36 2209(オロ40 2078からの改造車)がJR東日本に承継されたが、1988年度に廃車となった。
マニ32形を改造した教習車。該当車両は外観は特に大きな変化はなく、室内は旧車掌室部分はそのまま残置され、便所は撤去され、物置となっていた。旧荷物室部分には通票閉塞機台、テレビ台、映写機取付桟、訓練卓などが設置されていた。
他の50番台は60系とスハ43系(44系)に属する。
オヤ35 10は1973年(昭和48年)に国鉄名古屋工場でオハ35 275を改造した職用車。東静岡駅 - 静岡操車場間の職員輸送用で、外観、室内とも種車時代とほとんど変化はなかった。1974年(昭和49年)に区分消滅した。
他に(初代の)1・2が存在したが、本形式落成前の1971年に形式消滅している上に、スハ32系に属する。
他に1・2が存在したがスハ32系に属する。
1975年(昭和50年)に国鉄旭川工場でスハニ32 28を改造した工事車。
外観はほぼ原形を保っていた。室内は旧荷物室内中央に発電機が設置され、燃料用タンク格納箱が置かれていた。
また、工事現場での長期滞在に備えるため、流し台・食器棚、飲料水タンク、会議用テーブルが併設された。便所・洗面所をはさんだ旧客室内には寝台が設置され、談話スペースには長椅子やテーブルが置かれた。1984年(昭和59年)に廃車となった。
他に1が存在したがスハ32系に属する。
五稜郭、小倉、盛岡、新津、多度津、高砂、土崎の各国鉄工場で改造。
改造に伴い窓や扉を埋塞されたり、側扉が増設された車両などがあった。また、それらの改造に加えてベンチレーターが一部撤去された車両も存在した。1987年(昭和62年)までに全車廃車となった。
マニ50形の新製に伴い余剰となったマニ36形を、旭川・幡生・大宮の各国鉄工場で救援車に改造した車両。
改造に伴い、窓や扉を埋塞された車両も存在した。
オエ61形は本来鋼体化改造車を種車に改造されたものを表すが、本番号区分にはそれ以外の車両も編入されることとなった。
本系列では下記の車両が該当する。
オエ61形には他に0番台・600番台があるが、0番台は60系に、600番台(マニ37改造)は32系と60系と43系に属する。
リクライニングシートを装備する特別二等車(特ロ)の増備が進むと、固定クロスシートや転換クロスシートを装備する従来の二等車(並ロ)の設備が見劣りするようになった。このため1955年度よりオロ35形において近代化工事が開始され、室内灯の蛍光灯化や窓枠のアルミサッシ化、座席の整備などが行われた。この改造は後にオロ36・40・41形などでも施工されている。
1961年度からはオハ35形などの近代化工事が開始され、スハ43系と同様の工事内容で主に急行列車に使用される車両が対象となった。工事内容は施工工場や改造予算によって異なり、本格的改造を行ったもののほか、工事が簡略化されたものも存在した。塗装は大部分が青15号に変更されている。
1970年度からの車両の新検査方法を実施するにあたり、検査期限を伸ばすための「体質改善工事」がオハ35系でも一部車両で施工された。
1970年から1973年にかけて能登半島地域の観光列車として「おくのと号」が運転され、初年は60系客車の改造車が使用されたが、1971年以降はオハ35系が使用されることになった。これによりオハ35 2019・2870、オハフ33 2093、スロフ53 2025の4両が専用客車に改造された。
車内は壁紙が水色になり、横引きカーテンなども設置された。1973年の運行終了後は一般車に復元されたが、オハ35 2870は廃車まで内装がそのままであった。
JR北海道では2000年より函館本線で「SLニセコ号」の運転を開始することになり、JR東日本からオハフ33 2555を譲り受けて改造工事が行われた。改造内容は客用窓の二重化、客室灯の白熱灯化、客用扉の集中施錠装置設置などである。
本系列で特筆される事柄の一つに、各種新型台車の試験採用が挙げられる。
まず、戦前には1940年(昭和15年)に試作されたゲルリッツ式台車が装着された。
ゲルリッツ式台車はWUMAG(Waggon- und Maschinenbau AG Görlitz: ゲルリッツ客車機械製造所)がDRG(Deutsche Reichsbahn Gesellschaft: ドイツ帝国鉄道)のD-zug(Durch-zug: 日本語に直訳すれば直行。一般的には急行と解される)向け客車用高速台車として、従来のイコライザー式台車に代わるべく1923年(大正12年)に開発したGörlitz Iをルーツとし、第二次世界大戦後に後継となるミンデン・ドイツ (Minden-Deutz) 式台車が制式採用されてこれに取って代わるまで、改良を重ねつつ20年以上に渡ってドイツ国鉄の客車用標準台車の座にあった。
これは、当時の鉄道省部内に存在した「車輛委員会」で検討されていた「台車構造の改良について」および「車体動揺を緩和する台車各部の構造の研究」という2つのテーマの研究過程で、当時欧米で用いられていた新型台車と同様の構造の台車を試作し、実際に車両に装着して試験走行を行ってその優劣を検討することになった際に、2種の試作台車を各1両分ずつ鉄道省大井、鷹取の両工場が製造した。
軸箱部分を上部の重ね板ばねと2本のコイルばねで支持する、本来のゲルリッツ式(時期や構造から、プロトタイプとなったのはGörlitz IIと見られる)に忠実な設計のタイプと、TR73の軸箱と側枠およびトランサムの設計を流用し、揺れ枕部分の設計を前者に準じた方式に変更した折衷型と呼ばれるタイプの2種が試作された。いずれも軸距が3.3 mに達する異例の超ロングホイルベースであったが、これは全長1.8 mと非常に長い重ね板ばねを両端で2段リンク支持して線路方向に設置し、この上に直接枕梁を載せる(このため通常の揺れ枕をもたない)、ゲルリッツ式台車の機構上の制約によるものである。なお、前者は形鋼や板材をリベット組み立てとしたため非常に無骨な外観であったが、その一方で構造上側枠の位置が低く、車体を支持する側受が高く突き出した特徴的な外観を呈していた。
大井工場の担当分は2種とも既存のスハ32形などに装着して試験走行が実施されたが、鷹取工場の担当分は竣工間もない1940年(昭和15年)2月製で長柱側柱・張り上げ屋根試作車であるスハ33650形スハ33742・スハ33743(称号改正後はオハ35形オハ35 93・オハ35 94)に装着の上で試験が実施された。スハ33743にゲルリッツ式が、スハ33742に折衷型が装着された。
これらの台車は110 km/h運転時でもTR23での95 km/h運転時に匹敵する、あるいはそれ以上の揺動特性であったとされるが、その後の報告は途絶えており、日米開戦で貨物輸送能力の増大が求められるようになった当時の世相では、客車の高速運転研究は継続が困難になって中止となったものと見られている。
もっとも、当の鷹取工場製試作台車はその後も2両のオハ35形に装着されたまま、戦後しばらくは山陽本線や播但線などで営業運転に使用されており、乗車の機会を得たアマチュア鉄道愛好家による、その優れた乗り心地や超ロングホイルベースに起因する間延びした独特のジョイント音などについての実見報告が今に伝わっている。
その後新型台車の実用化で役割を終えて通常のTR23に交換された。これに対し、大井工場製の方は少なくともゲルリッツ形が1956年(昭和31年)までスハ32 479に装着の上で使用され、ここで台車振り替えを実施されて淘汰されたことが知られており、折衷型もこれに前後して淘汰されたものと見られている。なお、これら2種の台車は軸距は3軸ボギー式のTR73の第1軸 - 第3軸間に匹敵したが、そのままでは3軸ボギー式台車を装着していた車両に営業運転可能な状態で装着することは不可能であった。
これに対し戦後には1949年(昭和24年)に川崎車輌が試作したOK-2がオロ41 6で試用された。
このOK-2は制式採用にこそ至らなかったものの、同系の改良機種であるOK-4(国鉄形式DT29)がのちに175 km/hの狭軌世界最高速度記録を達成したことでも明らかなように、のちの新幹線実現へと連なってゆくこととなる高速台車振動研究会の研究の一環として開発されたものであり、ここで得られた成果は再度研究の場にフィードバックされ、以後の高速台車開発に貴重な知見を提供した。
サハリンの鉄道向けに、オハ35をベースにした車両が1949年に輸出されている。元々戦前の樺太庁鉄道にはスハ32/スハフ32の派生形式が納入されていたところ戦後輸出車は本系列に改められた。日本国内向けはすでに700番以降の折妻車に移行したあとであるが1 - 693の丸屋根車体をベースにしている。窓幅は800 mm に縮小した上で二重窓とし、酷寒地に対応している。台車も戦前形と同じTR23。座席割付自体は日本国内向けと同じ寸法となっているが、ソ連の三等車の仕様で座面含め板張りでクッションの類はない。参照資料では現地形式ОКАとしているがカナ転写が「オハ」でありОХАの誤読の可能性がある。日本車輌蕨製作所で製作され番号は狭軌車両を意味するNを冠しN-35-1 - 10が付けられた。
オハ35系は国鉄末期の1986年11月改正で定期運用が消滅し、JRグループ各社に承継されたのはオハフ33形3両とマニ36形1両の4両のみであった。
JR東日本にはオハフ33形1両とマニ36形1両が承継された。マニ36形は1988年度に廃車となり、オハフ33形は2000年にJR北海道へ譲渡されている。
JR西日本へはオハフ33形2両が承継されたが、2009年までに廃車解体された。2017年に「SLやまぐち号」用客車として旧型客車を模した外観で新製された35系は、中間車の2 - 4号車で国鉄オハ35形をモチーフとしている。
JR北海道にオハ35系は直接承継されなかったが、2000年の「SLニセコ号」運転開始に備えてJR東日本よりオハフ33形1両を含む旧型客車を譲受した。
オハ35系は16両が5社に譲渡されている。
岩手県の松尾鉱業鉄道には戦災で破損したスロハ32 1が譲渡され、復旧の上オハフ10として1970年(昭和45年)の廃線まで使用された。
青森県の津軽鉄道にはオハフ33 2520(旧オハフ33 2520・戦後製の半切妻車)が1983年(昭和58年)に譲渡され、冬期はストーブ列車に使用されている。
静岡県の大井川鐵道には「かわね路号」用として8両が譲渡された。オハフ33 215・469、オハ35 149は1976年(昭和51年)に、オハ35 435は1978年(昭和53年)に、オハ35 22・459は1980年(昭和55年)に、オハ35 559・857は1981年(昭和56年)にそれぞれ譲渡された。
これらのうち2016年(平成28年)に解体処分されたオハ35 857以外は、現在も使用されている。オハ35 149は小倉工場製造のノーヘッダー試作車、オハフ33 469は戦後製の半切妻車であるが、それ以外の車両は戦前製の標準的な仕様の車両である。国鉄時代に電気暖房を装備していた車両もあるが、大井川鐵道では暖房用電源の供給源がないため使用されておらず、番号も原番号に戻されている。
オハ35については、以前はオハ35 857を加えた6両で稼働していた。しかし同車両は柱の腐食が進行し、車体に歪みが出ていたことから、2011年(平成23年)11月ごろから運用を離脱。のちには修繕できないと判断され、2016年(平成28年)7月に解体処分された。なお台車はオハ35 149と交換され、それ以外の使用可能な部品は、他の旧型客車の修繕に必要な予備部品として確保された。
岐阜県の樽見鉄道にはラッシュ時の輸送力確保用や、観桜観光列車用としてオハフ33 110・112・354・1042が1984年(昭和59年)と1989年(平成元年)に譲渡されたが、1992年(平成4年)までに廃車されている。
岡山県の同和鉱業片上鉄道事業所には1981年(昭和56年)にオハ35 1058・1227が譲渡され、廃線まで使用された。
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