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斯波兼頼


斯波兼頼


斯波 兼頼(しば かねより)は、南北朝時代の武将。最上 兼頼(もがみ かねより)とも呼ばれる。奥州探題斯波家兼の次男で、羽州探題最上氏の祖。

生涯

延元元年(1336年)3月関東執事で従兄弟の斯波家長の命により相馬氏を従えて行方郡へ行き、北畠顕家と激しく争う。この時兼頼は元服前であり足利竹鶴を称し、重臣氏家道誠の後見を受けている。延元2年(1337年)北畠顕家との杉本城の戦いで斯波家長が敗死し、鎌倉も陥落したため足利義詮は安房へ逃れる。上杉憲顕などは北畠顕家が西上した後鎌倉を奪還、顕家を追って西上するが美濃青野原の戦いで敗れる。同年氏家道誠を通じて武石道倫の所領(陸奥亘理郡坂本郷)を安堵している。暦応2年(1339年)には式部大夫として元服している。

父の家兼が北陸から奥州に移ると、兼頼も共に下向する。延文元年(1356年)、出羽地方の北朝方として寒河江大江氏、山家氏などの南朝方の抵抗を抑えるために、出羽国按察使と称して出羽国最上郡山形(現・山形県山形市)に入部し、翌年には山形城を築城し本拠とする。入部した兼頼はまず滝之平瑜伽寺の塔頭を移して宝幢寺を建て、その他にも多くの寺社を建立した。

出羽国の安国寺は、寺伝によれば延文4年(1359年)に兼頼によって建立されたという。大曾根荘を地盤とした兼頼にとって、安国寺を建立した山辺荘大寺(山辺町)は村山盆地の最上川を超えて勢力を伸長する寒河江大江氏を牽制する位置であった。

貞治6年(1367年)に鎌倉公方の足利基氏が死去すると、出羽を含む東国の各地で南朝方が蜂起したが、漆川の戦いにおいて、鎌倉公方を継いだ足利氏満や、兄で奥州探題の大崎直持と共に南朝方の寒河江大江氏を攻撃し降伏させた。また、近隣の里見氏に弟の義宗を養子に送り、一門とするなど武力政策と婚姻・養子政策を駆使し、山形斯波氏(後の最上氏)の基礎を築いた。兄の直持は奥州管領家の大崎氏の祖となった他、弟の持義持頼らも奥州に子孫を残したとされ、足利一門の名家という出自を思わせる。

応安6年(1373年)頃には、室町幕府より屋形号を許されて最上屋形と称したことを機に、所領の最上郡に因んで苗字を最上氏とした。

永和元年(1375年)、嫡男の直家に家督を譲って以降は城内に草庵を結び、念仏三昧の日々を送ったとされるが、永和3年(1377年)の「室町幕府管領奉書」(円覚寺文書)によれば、出羽国内円覚寺領の棟別銭徴収を担っている。康暦元年/天授5年(1379年)死去した。墓所は兼頼が開いたと伝わる山形県山形市七日町の光明寺にある。

後裔

兼頼は最上氏(斯波最上氏、斯波出羽家)の初代とされる。最上氏は戦国時代に最上義光の出現によって飛躍的に領土を広げ、江戸時代初期に幕府によって改易されるまで、現在の山形県内陸部の米沢地方を除く、村山地方、最上地方、庄内地方を支配した。

逸話

  • 伯父・高経、父・家兼とともに越前国に逃れた新田義貞と戦い、兼頼の配下が義貞を討ち取ったと言われている。新田義貞が所持していた源氏累代の名刀「鬼切」はのちに兼頼の手に渡り最上氏の家宝となった。

周辺系図

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 東京大学史料編纂所「『大日本史料』総合データベース」
  • 寒河江市史編さん委員会 編『寒河江市史』上巻(原始・古代・中世編)、寒河江市、1994年。国立国会図書館書誌ID:000002376939。

外部リンク

  • 欺波兼頼像 - 新庄デジタルアーカイブ - 新庄市
  • 山形発展の基礎を築いた斯波兼頼 ~入部650年を記念して~(布施幸一) - 最上義光歴史館(山形県山形市大手町)
  • 【斯波兼頼/しばかねより】 ~山形を政治の中心とした~(片桐繁雄) - 最上義光歴史館
  • 武家家伝 最上氏 - 戦国大名探究

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 斯波兼頼 by Wikipedia (Historical)


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