![バート・シャーリー バート・シャーリー](/modules/owlapps_apps/img/nopic.jpg)
バートン・アービン・シャーリー(Barton Arvin Shirley, 1940年1月4日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州コーパスクリスティ出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。
日本での登録名は「バート」。セ・リーグ初の遊撃手部門のダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を受賞している。
W.B.レイ高等学校を経て、テキサス大学卒業後の1961年にロサンゼルス・ドジャースへ入団し、1964年9月14日のパイレーツ戦(ドジャー)でメジャー初出場を果たす。1967年にニューヨーク・メッツで1年だけプレーした後、1968年にドジャースへ復帰。アメリカ時代から好守は認められていたものの、打撃の非力さを指摘され、大半をマイナーリーグで過ごす。
1971年に中日ドラゴンズへ入団し、6月23日のヤクルト戦(中日)で会田照夫から初ソロ本塁打を放った。1972年には第1回ダイヤモンドグラブ賞を受賞するが、遊撃で同賞を獲得した助っ人は2022年現在もバートだけである。正確かつダイナミックな守備は投手陣の心を掴み、日本球界では珍しい守備特化型の助っ人になったが、同年は4月9日の開幕カードの阪神戦(中日)から打棒が開花。ダブルヘッダー第1試合で古沢憲司から1号本塁打、第2試合で江夏豊からサヨナラ満塁本塁打を放った。開幕1週間で17打点を稼ぐ活躍を見せて打撃開眼かと首脳陣を喜ばせたが、オールスター後は調子を落としてしまう。カールトン半田直伝のバックトス、グラブトスの名手であった高木守道の守備も、バートとのコンビで最も開花したが、同年限りで現役を引退。
引退後は古巣・ドジャースのマイナーリーグ監督(1973年 - 1975年)を経て、中日で一軍守備コーチ(1976年)→技術顧問(1977年)を務めた。中日では三塁ベースコーチを務めたほか、与那嶺要監督の良き相談役としても一役買い、田野倉利男・宇野勝らを育てた。1978年より故郷のコーパスクリスティに戻り、保険業を営む傍らでスーパーバイザーとして後進の育成に努めた。
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