Aller au contenu principal

遣唐使


遣唐使


遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と同等に交易・外交をしていたと記して対等な姿勢をとろうとしたが、唐の認識として朝貢国として扱い『旧唐書』や『新唐書』の記述では、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国大陸では618年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。

舒明天皇2年(630年)に始まり、以降十数回にわたって200年以上の間、遣唐使を派遣した。最終は寛平6年(894年)に56年ぶりに使節派遣の再開が計画されたが、907年に唐が滅ぶと、そのまま消滅する形となった。

遣唐使船には、多くの留学生が同行し往来して、政治家・官僚・仏僧・芸術工芸など多くのジャンルに人材を供給した。山上憶良(歌人)、吉備真備(右大臣)、最澄(天台宗開祖)、空海(真言宗開祖)などが名高い。

目的

唐の先進的な技術や政治制度や文化、ならびに仏典等の収集が目的とされた。白村江の戦いで日本が大敗した後は、3回にわたり交渉が任務となった。遣唐使は日本からは原材料の朝貢品を献上し、唐皇帝から質量の高い返礼品の工芸品や絹織物などが回賜として下賜されるうまみのある公貿易で、物品は正倉院にも残る。それだけでは需要に不足し、私貿易は許可が必要で市場出入りも制限されていたが、遣唐使一行は調達の努力をしていた。旧唐書倭国伝には、日本の吉備真備と推察される留学生が、唐朝から受けた留学手当は全て書物に費やし、帰国していったと言う話が残されている。

遣唐使は、舒明天皇2年(630年)の犬上御田鍬の派遣によって始まった。本来、朝貢は唐の皇帝に対して年1回で行うのが原則であるが、以下の『唐書』の記述が示すように、遠国である日本の朝貢は毎年でなくてよいとする措置がとられた。この歳貢を免ずる措置は、倭国に唐への歳貢義務があることが前提で、唐国は倭国を冊封する国家関係を当然のものと考えていた、と指摘している。

  • 貞観5年、使いを遣わして方物を献ず。太宗、その道の遠きを矜(あわれ)み、所司に勅して、歳貢せしむることなからしむ。(『旧唐書』倭国日本伝)
  • 太宗の貞観5年、使いを遣わして入貢す。帝、その遠きを矜(あわれ)み、有司に詔して、歳貢にかかわることなからしむ。(『新唐書』日本伝)

なお、日本は以前の遣隋使において、「天子の国書」を送って煬帝を怒らせている。遣唐使の頃には自らを天皇とし、唐の皇帝を天子と呼んでいる(『日本書紀』)が、唐の側の記録においては初回の送使高表仁を除き、唐を対等の国家として扱ったらしい記述は存在せず、天皇号は『新唐書』日本伝に「神武が天皇を号とした」と記され、日本の王が国内で用いる称号という認識である。むしろ天平勝宝5年(753年)の朝賀において、日本の遣唐使副使の大伴古麻呂が新羅の使者と席次を争い、日本が新羅より上の席次という事を唐に認めさせるという事件が起こる。しかし、かつての奴国王や邪馬台国の女王卑弥呼、倭の五王が中国大陸王朝の臣下としての冊封を受けていたのに対し、遣唐使の時代には日本の天皇は唐王朝から冊封を受けていない。

その後、唐僧・維躅(ゆいけん)の書に見える「二十年一来」(20年に1度)の朝貢が8世紀ごろまでに規定化され、およそ十数年から二十数年の間隔で遣唐使の派遣が行われた。

遣唐使は200年以上にわたり、当時の先進国であった唐の文化や制度、そして仏教の日本への伝播に大いに貢献した。

回数

回数については中止、送唐客使などの数え方により諸説ある。

  • 12回説:藤家禮之助
  • 20回説:東野治之、王勇

他に14回、15回、16回、18回説がある。

歴史

日本が最初に遣唐使を派遣したのは、舒明天皇2年(630年)のことである。推古天皇26年(618年)の隋の滅亡と続く唐による天下平定の情報は日本側にも早いうちから入っていた可能性があるが、聖徳太子・蘇我馬子・推古天皇と国政指導者の相次ぐ死去によって遣使が遅れた可能性がある。ちなみに、高句麗は唐成立の翌年、新羅と百済はその2年後に唐への使者を派遣している。だが、この第1次遣唐使は結果的には失敗であった。唐は帰国する遣唐使に高表仁を随伴させたが、高表仁は日本にて礼を争い、皇帝(太宗)の朝命を伝える役目を果たせずに帰国した。争った相手については、難波迎賓館での折衝段階と思われるが、『旧唐書』は倭の王子、『新唐書』は倭の王としている。『日本書紀』にはこのような記述は存在しないものの、高表仁の難波での歓迎の賓礼以降、帰国までの記事が欠落すなわち高表仁と舒明天皇の会見記事が記載されておらず、何らかの異常事態が発生したことを示している。これは唐側が日本への冊封を命じようとして舒明天皇がこれを拒んだと推定されている。その後、この冊封拒否の影響で、23年間日本からの遣使は行われず、唐側も高句麗との対立や、突厥や高昌との争いを抱えていたため、久しく両者間の交渉は中絶することになる。唐が周囲国と争う中で2代皇帝即位後に納得はしないまま、外交戦略として倭国の方針が受忍され、白雉4年(653年)「不臣の外夷」の立場で冊封関係のない遣唐使の朝貢が再開された。冊封を受けなかったことは、天皇号の成立や「日本」国号の変更、独自の律令制度制定など、後の歴史に大きくかかわる。

再開後、天智天皇8年(669年)まで6度の遣唐使が相次いで派遣されているが、唐と朝鮮半島情勢を巡って緊迫した状況下で行われた遣使であった。地理的に唐から離れていた日本は国際情勢の認識で後れを採り、特に斉明天皇5年(659年)の第4次遣唐使は唐による百済討伐の情報漏洩を阻止するために唐側によって抑留され、2年後に解放されて帰国するまでの間に日本側では百済救援のために唐との対決を決断する(白村江の戦い)。その後の第5次から7次遣使は両国の関係改善と唐による「倭国討伐」の阻止に向けた派遣であったと考えられる。天智天皇8年(669年)7回遣使直後の天智天皇10年(671年)に11月2日対馬国を経由して唐使郭務悰が2000人の軍兵と思われる多人数の使者で突如来航し、まもなく筑紫国に着き駐留し深刻な進攻状態となった。翌年交渉の末に唐使らに大量の甲冑弓矢の武器や布などの贈物をすることで5月30日帰国させた 。やがて、唐と新羅の対立が深まったことで危機的状況は緩和され、日本側も壬申の乱の混乱とその後の律令体制確立への専念のために再び遣使が行われなくなる。

遣唐使の歴史にとって大きな画期になるのは、大宝2年(702年)に派遣された第8次遣唐使である。日本側では遣使に文武天皇が初めて節刀を与えて国交正常化を目指し(一時期有力視された石母田正の「大宝律令を唐側に披露した」という説は、唐王朝は律令が天下に君臨する皇帝の定める帝国法だと、周辺諸国の律令導入と編纂を認めなかったとする説が有力となったことから、成立困難となっている)。当時則天武后の末期にあたり、唐(当時は「周」)の外交が不振な時期であったため、積極的な歓迎を受けた。粟田真人大使により日本の国号変更が報告され、中国皇帝は東アジアでの国号調整権を持ち則天武后が承認したのもこの時である(『新唐書』「東夷伝」日本条)。記録の不備あるいは政治的事情からか遣唐使が唐側を納得させる説明が出来ず、後の『旧唐書』に「日本伝」と「倭国伝」が並立する遠因になったという説がある。

8世紀になると東アジアの情勢も安定し、文化使節としての性格を強めていく。9世紀前半に日本側も朝貢を前提とし「20年1貢」を原則としていたが、日本側は天皇の代替わりなどを口実にそれよりも短期間での派遣を行った。また、宝亀6年(775年)の遣唐使の際には唐の粛宗の意向で帰国する遣唐使に随行する形で唐側からの使者が派遣されている(ただし、大使の趙宝英は船の難破によって水死し、判官が代行の形で光仁天皇と会見している)。その一方で、正史や現行の律令など唐王朝にとって重要な書籍・法令などは持ち出しが禁じられており、また遣唐使を含む外国使節の行動の自由は制約されていた。

9世紀に入ると遣唐使を取り巻く情勢が大きく変わってくる。まず、唐では安史の乱以後、商業課税を導入した結果、国家の統制下とは言え民間の海外渡航・貿易が許されるようになったことである(これは新羅に関しても同様で、9世紀前半の張保皐の活動はその代表的な存在である)。また、安史の乱以後の唐の国内情勢の不安定が外国使節の待遇にも影響を与え、延暦23年(804年)の遣唐使の時には唐側から厚く待遇されて帰国を先延ばしにすることを勧められる程(『日本後紀』延暦24年6月乙巳条)であったが、やがて、冷遇されていく。

一方、日本側の事情としては遣唐使以外の海外渡航を禁止していた「渡海制」の存在も影響し、遣使間隔が空くことによって渡海に必要な航海技術・造船技術の低下をもたらし、海難の多発やそれに伴う遣使意欲の低下をもたらした。結果的には「最後の遣唐使」となった承和5年(835年)の遣唐使は出発に2度失敗し、その間に大使藤原常嗣と副使小野篁が対立して篁が乗船を拒否して隠岐へ配流されるが、根底に遣唐使の意義に疑問があったとされる。さらに、帰国時にもその航路を巡って常嗣と判官長岑高名が対立するなど、諸問題が一気に露呈した。

承和5年(835年)の遣唐使の時には留学生・請益生(短期留学生)を巡る環境の悪化も問題として浮上していた。元来留学生は次の遣使(日本であれば次の遣唐使が派遣される20-30年後)まで唐に滞在し、費用の不足があれば唐側の官費支給が行われていたが、留学生に対しても留学期間の制限を通告される(円仁『入唐求法巡礼行記』(唐)開成4年2月24・27日条)などの冷遇を受けた。承和の留学生であった円載は官費支給は5年間と制約され、以後日本の朝廷などの支援を受けて留学を続けた(なお、円載の留学は40年に及んだが、帰国時に遭難して水死する)。また、留学――現地で長期間生活する上で必要な漢語(中国語)の習得に苦労する者も多かった。承和の遣唐使の天台宗を日本に伝えた最澄は漢語が出来ず、弟子の義真が訳語(通訳)を務め、橘逸勢は留学の打ち切りを奏請する文書の中において、唐側の官費支給が乏しく次の遣唐使が来るであろう20年後まで持たないことと並んで、漢語が出来ずに現地の学校に入れないことが挙げられており(『性霊集』巻5「為橘学生与本国使啓」)、最終的に2年間で帰国が認められている。

唐の衰退による政治的意義の低下、唐・新羅の商船による文物請来、留学環境の悪化など、日本国内の造船・航海技術の低下など、承和の遣唐使とそれに相前後する状況の変化は遣唐使を派遣する意義を失わせるものであり、寛平6年(894年)の遣唐使の延期とその長期化、ひいては唐の滅亡による停止(実質上の廃止)に至る背景が延暦・承和の派遣の段階で揃いつつあったと言える。

航路と遣唐使船

遣唐使船は、大阪住吉の住吉大社で海上安全の祈願を行い、海の神の「住吉大神」を船の舳先に祀り、住吉津(大阪市住吉区)から出発し、住吉の細江(現・細江川 通称・細井川)から大阪湾に出、難波津(大阪市中央区)に立ち寄り、瀬戸内海を経て、那大津(福岡県福岡市博多区)に至り大海を渡る最後の準備をし出帆。その後は、以下のルートを取ったと推定されている。

  1. 北路
    • 北九州(対馬を経由する場合もある)より朝鮮半島西海岸沿いを経て、遼東半島南海岸から山東半島の登州へ至るルート。
    • 630年から665年までの航路だったが、朝鮮半島情勢の変化により使用しなくなった。
  2. 南路
    • 五島列島から東シナ海を横断するルート。日本近海で対馬海流を横断して西進する。
    • 702年から838年までの航路。
  3. 南島路
    • 薩摩の坊津(鹿児島県南さつま市)より出帆し、南西諸島経由して東シナ海を横断するルート。
    • 杉山宏の検討により、存在が証明できないことが判明している。気象条件により南路から外れた場合にやむを得ずとった航路と考えられ、南路を取って漂流した結果に過ぎず採用の事実はないとする説もある。

663年の白村江の戦いで日本は朝鮮半島での足場が無くなり、676年の唐・新羅戦争で新羅が半島から唐軍を追い出して統一を成したため唐と新羅の関係が悪化し、日本は北路での遣唐使派遣が出来なくなり、新たな航路の開拓が必要になった。なお、665年の遣唐使は、白村江の戦いの後に唐から日本に来た使節が、唐に帰る際の送唐客使である。

839年の帰路は、山東半島南海岸から黄海を横断して朝鮮半島南海岸を経て北九州に至るルートがとられたようである。

遣唐使船はジャンク船に似た構造で網代帆を用い、後代には麻製の補助の布帆を使用していた史料もあり、櫓漕ぎを併用していた。網代帆は開閉が簡単で横風や前風などの変風に即時対応しやすく優れた帆走性を持っている。船体は、耐波性はあるものの、気象条件などにより無事往来出来る可能性は8割程度と低いものであった。4隻編成で航行され、1隻に100人、後期には150人程度が乗船した。

後期の遣唐使船の多くが風雨に見舞われ、中には遭難する船もある命懸けの航海であった。この原因に佐伯有清は採用された新羅船形式は中型船までは優秀だが、遣唐使船は大型化のための接合で、風や波の打撃も大きく舳と艫が外れやすくなったとし、第1期(舒明から天智朝)に120人、第2期(文武から淳仁朝)に140から150人が、第3期(光仁から宇多朝)から160から170人と大人数化し乗員の積載物資も激増して遭難が多発し始めたと指摘する。東野治之は遣唐使の外交的条件を挙げ、遣唐使船はそれなりに高度な航海技術をもっていたとする。しかし、遣唐使は朝貢使という性格上、気象条件の悪い6月から7月ごろに日本を出航(元日朝賀に出席するには12月までに唐の都へ入京する必要がある)し、気象条件の良くない季節に帰国せざるを得なかった。そのため、渡海中の水没、遭難が頻発したと推定している。海事史学者の石井謙治は、前期の沿岸航法である北路とは異なり、後期の南路は当時の未熟な航海技術で五島列島から直接東シナ海を突っ切るため、遭難が頻繁した原因とする。

遣唐使の行程

羅針盤などがないこの時代の航海技術において、中国大陸の特定の港に到着することはまず不可能であり、唐に到着した遣唐使はまず自船の到着位置を確認した上で近くの州県に赴いて現地の官憲の査察を受ける必要があった。査察によって正規の使者であることが確認された後に、州県は駅伝制を用いて唐の都である長安まで遣唐使を送ることになるが、安史の乱以後は安全上の問題から長安に入れる人数に制約が設けられた事例もあった。長安到着後は「外宅」と称される施設群が宿舎として用いられた(日本の鴻臚館に相当する)。

長安に到着した遣唐使は皇帝と会見することになるが、大きく分けて日本からの信物(国書があればともに)を奉呈する儀式の「礼見」と内々の会見の儀式の「対見」、帰国の途に就く際に行われた対面儀式の「辞見」が行われた。前者は通常は宣政殿にて行われ、信物の受納と遣唐使への慰労の言葉が下されるが、皇帝が不出御の場合もあった。後者は皇帝の日常生活の場である内朝(日本の内裏に相当する)の施設で行われ、皇帝からは日本の国情に関する質問や唐から日本に対する具体的な指示・意向が示され、遣唐使からは留学生への便宜や書物の下賜・物品の購入の許可などの要請がなされたと考えられている。また、遣唐使の滞在中に元日の朝賀や朔旦冬至が重なった場合には関連行事への参列が求められ、その後の饗宴では大使以下に唐の官品(位階)が授けられた(なお、『続日本紀』などによれば大使には正三品級が授けられ、以下役職によって官品の高低に差があったという)。また、対見によって許可された書物の下賜や物品の購入も行われたが、実際には唐側によって公然・非公然に海外への持ち出しを禁じられた書物(正史や法令・叢書など)や貴重品も存在した。また、原則的に遣唐使を含めた外国使節は「外宅」に滞在し、現地の住民との自由な接触を禁じられていたが、実際には到着の段階で位置確認のために現地の住民と接触をせざるを得ず、希望する文物を獲得するための交渉などの必要からその原則が破られることは珍しくはなかった。

最後に遣唐使は皇帝に対して帰国許可を求める「辞見」の会見を行う。唐側は末期を除いて遣唐使の長期滞在を望んだが、日本側では使命終了後の早急の帰国(留学生を除く)が原則となっていた。遣唐使が出航する都に向かう際には、唐側から鴻臚寺の官人が送使として付けられ、出航直前に皇帝から託された唐側の国書が遣唐使に渡された。なお、極めて稀であるが、唐側より日本側への遣使が行われたことがあり、第1回の高表仁・宝亀年間の趙宝英(ただし、日本に向かう途中に水死したため判官孫興進が大使の代行を務めた)がこれに該当する。また、安史の乱最中の天平宝字年間には遣唐使の護衛として越州浦陽府押水手官の沈惟岳が付けられている(ただし、乱による混乱から沈惟岳らは唐に戻ることが出来ず、そのまま日本に帰化している)。

派遣者一覧

『延喜式』大蔵省式による遣唐使一行は以下の通りである。

  • 大使、副使、判官、録事、知乗船事、訳語生、請益生、主神、医師、陰陽師、絵師、史生、射手、船師、音声長、新羅・奄美訳語生、卜部、留学生、学問僧、傔従、雑使、音声生、玉生、鍛生、鋳生、細工生、船匠、柂師、傔人、挟杪、水手長、水手など

遣唐使の選考基準

『伊吉博徳書』『懐風藻』『続日本後紀』『文徳実録』などの諸文献から、唐に集まる各国使臣の中で国際的地位を高める使命を背負う遣唐使は、容貌・身長・風采等の身なりを選考基準で重視したのではないかという指摘がある。

遣唐使の衰退

遣唐使は次第に派遣回数が減少し、承和5年(838年)を最後に50年以上中断状態にあった。さらに唐では874年頃から黄巣の乱が起きた。黄巣は洛陽・長安を陥落させ、斉(880–884年)を成立させた。斉は短期間で倒れたが、唐は弱体化して首都・長安周辺のみを治める地方政権へと凋落した。

既に民間交易も活発化し、朝使が薬香を民間商船で日唐間を往来し手に入れた事例もあるため、遣唐使派遣が検討されること自体が減少していった。

当時の日本の対唐観の変化として、「唐への憧憬の根底にある唐の学芸・技能を凌駕したとする認識の生成」が、遣唐使派遣事業の消極化の背景として挙げられるとされている。

遣唐使の消滅

寛平6年(894年)、唐国温州長官・朱褒の求めに応じる形で、宇多天皇主導で56年ぶりに遣唐使計画が立てられた。8月21日、遣唐大使に菅原道真が任命された。しかし二十日後、道真によって遣唐使派遣の再検討を求める「請令諸公卿議定遣唐使進止状」が提出された。

道真は、この年5月に唐人によって伝えられた、在唐留学僧中瓘の書状を基として遣唐使派遣の是非を問うた。奏状の概要は以下のとおりである。

  1. 中瓘の伝えてくることによれば、唐では内乱が続いており、唐の衰えは甚だしく、既に日本と唐の交流は停止している。
  2. 過去の記録の伝えることによれば、遣唐使の多くは遭難したり盗賊に遭うなどしていたが、唐に渡ってからは危険が及んだ例はない。しかし、唐が衰えている現状では唐に渡ってからも危うい。
  3. 中瓘の情報を公卿・諸学者は、よく検討し、派遣の可否を決めて欲しい。

『日本紀略』には道真の奏状が提出された同年の九月三十日条に「其日、遣唐使を停める」という記事があったため、長らく道真の建議によって遣唐使が「停止」されたと見られていた。しかし1990年、石井正敏が『日本紀略』において「其日」が「某日」と同意義で使われていることなどから、この記述に史料性はないとし、この日付で遣唐使が停止されたという事実はないという結論を発表した。この結論は研究者によって概ね支持されている。道真ら遣唐使予定者はこれ以降も引き続き遣唐使の職位を帯び、道真が最後に遣唐大使と称された記録は寛平9年(897年)5月13日であり、遣唐副使の紀長谷雄は延喜元年(901年)10月28日に公的文書で使用した例が残っている。また寛平8年(896年)には宇多天皇が唐人李環(梨懐)を召して直接話を聞いているが、これは遣唐使派遣のための情報収集とみられている。

しかし、国内の災害や唐の衰退、道真・長谷雄の昇進による人事の問題により、遣唐使派遣は遅々として進まなかった。ついに延喜7年(907年)には唐が滅亡したことによって、遣唐使は再開されないままその歴史に幕を下ろした。

遣唐使停止後の日本の外交・貿易

遣唐使の停止後、日本の朝廷は国家の許可なく異国に渡ることを禁じる「渡海制」と唐や宋などの商船の来航制限(前回の安置(滞在許可)から次回の安置まで10余年の間隔を空ける)を定めた「年紀制」が採用されたとされている。ただし、「渡海制」自体は公使(公的な使者、日本で言えば遣唐使・遣新羅使・遣渤海使など)以外の往来を禁じた各国律令法の規定の延長に過ぎず、9世紀後半から唐や新羅ではこの規制が緩んで国家統制下で民間貿易が認められたのに対して、島国であった日本だけが引き続きこの規定を維持する地理的条件を備えていた。同様に「年紀制」もこの仕組を維持するための政策であったと言える。だが、海外への渡海制限は無いという研究もある。

しかし、貴族や寺院を中心とした「唐物」の流行など中国の文物への憧れや需要は変わらなかった。そのため、10世紀後半に入ると朝廷が様々な口実を設けて宋や高麗の商船の入港を認める「特例」が見られ、一方で法の規制をかいくぐって宋や高麗に密航する日本船も登場するようになった。更に「年紀制」の規制では唐宋商人の日本での滞在期間が考慮されず、かつ「年紀制」違反によって廻却(帰国)処分を受けても取引自体は禁じられなかったため、唐宋商人は大宰府に近い博多に「唐坊」と呼ばれる居留地を形成して貿易を行った。とは言え、摂関期・院政期でも「渡海制」「年期制」違反で処分された事例も存在し、こうした規制は曲がりなりにも鳥羽院政の時代(12世紀中期)までは維持されたとみられている。鳥羽院政期に入ると、平忠盛のように大宰府による規制を排除して宋の商船と取引を行うなど、貿易の国家統制が解体されて民間が主導する日宋貿易が本格化することになる。

また、日本では遣唐使停止以後に独自の文化である国風文化が発達することになったとされているが、貴族の生活・文化は依然として輸入された唐物によって支えられ、公文書も漢文で作成され続けた。また、王羲之の書や白居易の詩が国風文化の作品とされる書画や文学作品に大きな影響を与えた点についても様々な指摘がされている。こうした風潮は中世の武士の時代になっても同様であり、一例として大鎧に代表される武士の豪奢な鎧は、中国大陸から輸入した色糸が必要不可欠であった。

復元遣唐使船

遣唐使船は、これまでに数隻が復元されている。

1984年公開の映画「空海」では、海上撮影のために航行可能な遣唐使船が建造された。

長門の造船歴史館(広島県呉市)において、1989年(平成元年)に復元した遣唐使船が展示されている。

2010年(平成22年)の上海国際博覧会に際しては、ジャパンデーに合わせて財団法人の角川文化振興財団(理事長:角川歴彦)の企画「遣唐使船再現プロジェクト」(協賛:森ビル、読売新聞社、経済産業省、文化庁など)によって全長30m、全幅9.6m、排水量164.7tでエンジン付き遣唐使船(名誉船長:夢枕獏)が復元され、かつての遣唐使と同一の航路で大阪港から上海に入港した。出港式では住吉大社の安全祈願と歌手の坂本真綾によるプロジェクトのテーマソング『美しい人』(作曲・編曲:菅野よう子)の披露が行われた。プロジェクトの親善大使を務める俳優の渡辺謙を乗せて会場内を流れる黄浦江を航行している。

2010年(平成22年)の平城遷都1300年祭に際しても、同年開館の平城京歴史館と合わせて全長約30m、全幅9.6m、排水量300tの遣唐使船が復元された。2016年(平成28年)に平城京歴史館は閉館し遣唐使船の公開も中止されていたが、2018年(平成30年)の平城宮跡歴史公園朱雀門ひろばの開園とともに遣唐使船も改めて公開されている。

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 佐伯有清『最後の遣唐使』講談社〈講談社学術文庫 1847〉、2007年11月。ISBN 978-4-06-159847-8。  (旧版は講談社現代新書、1978年10月、ISBN 978-4-06-145520-7)
  • 西嶋定生『日本歴史の国際環境』東京大学出版会〈UP選書 235〉、1985年1月。ISBN 978-4130020350。 
  • 榎本淳一『唐王朝と古代日本』吉川弘文館、2008年7月。ISBN 978-4-642-02469-3。 
  • 東野治之『遣唐使と正倉院』岩波書店、1992年7月。ISBN 978-4-00-000622-4。 
  • 上田雄『遣唐使全航海』草思社、2006年12月。ISBN 978-4-7942-1544-4。 
  • 東野治之『遣唐使』岩波書店〈岩波新書 新赤版 1104〉、2007年11月。ISBN 978-4-00-431104-1。 
  • 森公章『遣唐使と古代日本の対外政策』吉川弘文館、2008年11月。ISBN 978-4-642-02470-9。 
  • 大津透『神話から歴史へ』講談社〈天皇の歴史 01〉。 
  • 渡邊誠『平安時代貿易管理制度史の研究』思文閣出版、2012年2月。ISBN 978-4-7842-1612-3。 
  • 石井正敏「寛平六年の遣唐使計画」『情報の歴史学』中央大学出版部〈中央大学人文科学研究所研究叢書 52〉、2011年3月。ISBN 978-4-805-74213-6。 
  • 石井, 正敏、村井, 章介、荒野, 泰典 編『律令国家と東アジア』吉川弘文館〈日本の対外関係 2〉、2011年5月。ISBN 978-4-642-01702-2。 
  • 石井正敏『遣唐使から巡礼僧へ』勉誠出版〈石井正敏著作集 2〉、2018年7月。ISBN 978-4-585-22202-6。 
  • 王勇『唐から見た遣唐使 - 混血児たちの大唐帝国』講談社〈講談社選書メチエ 125〉、1998年3月。ISBN 978-4-06-258125-7。 
  • 専修大学、西北大学共同プロジェクト 編『遣唐使の見た中国と日本 - 新発見「井真成墓誌」から何がわかるか』朝日新聞出版〈朝日選書 780〉、2005年7月。ISBN 978-4-02-259880-6。 
  • 東野治之『遣唐使船 - 東アジアのなかで』朝日新聞出版〈朝日選書 634〉、1999年9月。ISBN 978-4-02-259734-2。 
  • 古瀬奈津子『遣唐使の見た中国』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー 154〉、2003年5月。ISBN 978-4-642-05554-3。 
  • 茂在寅男他『遣唐使研究と史料』東海大学出版会、1987年4月。ISBN 978-4-486-00946-7。 
  • 曹復『遣唐使が歩いた道』「人民中国」翻訳部訳、二玄社、1999年7月。ISBN 978-4-544-05208-4。 
  • 滝川幸司『菅原道真 学者政治家の栄光と没落』中央公論新社〈中公新書〉、2019年。ISBN 978-4-12-102559-3。 

関連書籍

  • 森公章 『遣唐使の光芒 - 東アジアの歴史の使者』 角川学芸出版〈角川選書 468〉、2010年4月。ISBN 978-4-04-703468-6。

関連項目

  • 遣渤海使
  • 遣新羅使
  • 遣耽羅使
  • 日宋貿易
  • 遣明使
  • 五山文学
  • 入唐求法巡礼行記
  • 道の駅遣唐使ふるさと館 - 長崎県五島市(旧三井楽町)が南路の寄港地だったことにちなむ。遣唐使関連の展示コーナーがある。

遣唐使を扱った作品

  • 映画
    • 『天平の甍』(1980年、東宝。原作:井上靖、監督:熊井啓)
  • ゲーム
    • 『遣唐使の戦い』(1985年、翔企画。デザイナー:不明)

外部リンク

  • 遣唐使~その歴史的経緯と役割~ - 京都大学歴史研究会、2003年4月18日
  • 遣唐使船の模型 - 高岡市万葉歴史館
  • 気象学的にみた遣隋使・遣唐使の風 (PDF) - 外山真澄(新潟大学)
  • 『美しい人』 - 歌ネット

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 遣唐使 by Wikipedia (Historical)