高田 賢三(たかだ けんぞう、1939年(昭和14年)2月27日 - 2020年(令和2年)10月4日)は、日本のファッションデザイナー。ケンゾー創業者で、パリを拠点に活動した。会場を借りてショーを開催した初めてのデザイナーで、今日のパリコレの原型となった。
兵庫県姫路市出身。姫路市立野里小学校、姫路市立広嶺中学校、兵庫県立姫路西高等学校卒業後、神戸市外国語大学2部英米学科中退。1958年に文化服装学院に入学、男子学生としては2期生。師範科で1年間、服飾造形の基礎を学んだあと、デザイン科に進む。同級のデザイン科9期生には、コシノジュンコ、松田光弘、金子功ら、後のファッション界をリードする人材が揃っており「花の9期生」と呼ばれた。1960年に第8回装苑賞を受賞。
文化服装学院卒業後は小池千枝の紹介で浅草橋のアパレル会社「ミクラ」に松田光弘と共に入社、その後、学院同期の北原明子が働いていた「三愛」に松田と共に移り4年ほど務める。1964年に海外旅行の自由化がされると三愛に6か月の休職願いを出しフランスに渡る。そのままフランスに留まり、「ビューロードスティル」に勤めた後に1970年に独立。
パリ2区のギャルリ・ヴィヴィエンヌ(ギャラリー・ビビエンヌ)で、プレタポルテのブティック「JUNGLE JAP(ジャングル・ジャップ)」(現:ケンゾー(KENZO))をオープン。1970年に作品が『ELLE』の表紙を飾った。当時のプレタポルテデザイナーは自社ショールームで服を見せていた時代に、賢三は会場を借りてショーを開催。賢三の集客力に目をつけた「サンディカ(組合)」が合同でコレクションの開催を持ちかけ、1971年10月に賢三とドロテビス、シャンタル・トーマスが、同じ場所で’72春夏コレクションを合同発表した。この初の試みが、現在のパリコレ・プレタポルテの原型となった[1]。
1993年、LVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン) 傘下のブランドとなる。1999年にデザイナーから退くが、2002年頃に復帰し、2004年のアテネオリンピック式典・移動用ユニフォームのデザインを担当した。「混ぜるのが好き」という賢三の作風は、いくつかの異文化のオリジナリティを融合させたフォークロア調で、世界のブランド史、ファッション史で大きな位置を占める。
2020年9月中旬、パリで新型コロナウイルスに感染・発症。パリ郊外ヌイイ=シュル=セーヌにあるアメリカン・ホスピタルで闘病生活を送っていたが、10月4日、COVID-19の合併症によって死去したことをフランスのメディアが報じた。またフランス大統領官邸は悼む声明を発表した。81歳没。生涯独身であった。
墓所は姫路市の名古山霊苑内の名誉えい地。
2008年3月10日未明に、飲酒運転でパリ中心部の道路を逆走したとして警察に摘発された。同日昼過ぎに釈放された。
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