![周易 周易](/modules/owlapps_apps/img/nopic.jpg)
周易(しゅうえき)は易経に記された、爻辞、卦辞、卦画に基づいた占術であり、易経の異名の一つである。
中国哲学研究者の三浦國雄は著書において、易経について、
もともとこれは、おみくじのような断片的な占いのことばだったはずですが、一冊のテキストに編集されていく過程でずいぶん化粧をほどこされ、いつの間にか『易経』などと呼ばれて神聖な儒教の経典の仲間入りどころか、そのトップに祀り上げられたのです。
「化粧をほどこされ」たと述べたのは、漢の時代に繋辞伝をはじめとする注釈が書かれたことを指していて、これでこの書物もずいぶんらしくなったのですが、それでも卜筮の書というその性格が否定されたわけではありませんでした。
と語っている。
易経は、古い時代からの卜辞の集積から爻辞が生まれ、次いで卦名、卦辞が作成されるといった変遷を経て成立したものであることが、近年の出土資料からはっきりしてきた。そういった考察をまとめた研究の1つに、元勇準の「『周易』の儒教経典化研究 : 出土資料『周易』を中心に」がある。また1977年に安徽阜陽双古堆の西漢汝陰候墓から出土した、阜陽漢簡『周易』には卦辞爻辞に対して卜辞が付けられていて、詳細な占筮の書として使用されていたことを裏付けている。
従って台湾の邵詩譚や徐世大などの「周易の本文は卜筮のために書かれたものではない」という説は今日では成立の余地が殆んどない。
易経は周易の原文である爻辞、卦画、卦名、卦辞に十翼と呼ばれる注釈文を加えたものである。十翼とは下記の十個である。
十翼は孔子の作と班固『漢書』以降言われてきたが、現在ではすべてが春秋時代の孔子の作ではなく、戦国時代から漢初に至る間に徐々に作られたと考えられている。
ただし、近代の学者でもどこまでが誰の作なのかについては様々な説があり、定説がない。以下に要約する。
また、戴震の説により、他の十翼は後世の儒者が易を講義したときのメモを孔子の説だと誤って伝承したものだろうとした。説卦伝・序卦伝・雑卦伝は秦の始皇帝の焚書のときに失われ、漢代に無名の「河内の女子」なる人物が突然発見したという記録があることも指摘した。皮の説に近い考え方をしたのは丸山松幸で、彼の訳本は卦辞・爻辞・繋辞伝のみとなっている。
また周易とは別に易の名を持つ占術に、いわゆる漢易、断易や五行易とよばれる占術がある。これは易卦の爻に十干十二支を付加し、その五行の消長によって吉凶を断じるものである。呉の虞翻などがこの漢易の大家であった。ただ五行易の原典の1つである易冒では、易卦の爻に変化するものがない鎮静卦における占断は易卦の卦辞に従うとしており、断易もまた周易から切り離されたものではない。
周易の原文は卦辞と爻辞と呼ばれる文章からなり、易卦や卦爻と呼ばれる記号が付されている。
「易卦」の記号は「爻」を重ねたものであり、「爻」には陽と陰がある。このうち、「―」が陽爻、「--」が陰爻を表し、「爻」を3つ重ねたものを「八卦」もしくは「小成卦」、6つ重ねたものを「易卦」、「六十四卦」または「大成卦」という。
陽爻「―」と陰爻「--」が現すものは対をなしている。つまり明が陽で暗が陰、日が陽で月が陰、堅が陽で柔が陰といった感じで陰陽が別けられる。次に八卦の図形を挙げる。
また、易卦はもともと二進法で表す数字であるという説があり、次のように数を当てはめることができる。右側は二進法の表示であり、易卦と全く同じ並びになることが理解できる。
易卦が二進法の数字であると喝破したのはライプニッツであり、宋易の円図、方図の並び方から解読し、「坤」→「剥」→「比」から「乾」までに0から63までの数をあてはめたという。
ただし、円図方図では、爻の変化を上爻から順番に行っており、上図のように初爻から上爻に向かって順番に変化させたほうが、初爻から順に立卦する易の性格上合理的である。
張明澄著『周易の真実』(1998年日本員林学会、2008年に改訂版)では、「坤」→「復」→「師」から「乾」へという順序に易卦を並べ替えており、「乾、坤」から始まり「未済」で終わる『易経』の順序には、なんら法則性も根拠もないとしている。
漢代から宋代にかけての儒易の系譜は経典儒と呼ばれる。四書五経を重んじ、礼儀を第一に尊ぶ規範としての学問であり、『易経』は占卜の書とはいっても、もっぱら儒教の倫理を説き、儒家としての正しい処世を求めるため、経文の解釈はもっぱら十翼一辺倒となり、発展も見られなかった。
しかし、宋代から明代にかけて、儒易の系譜は、横渠学・朱子学・陽明学へと連なる、理学という学問体系を形成した。
まず、北宋時代に入ると、易卦を数理的に解釈する、象数易というものが誕生した。象数家の系譜は、円図・方図を作ったとされる陳摶(陳希夷)に始まり、种放・穆修・李之才(李挺之)、そして『皇極経世』を編んだ邵雍(邵康節)などの人脈を生んだ。
円図・方図は、現代に続く風水の系譜のなかでは主流となっている元合派、つまり三元派や三合派と呼ばれるグループの理論的な拠り所である。
宋代の経典儒としては、『太極図説』を編み「後天優勢、以学為志」を説いた周敦頤(周濂渓、1017-1073)、「気即理」を説き「横渠学」を立てた張載(張横渠、1020-1077)、そして「性即理」「天理」を説いた程顥(程明道、1032-1085)と「心即理」「理気二元」を説いた程頤(程伊川、1033-1107)の兄弟が「理」について異論を唱え、それぞれの学派を形成する。
程顥の系統は、南宋の朱熹(朱元晦、1130-1200)へと引き継がれ「朱子学」となる。
程頤の系統は、南宋の陸九淵(陸象山、1139-1193)へと引き継がれ、さらに明の王守仁(王陽明、1472-1529)によって「陽明学」が打ち立てられ、さらに王畿(王龍渓、1498-1583)、李贄(李卓吾、1527-1602)と続く。
宋・明の「理学」にあっては、「気」と「理」のあり方がもっとも問われるところである。「気」とは自然、つまり先天的に存在する数理のようなロジックであり、経験則と言い換えることもでき、「格物致知」という「大学」以来の理念によって現出される。しかし「理」とは倫理であり、もともと人間に生まれつき備わるものなのか、学ぶことによって後天的に得るものなのか、あるいは行いによって初めて真実となるのか、などが争われたのである。
宋の象数易以前は、風水を観察する者にとって「気」を読むこと、つまり経験則だけが頼りであり、「三式」などの理論も、もっぱら「記号類型」という経験則であり、「理」と言えるような根拠は持ち得なかったのである。 つまり現代の風水信奉者が「非科学的」といって軽蔑されることに耐えられなくなって、磁気地理学などといった「疑似科学」に腐心するように、当時の風水師たちが「理気」という言葉に陶酔していったのも無理からぬことではある。しかしそれは「腐儒」という堕落と隣り合わせであったことも否めなかった。
時間や方位など、あらゆる物事に易卦や干支という記号をつけて分類した上で、共通するものから規則性を見出し、次に来るものを予知する、という中国式記号類型学の手法は、「格物致知」という、二千年来中国の学問を支え続けた理念に合致するだけではない。そのような経験を持たない西洋科学から見て否定も肯定もできないし、少なくとも「反科学」とは言えない分野である。
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