![田原市 田原市](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b3/Tahara_montage.jpg/400px-Tahara_montage.jpg)
田原市(たはらし)は、愛知県の南端部に位置する市。
東三河地方に位置し、東側で豊橋市と接している。太平洋に面する渥美半島の大部分を占めている。
平安時代中期頃に熊野修験者たちが当地に流入し、紀伊国の地名にちなんで集落の名をつけたものという。
地名の故地は和歌山県東牟婁郡串本町にあり、近在する蔵王山も同様の由来をもつ。
「田原」という地名自体の「原」は、丘陵地の樹木の育たない土地を指すという。
田原市は渥美半島の大部分を占める自治体である。渥美半島は東西50km・南北5-8kmと東西に長く、標高200-300mの山地塊、洪積台地、沖積低地からなる。全体的に洪積台地である太平洋側が高く、三河湾に向かって徐々に低くなる。渥美半島の南西端には伊良湖岬がある。
渥美半島の北側は三河湾の渥美湾に面しており、渥美湾には田原市街地北東の田原湾と福江市街地北の福江湾という支湾がある。渥美半島の南側は太平洋に面しており、日出の石門から静岡県浜松市まで、約50㎞にわたって片浜十三里と呼ばれる砂浜海岸が続いている。片浜十三里は伊良湖岬に近い恋路ヶ浜や赤羽根市街地の赤羽根海岸などに細分化される。
渥美半島の南西は伊良湖水道を挟んで志摩半島がある。伊良湖岬の沖には三島由紀夫の小説『潮騒』で有名な神島(三重県鳥羽市)があり、神島には伊良湖港より定期船が運航されている。神島までは鳥羽港からよりも伊良湖港からの方が若干近い。
渥美半島に約7ある山地塊は、赤石山脈や弓張山地から続く秩父帯の一部である。弓張山地に近い東側から順に、田原市街地北側の蔵王山(250m)、田原市街地西側の衣笠山(278m)、赤羽根市街地西側の大山(320m)、伊良湖岬東側の宮山(139m)、伊良湖岬の古山(91m)などがある。秩父帯は神島や答志島に続き、さらには紀伊山地へと続いている。
田原市街地を流れる汐川や、福江市街地を流れる免々田川は、標高5m以下の沖積低地を形成している。太平洋岸には高い海食崖が連続していることから、渥美半島に降った雨水の大半は三河湾に向かって北に流れる。このため太平洋岸には、赤羽根市街地を流れる池尻川流域以外には沖積低地が見られない。
渥美半島の先端から三河湾側には西山砂丘があり、その先の福江湾には砂州が発達している。田原市北東部には汐川干潟があり、渡り鳥の飛来地となっている。汐川干潟の先は埋め立て地であり、トヨタ自動車等が操業する工業用地となっている。田原市の市域は三河湾国定公園や渥美半島県立自然公園に指定されている。 将来、発生が予想されている南海トラフ巨大地震では、最大7mの津波が到達することが予想されている。これは愛知県下の市町村で豊橋市と並び最も高い値である。
太平洋を流れる黒潮の影響を受けるため、渥美半島は年間を通じて温暖な海洋性気候であり、年平均気温は摂氏16.9度である。伊良湖特別地域観測所の年間降水量は1,603mmであり、周辺地域と比較するとやや少ないため、豊川用水の通水以前は慢性的な渇水が農業などに大きな影響を与えた。降雪日数は10日以内の年が多く、積雪を記録することはほとんどない。太平洋に突き出した半島にあるため日照時間が比較的長い。このことは田原市で電照菊の栽培が盛んなこととも関係している。
渥美半島は風が強いという特徴があり、月ごとの平均風速は年間を通じて3mを超えている。特に冬季は北西の伊吹山方面から季節風が吹き、気温の割に体感温度は低い。かつてはこの強風を利用して干した大根が冬の風物詩であった。2004年(平成16年)以降にはこの強風を利用するために、西端部の西の浜や北東端部の臨海工業地帯などに風力発電施設が建設されている。
各町ともに田原市への合併と同時に町名が設置されている。
田原市域には縄文時代には人々が住んでいたことが知られ、縄文晩期の遺跡吉胡貝塚・伊川津貝塚からは多数の人骨が出土している。11世紀末~13世紀には窯業が栄えた。後世渥美焼と呼ばれることとなった陶器は、現在平泉など各所で発掘されている。渥美焼の窯跡であった大アラコ古窯跡や百々陶器窯跡などは国の史跡に指定されている。 また、12世紀末の東大寺再建の際には、建築物の屋根瓦の調達元となった(伊良湖町に窯跡が残る)。ただし渥美半島の陶器生産は14世紀ににわかに途絶えてしまっており、その原因も諸説あるものの不明である。
田原市の神戸地区は、伊勢神宮荘園であった。(飽海本神戸・新神戸・大津神戸・伊良湖御厨)
市の中心部である田原は、戦国時代には戸田氏、江戸時代には三宅氏の城下町として栄えた。三宅氏の田原藩は1万2000石の小藩ながら譜代大名・城持の家格であり、最高裁判所のある東京の三宅坂は三宅氏の田原藩邸があったことから名付けられた。ただし、半島ということもあり慢性的に水不足に苦しみ、さらに強風と地味の悪いこともあって農業は振るわず、田原藩は経済的には困窮し続けることとなった。
田原藩から出た人物としては、江戸時代後期の代表的画家で、文人でもある渡辺崋山が有名である。田原藩の家老として政務をとった渡辺崋山は優れた政治家でもあり、農学者大蔵永常を招いて農政改革を行い、天保の大飢饉の際には藩内から1人も餓死者を出さないなど優れた行政手腕を発揮し、田原の一部の人々に今もなお慕われている。江戸時代の福江地区には、大垣系の戸田氏による陣屋が置かれ、畑村藩の領地であった場所もある。
明治以降は養蚕業が盛んとなり、戦前には小さいながら芸者街が出来るほどであった。田原町時代には豊橋電気 (1921-1939)が電気事業を行っていた。戦後は、唯一の産業であった農業が振るわず経済的に衰えた。この時期の田原を支えたのは市北部で産出する石灰岩の採掘であった。しかし1968年に豊川用水が開通、同時に土地改良と耕地整理を実施し、さらに商品作物や花卉園芸を集中的に行うことにより、全国有数の大規模近郊農業地帯として発展を遂げた。
1953年(昭和28年)以後には愛知県が町村合併を推進しており、1954年(昭和29年)には人口8,000人を超える町村をつくることを目的とする愛知県町村合併計画試案を策定している。1954年10月1日には田原町外二ヶ村合併促進協議会が設置され、1955年(昭和30年)1月1日に田原町・神戸村・野田村の1町2村が合併して新・田原町が発足した。合併促進協議会は杉山村も加えた1町3村での合併を念頭に置いていたが、杉山村は豊橋市との合併か田原町との合併かで揺れたが、遠州灘に面した六連地区は田原町、三河湾に面した杉山地区は豊橋市に分村合併することで合意に達し、1955年4月1日に田原町に編入された。
1962年(昭和37年)には三河港が愛知県3番目の重要港湾に指定され、その後は工業用地の整備が進んだ。その後は企業誘致を目的とする土地造成が行われ、1969年(昭和44年)から埋立地に企業が進出、1979年(昭和54年)にはトヨタ自動車田原工場が操業を開始した。第二次産業従事者の流入とともに人口も増え、田原町の財政は豊かになったことで、公共施設の建て替えや区画整理などの大型事業の実施が可能となった。田原町は普通交付税不交付団体であった。
2000年(平成12年)12月の合併特例法改正後には渥美郡の合併論議が加速し、2001年(平成13年)10月2日には田原町・赤羽根町・渥美町の渥美郡三町合併協議会の初会合が行われた。しかし、合併協議会は新自治体の名称や議員定数・議員任期をめぐって揺れ、2002年(平成14年)7月25日の第13回合併協議会をもって休止された。3町での合併協議の破綻後には、赤羽根町と渥美町の町民から住民発議がなされ、2003年2月5日には田原町と赤羽根町の2町による第1回合併協議会が開催された。2町の合併議論は順調に進み、2003年(平成15年)8月20日には田原町が赤羽根町を編入、同時に市制施行して田原市が発足した。愛知県32番目の市である。
2003年5月には渥美町の山本道雄町長が病気を理由に辞任した。渥美町長選挙で当選した原功一町長は田原市への編入合併を模索し、2004年(平成16年)5月23日に渥美町で行われた住民投票でも63%が編入合併に賛成した。同年8月16日には田原市・渥美町による第1回合併協議会が開催され、2005年(平成17年)10月1日に田原市が渥美町を編入した。
2005年度(平成17年度)までは東三河地方で唯一の普通交付税不交付団体だったが、渥美町編入後の2006年度の財政力指数は1.20であり、普通交付税交付団体となった。
2018年度(平成30年度)当初予算案
2005年(平成17年)に開催された2005年日本国際博覧会(愛知万博)では、「一市町村一国フレンドシップ事業」が行われた。名古屋市を除く愛知県内の市町村が、120の万博公式参加国をフレンドシップ相手国として迎え入れた。
1968年(昭和43年)に豊川用水が通水したことで、渥美半島は全国屈指の農業地域となった。東三河地方は露地栽培の野菜や施設園芸作物で全国屈指の産地であり、中京圏・首都圏・関西圏など全国各地に出荷されている。農業は温暖な気候を生かして、野菜、果物、花などの近郊園芸農業が盛んである。野菜はキャベツ・ハクサイなどを生産し、キャベツは田原市と豊橋市が全国屈指の産地となっている。ブロッコリーの生産高は日本一で、電照菊、バラ、カーネーション、鉢物の栽培も盛んである。豊橋市と合わせて、特産品にあさりせんべいがある。昭和7年ごろから栽培されているアールスメロンは「あいち伝統野菜」に指定されている
2006年(平成18年)の農業産出額は724億円であり、愛知県全体の3109億円の23.3%を占めていた。市町村別農業産出額においては2006年(平成18年)から2018年(平成30年)まで12年連続で全国1位となった。
1964年(昭和39年)に東三河工業整備特別地域が指定され、三河湾岸に三河港臨海工業地帯田原地区が開発された。1979年(昭和54年)1月にはトヨタ自動車田原工場が生産を開始した。2011年(平成23年)には車両を32万2,000台、エンジンを27万7,000基を生産した。田原工場の主な生産品目は、LS、IS、ランドクルーザープラド、RAV4である。また、2009年(平成21年)11月には東京製鐵田原工場が進出、操業開始した。
田原町/田原市の製造品出荷額等は、1955年(昭和30年)に21億円、1965年(昭和40年)に61億円だったが、三河港臨海工業地帯の開発とともに急増した。1975年(昭和50年)に285億円となり、1985年(昭和60年)には愛知県第11位の6,598億円、1990年(平成2年)には1兆円を超えて愛知県第5位となった。1996年(平成8年)には豊田市と名古屋市に次ぐ愛知県第3位となり、2004年(平成16年)には1兆26億円で愛知県第3位・全国第13位となっている。2005年(平成17年)の製造品出荷額等は愛知県の自治体として第3位の2兆29億円であり、その大半を輸送機械製造業が占めていた。2014年(平成26年)の製造品出荷額等は2兆536億3572万円であり、愛知県3位、全国17位だった。2017年(平成29年)の製造品出荷額等は1兆7769億円であり、豊田市(14兆2344億円)、名古屋市(3兆3442億円)、安城市(2兆1056億円)、岡崎市(2兆701億円)に次いで愛知県第5位だった。
田原市に大学のキャンパスは存在しないが、愛知教育大学の伊良湖臨海教育実験実習施設がある。
中心となる駅:三河田原駅
愛知県の市では、長久手市とともにJRと名鉄の両方が全く通らない市でもある。
1980年代後半までは、三河田原駅から田原市内の各集落を連結する民営バスもあったものの不採算から廃止された。交通空白地帯となった地区の交通確保のため、2002年からは市の委託運営によるコミュニティバス「田原市ぐるりんバス」が走っているが2015年ごろから利用者の減少に伴ってか、市内中心部以外では「田原市ぐるりんミニバス」が運行されている。
太平洋側に国道42号、三河湾側に国道259号が走っており、両者は伊良湖岬で合流している。
1-3月には渥美半島菜の花まつり、5月には凧まつり、9月には田原祭り、五町合同花火大会が開催される。萱町、新町、本町のからくり人形を乗せた山車は、市の有形民俗文化財に指定されている。
4月の伊良湖神社の御衣(おんぞ)祭りは、伊勢神宮との古くからの関係があり沢山の人が集まる。
田原市が認定する地域の資源や特性を生かした優れた産品。 2017年時点で91品目認定されている。
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