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カネヒムロ


カネヒムロ


カネヒムロ(欧字名:Kane Himuro、1968年3月28日 - 1997年9月16日)は、日本の競走馬、繁殖牝馬。

1971年の優駿牝馬(オークス)を優勝。繁殖牝馬としても1978年の優駿賞年度代表馬であるカネミノブ(父:バーバー)を産んだ。

経歴

デビューまで

1968年3月28日、青森県六戸町の青森牧場で鹿毛の牝馬(後のカネヒムロ)が誕生。2歳春には上北町の牧場に移動、母と同じく金指の所有となった。金指は、冠名「カネ」を馬名の冒頭に用い、末尾には牝馬ならば植物名を組み合わせる命名ルールが存在した。そのルールに則り、仔には「カネ」にヒノキ科の「ヒムロ」を組み合わせた「カネヒムロ」という競走馬名が与えられた。

金指は、競走馬デビューに際して、阿部正太郎調教師や野平省三調教師に管理を依頼したが、小さく貧しい馬体だったために、両方に断られた。そこで金指は、阿部厩舎に入れず、余り物となった馬を多く管理していた若手の成宮明光調教師に依頼し、成宮厩舎に入厩が決定した。カネヒムロは3歳春に白井分場に入厩、成宮によれば入厩当時は「尻尾の毛もわずかしかないし、ネズミみたいにちっこい馬で商品価値のない馬だなあ」と振り返っている。

競走馬時代

1970年8月30日、中山競馬場の新馬戦(芝1200メートル)に蛯沢誠治が騎乗して逃げ切り、デビュー戦勝利。2連敗の後、200万円以下のおみなえし賞で2勝目となった。再び2連敗を経て年を越して1971年、4歳と始動戦には1月23日、東京競馬場の新春4歳牝馬ステークスに、加賀武見に乗り替わり、9頭立て6番人気の支持で出走。後方待機で直線コースに向かい、追い込みを決めて3勝目とした。

新春4歳牝馬ステークス参戦直前は、発情を防ぐためにホルモン注射を行っていた。発情による精神的不安を解消して勝利に至ったが、その代償として生理不順を起こし、それからクイーンカップ12着、蛯沢に戻った桜花賞のトライアル競走、阪神4歳牝馬特別では18着。桜花賞では岡部幸雄に乗り替わり、15着。優駿牝馬(オークス)の東京4歳牝馬特別でも8着となり、4連敗と調子を落としていた。

白井分場で調整された後、6月6日の優駿牝馬(オークス)は不良馬場の中、10番人気で出走した。後方の位置から、直線大外に持ち出し追い上げていた。中団から先に抜け出していたサニーワールドを外からかわし、1馬身差をつけて先頭で入線した。当時のレコードタイムとは、8秒遅い走破タイムで優勝、岡部にとって自身初となるクラシック勝利であった。なお、参戦時の馬体重384キログラムは、GI級競走史上最少記録を更新した。岡部は「(前略)ただオーバーペース気味だったので展開がカネヒムロ向きだった。とにかく道悪がうまい。それにギリギリに仕上がっていたし、一瞬の切れ味はハクセツと甲乙つけがたい」と証言している。

以降、11戦に出走するも勝利することができなかった。6歳3月の中山牝馬ステークスでは最下位で11連敗となり、可哀想に思った金指により引退が決定した。

1981年7月、日本中央競馬会が主催し、松屋で開催された「あなたが選んだサラブレッドなんでもベスト10」の「雨が降ると思い出を残してくれた馬」部門にて1万834票を集め、1位に輝いている。

繁殖牝馬時代

引退後は、生まれ故郷の青森牧場で繁殖牝馬となった。初仔のカネミノブ(父:バーバー)が、1978年の有馬記念を制し母仔での八大競走制覇を果たした。繁殖牝馬引退後も功労馬として北海道で余生を送り、1997年秋に放牧中転倒し右前脚骨折、安楽死の処置が執られた。

競走成績

以下の内容は、netkeiba.com およびJBISサーチ の情報に基づく。

繁殖成績

血統表


脚注

出典

Collection James Bond 007

参考文献

  • 『優駿』(日本中央競馬会)
    • 1990年2月号
      • 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 48】泥だらけの女王 カネヒムロ」

外部リンク

  • 競走馬成績と情報 netkeiba、JBISサーチ

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: カネヒムロ by Wikipedia (Historical)