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髙見山 大五郎(たかみやま だいごろう、1944年〈昭和19年〉6月16日 - )は、アメリカ合衆国・ハワイ準州 (Territory of Hawaii) マウイ島出身で高砂部屋に所属した元大相撲力士。本名は渡辺 大五郎(わたなべ だいごろう)、米国籍時の本名:ジェシー・ジェームス・ワイラニ・クハウルア(Jesse James Wailani Kuhaulua)。最高位は東関脇。身長192cm、体重205kg。愛称はジェシー。
横綱経験者対戦人数16人は歴代1位。また、正確性のある体重の測定記録では大相撲史上初の200kg超の力士という説もある。
高見山の四股名は初代高砂、または優勝制度確立後初の優勝力士(髙見山酉之助)が名乗るなど、高砂部屋で由緒ある出世名である。番付に載る前の初土俵の場所だけ、本名の「ジェシー」を名乗っていた。
砲丸投げ等の投擲競技を経てアメリカンフットボールに打ち込んだ。しかし、高校時代に交通事故で足腰を負傷して1年間歩行不能になるほどの重傷を負い、後遺症が残りフットボールの道を断念した。高校卒業後は運送会社で働いていた(パイナップル工場に勤務していたという説もある)が、1964年(昭和39年)、当時明治大学相撲部長だった滝沢寿雄らの紹介で師匠高砂(元横綱前田山)に5年間衣食住を保障するとスカウトされ、同年2月22日来日、羽田空港に現れた高見山は初めて体験する冬の寒さに「いけない。間違ってシベリアに来てしまった」と震え上がったという。受け入れ先の高砂部屋は外国人の弟子の来日に大騒ぎだった。後に特等床山となった床寿は「外国人だから、きっと金髪だろう。金色の髷を結うのは楽しいだろうなぁって期待してたんだよ。でも、ジェシーは黒髪。ガッカリしたねぇ(笑)」と振り返っていた。同年3月場所にて初土俵を踏んだ。5月場所4日目には対戦相手の吉瀬川が何もせずに土俵から逃げ出したが「逃げ出し」は決まり手に出来ずに仕切り直しとなった。
新弟子時代にはちゃんこの味に馴染めず初めは少しだけ汁をすくって食べるのが精いっぱいであり、中でも白身魚が大嫌いであった。最初の方こそ、洋食が特別メニューとして出されたが、次第にそのような特別扱いはすぐになくなった。なかなか食が進まない様子を見かねた当時のおかみは、ある時丼を取り上げて高見山の分のちゃんこを食べてしまうという荒療治を敢行したこともある。結局ちゃんこに完全に慣れるまでに1年を要したといい、ケチャップをかけて食べることでやっと問題なく食べられるようになったという。他方で、魚のちゃんこでは不憫と思った女将の配慮で肉炒めが出たが、やっかむ弟子もいないなかで特別扱いを拒否したという話もある。因みに日本食で気に入っているのはとんかつである。
入門当初は体が固く、股割りの稽古の際に涙しその時に言ったといわれる「目から汗が出た」は名言となり、様々なドラマやお笑い番組で模倣された。相撲教習所への通所は特例で免除されており、その代わりに部屋で高砂からのマンツーマン指導を受けていた。稽古は朝4時から正午まで行われ、高砂からは拳骨で育てられた。
若い頃は心労が溜まってもすることがなく(パスポートは親方が預かっているため許可がなければ帰国できなかった)、慣れない力士生活に苦労が絶えなかった。「若い頃は山手線に乗って時間を潰し、寂しさを紛らわせた」というエピソードが知られているが、これは事実ではない。高見山によれば、当時は両国駅から(山手線が通る)秋葉原駅までの行き方も知らなかったという。
元々力士としてではなく、「外国人」として注目を浴びていた高見山は幕下時代になると注目が薄れ、「もう、そろそろつらくなって逃げ出すんじゃないか」とまで言われた が、初土俵から3年後の1967年(昭和42年)3月場所で新十両に昇進し、初の外国出身外国籍の関取となった。当時の十両は層が薄かったため、神風正一や浅香山(元小結若瀬川)、東富士 (元横綱) は異口同音に「3、4場所、遅くても年内に幕内に昇進する」と予想した。十両昇進時に掲載された記事では、将来の三役、打倒・大鵬を果たすと期待され、当時より師匠の高砂から「今どきの日本人の若者と比べれば、彼のほうがずっと日本人的な考え方をしている」と評された。
その期待に違わず、翌1968年(昭和43年)の1月場所で新入幕を果たして史上初の外国出身外国籍の幕内力士となる。同年3月場所では4日目に佐田の山を立合いのぶちかましからの激しい突っ張りで突き出して佐田の山に引導を渡す金星、9月場所でも柏戸から金星を挙げた。1969年(昭和44年)11月場所で小結に昇進するが、その後小結と平幕の往復が続く。しかし1971年(昭和46年)に師匠・高砂親方が亡くなると、「ボスが死んで意欲も失った」と廃業も考えた。が、師匠夫人ら周囲に励まされて現役続行を決意する。
1972年(昭和47年)7月場所では13勝2敗の好成績で史上初の外国出身力士による幕内最高優勝を遂げる。10日目には、1敗の高見山と3敗の貴ノ花の勝負があり、熱戦の末、高見山の圧力をしのいだ貴ノ花が、左四つからの上手投げに仕留めて1差となったが、そのまま千秋楽まで逃げ切った。表彰式では当時のアメリカ大統領のリチャード・ニクソンの祝電が読み上げられた。
翌場所には外国出身で初の関脇に昇進し、大関候補の一人と目されるようになる。1974年(昭和49年)7月場所には関脇で11勝と大関を指呼の間にとらえる成績を残したが翌場所は負け越すなど相撲の不安定さを克服できず、大関昇進は果たせなかった。よく稽古をつけてくれた大関の前の山の引退が、高見山の出世を止めた一因ともいわれている。1982年(昭和57年)以降は三役入りもなくなったが、なお40歳近くまで現役を続けるという持久力を見せ、幕内連続出場1231回という記録を残した。先述の高校時代の事故の影響もあり足腰の脆さゆえに投げられると弱かったが、力士時代の負傷は少なく長い現役生活に繋がったと評されている。
1981年(昭和56年)9月場所で連続出場記録が怪我のために途絶え、「親方からは記録より体が大事だと言われたが、ワシには体よりも記録の方が大事だった」という言葉を残している。1983年11月場所12日目の大潮戦で負傷して途中休場し、左ヒジの変形関節症と捻挫後遺症により1984年1月場所8日目から途中休場して十両に陥落した。
常々「40歳まで相撲をとりたい」「(当時建造中だった)両国国技館で相撲を取りたい」と語っていた。1984年(昭和59年)5月場所、40歳まであと1ヶ月のところで力尽きて引退を表明、両国国技館で相撲を取る夢も果たせなかった。引退宣言は場所中に唐突に行われたため、相撲ファン以外も驚かせマスコミで大きく取り上げられた。同場所での千秋楽の最後の一番(玉龍戦)は黒星だったが、満員の観衆から大声援を受け花道を引き揚げる際には花束も贈呈された。引退に際して高見山は「20年間、相撲を取り続けてきたことを誇りに思う」「生まれ変わっても力士になりたい」と力強く語った。 昭和天皇も、日本相撲協会を管轄していた森喜朗文部大臣(当時)へ「髙見山がなぜ辞めたのかね」「髙見山は残念だったろうな」と述べ、後に森文部大臣からそれを伝えられた高見山は「もったいないです、もったいないです」と涙を流したと言われている。
十両昇進時点で既に永住を決断しており、引退後も協会に残ることを希望して現役中の1980年(昭和55年)に日本国籍を取得し、日本名は渡辺大五郎(夫人の姓と四股名を合わせたもの)とした。引退後は年寄・東関を襲名し、後に審判委員を務めた。
1968年1月場所に新入幕して以来、16年間、97場所にもわたる幕内在位は当時の大相撲最長記録である。また述べ12個の金星を獲得し、一時は現役力士の最多記録だった。その巨体とパワーは、ツボにはまれば輪島や貴ノ花を圧倒するほどのものであり、特に輪島とは19勝24敗(不戦勝1個を含む)と互角に近く、金星12個のうち7個は輪島から獲得している。また貴ノ花との対戦も弁慶と牛若丸のそれに譬えられ、人気を博した。典型的なそっぷだが足腰の強かった貴ノ花と、超あんこ型であったが腰が軽かった高見山は、そういう意味でも対照的な力士であった。引退時点では他に戦前・戦中生まれの力士は一人も存在せず、高見山が戦前・戦中生まれの最後の力士だった。
中国・韓国(朝鮮)など、東アジア圏の出身者を除けば高見山は外国出身者として当時最も上位で活躍した力士であり、後の各国出身力士、特にハワイ勢(すなわちポリネシア勢)の活躍の道を開いた。アメリカ人らしい陽気さと巨体を持つのと同時に、異境での辛い修行に耐え忍ぶ古来の日本人のような生き方も広く知られ、相撲ファン以外にも絶大な人気があった。独特の長いもみあげなど特徴ある容貌も人気で、テレビCMに出演するなど土俵の外でも活躍した。のちに弟弟子となる小錦を自らスカウトし、自分の弟子でもある曙を横綱まで育てるなど大相撲の国際化にも大きく貢献した。ハワイ出身の関取としては、この他にも大喜を育てた。最近は高見盛の師匠としても知られ、師弟2代で角界の人気者となった。東関部屋師匠としては「礼儀正しくきちんと挨拶できる力士」「相撲は攻撃相撲」「お客さんを大切にする」というモットーを掲げていた。一方、自身が異国で苦労して外国出身関取として大成し、笹川良一などのタニマチを得て社会的地位を築き上げた経験から、外国出身力士の弟子が現役時代の自分のように我慢ができないことに苛立ちを覚えるなど彼らと折り合いが悪かったという評価もある。出世頭の曙の姿勢も東関には甘く映ったためか、彼との対立も深刻であった。
上述した功績もあって、2001年には本派本願寺ハワイ別院からハワイ人間州宝として表彰された。
2009年(平成21年)6月15日、日本相撲協会を定年退職した。かつての人気力士の定年とあって、テレビの情報番組などで大きく特集が組まれ、現役時代の映像も多く流された。同年5月場所限りで現役を引退した弟子の潮丸が師匠の退職と同時に「東関大五郎」を襲名し、東関部屋を継承した。その際に「もう一度、ハワイの力士を育てたい」と語った。また「一番の思い出は曙が横綱になったことかな。師匠としては最高の瞬間だったし、今でも誇りに思う」とも語った。
同年に開かれた定年を祝う会では、麻生太郎首相(当時)とバラク・オバマ大統領(当時。ハワイ出身)から祝電が届いた。 髙見山の定年退職を受け、アメリカ合衆国下院は2009年6月15日に彼の日本相撲界への貢献と日米親善に尽くした功績を称え、本会議で異例の感謝決議を行った。同年10月に第57回菊池寛賞の受賞が発表され、スポーツ関係者の受賞は2001年のイチロー以来で、大相撲関係者としては史上初の受賞となった。同年12月にはスポーツ功労者に選ばれている。
なお、定年退職後も単発でテレビ出演を行っている。
2017年のインタビューではテレビで東関部屋の力士を応援する一方、スポーツジム通いも日課、とされている。高見山はそのインタビューで、「プールに入ったり、自転車こいだり。体重が130キロ台に減りました。ジムのサウナでよく話しかけられます。『テレビで名前出てたよ』って。今でも覚えてもらっているのは光栄なこと。相撲をしてきてよかったって思いますよ」とコメントしている。
2019年12月13日、13代東関を襲名し部屋の師匠となっていた潮丸が41歳の若さで逝去した。その夜、葛飾区に移転していた部屋に弔問し、通夜・葬儀にも参列した。「まだ若い。こういうことになって…。これからですよ。もう少しいてほしかった」と早逝した弟子を悼んでいる。
2020年2月6日には日本相撲協会の諮問機関でもある「大相撲の継承発展を考える有識者会議」に招かれ、大相撲の国際化についての議論に加わった。「言葉を教えるのが一番大事。相撲の基本も大事。わたしは30歳前にハワイへ帰ろうかと思った。結婚して、子どもができて、日本で頑張ろうと思った。慣れるまで15年かかった」と自らの経験を語り、「国際化を進める上でも、国技であることを忘れてはいけない」と訴えたという。会合の後に取材に応じ、「基礎が大事。野球でも同じだと王さんも言っていた。今の力士はケガが多い。番数が足らない。30、40番はやってほしい」と話した。
2021年5月30日、華王錦の断髪式を旧東関部屋の自宅で行い、入門時の師匠として止めばさみを入れた。華王錦の引退時、葛飾にあった東関部屋が同年3月場所後に消滅し二子山部屋が転入したためその建物で断髪式がかなわず、「最後の弟子だから、私が責任を持って(まげを)切るよ」と申し出てのことであったという。
2022年8月から2024年3月までは残存している相撲部屋の施設を元横綱の白鵬翔が継承した旧宮城野部屋に貸与していた。
東関部屋の出世頭の曙の葬儀の際は「ご苦労さん。彼は54歳ですか?私はあと2カ月で80になるけどね。もう少し頑張ってほしかった」と目を潤ませながら曙の早すぎる死を惜しんだ。
高見山は冬の寒さには中々慣れず、冬になると扁桃腺が腫れた。1966年(昭和41年)には扁桃腺の手術を受けたが、2週間の入院という医師の医師の指示にそんなに休めないと従わず翌日から稽古を再開し、このとき執拗な喉輪攻めを受けたために声帯を痛め、独特のかすれ声になった(医師からは手術をすれば元の声に戻ると言われたが、長い期間リハビリを行わなければならないため、今の所手術は受けていない。)。元々は美声で知られ、高校のコーラス部ではテノールを担当し、歌も上手かったという。幕内昇進後、高見山はハワイに帰省したが、現地の空港で声も耳も潰れた高見山を見たハワイの人々は愕然としたといい、そのこともあってハワイからは新弟子が期待できなかったという。
パンアメリカン航空から送られた化粧廻しに掲げられた「Go for broke」(当たって砕けろ。元々はハワイ出身者も数多く在籍した第2次世界大戦時の米軍日系人部隊のスローガン)のとおり、ぶちかまして一気に前に出る破壊力抜群の取り口で知られた。「見る、立つ、出る。大丈夫ネ!」を口癖にするほど、立合いから相手をよく見て立つことを心がけた。これは高見山の師匠・高砂親方の方針も大きいと言われ、入門時から常に「ジェシー、プッシュ、プッシュ(組まずに押せ)」と指導していた。
高見山は初めての外国人関取、それも一般日本人とは異なる人種の力士として注目された。そのため、外国人差別を受けた、との見方がなされたこともある。例えば、「相撲は国技だから外国人を受け入れるべきではない」との評論がたびたびマスコミに顔を出し、高見山自身もそのような手紙などを受け取ったことがある。また「親方株取得は日本国籍を有する者に限る」との制約がなされたのは、高見山を閉め出そうとするものであったという見識もあった。ただし高見山はこれを一切認めず、多少はそのような反感めいたものがあったことは認めながらもそれらを例外的なものとし、「外人差別は一切感じなかった」と述べている。
現役時代の1976年5月、母のリリアンを53歳で亡くしている。高見山にとっては、この時が最も悲しかったと語っている。立場上高砂親方(元横綱・朝潮)夫妻にだけは母の死をすぐに打ち明けたが、本場所が始まる直前だったことから周囲への影響を避けたいと場所が終わるまでは口外しないように頼んでいた。高見山はこの時葬儀に出席できない心境を、「ハワイでは親が死んだ時や悲しんでいる時に子は故郷に帰りそばにいてやるもの、でも今そんなことはできない。日本の『つらい悲しい時でも故郷を思い精進する気持ち』を大切にする。」と言っていた。母の供養を果たすべく臨んだ5月場所では小結として15日間相撲を取り続け、勝ち越して終えている(毎日新聞の記事より)。
長男の渡辺弓太郎は小学校時代、力士の道を断念している。中学卒業後単身渡米しスポーツ・エージェントの道へ進んだ。2003年(平成15年)、松井秀喜の入団に合わせるかのように米メジャーリーグベースボールのニューヨーク・ヤンキースに入り、ヤンキースタジアム運営部職員として活躍中。サンケイスポーツ紙は2007年1月、弓太郎が阪神タイガースからポスティングシステムにより入団した井川慶の通訳を務めると報じた。
従兄弟に元中日ドラゴンズ投手のフレッド・クハウルアがいる。
高見山はその人気振りから、朝潮(師匠と弟弟子、どちらの朝潮かは不明)からCM横綱と呼ばれるほど多数のCMに出演した。『サンデー毎日』に掲載された、1977年〜1978年当時の大相撲力士のCM露出を元に作成した「CM場所番付」でも高見山は唯一の「横綱」に選ばれている。
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