奈良県(ならけん)は、日本の近畿地方に位置する県。県庁所在地は奈良市。
紀伊半島内陸部にあり、令制国の大和国の領域を占め、北西部の盆地部を除けば険しい山々がそびえており、人口の偏りが大きい。都道府県面積は全国で8番目に狭く、内陸8県では最も狭い。
奈良県は可住地面積が全国最下位となっており、人口の9割以上が北西部の奈良盆地(大和平野)に集中している。北西部は京阪神大都市圏に含まれ、大阪や京都などの大都市への交通の便もよく都市近郊地域として発展している一方、世界遺産(世界文化遺産)である古都奈良の文化財や法隆寺地域の仏教建造物など歴史的文化的遺産にも恵まれている。一方、南部地域はほとんどが山地であり、吉野杉に代表される林業や紀の川におけるレジャーなど自然を生かした産業があるほか、この地域でも世界遺産(世界文化遺産)の紀伊山地の霊場と参詣道といった歴史的文化遺産に恵まれている。
奈良県では、多くの自治体が大阪都市圏に含まれている。下記の表は、県内の都市雇用圏を表したものである。また、大阪都市圏の各自治体のほか五條市や吉野郡の一部も京阪神大都市圏に含まれる。県庁所在地である奈良市や生駒市は県の最北部に位置し、大阪や京都へのアクセスにおいては至便で、これらの大都市のベッドタウン・衛星都市となっている。また、奈良県では主要な公共交通手段として大手私鉄の近畿日本鉄道(近鉄)が大部分を担っており、県中部の橿原市や御所市、県南部の吉野町などからも大阪都市圏に1時間程度でのアクセスが可能となっている。2020年の県内の昼夜間人口比率は90程度であり、県外就業率は首都圏の埼玉県・千葉県についで全国3位の高さである。特に大阪府と生駒山地を挟んで隣接している生駒市の県外就業率は約50%と非常に高い(「奈良府民」も参照)。
奈良県には、12市7郡15町12村の自治体がある。村の読み方はすべて「むら」である。町の読み方はすべて「ちょう」である。
紀伊半島中央の内陸部に位置し、中央構造線によって南北に大別される。北部は奈良盆地や大和高原といったなだらかな地形が広がる一方、南部は大台ケ原や近畿地方最高峰の八経ヶ岳(八剣山)といった紀伊山地の急峻な地形で占められる。
南北2区分のほかに、北和、中和、西和、宇陀(東和)、吉野(南和)の5区分もあるが境界は曖昧なものとなっている。
気温の年較差・日較差の大きいいわゆる内陸性気候で、奈良における年平均気温は14.6°Cと全国の気象官署の中でほぼ平均的な気温である。降水量は年間を通じて1333.2mmと比較的少なく、奈良盆地(奈良市・橿原市などの地域)では冬型の気圧配置が強い時や、南岸低気圧が紀伊半島沖を通過した時に雪雲が流れ込むことがあり、積雪することもあるが、全体的にみると降雪の観測日数は多くない(年平均23.3日)。10cm以上の積雪となる時は殆どが南岸低気圧の通過によるものである。一方、五條地域・吉野地域・宇陀地域などは降雪・積雪に見舞われることがあり、天川村・上北山村にはスキー場も存在する(大阪市から津市以南の近畿では両村だけ)。これらの地域では積雪が交通に影響を与えており、奈良県の道路政策には「雪害対策」の文言が含まれている。また温帯である。
気象は一般的に瀬戸内海式気候に属する北部(基準地は奈良市)と太平洋側気候に属する南部(基準地は吉野郡十津川村風屋)に大別される。天気予報では北部と南部に分けて発表される。
さらに北部を北西部(基準地は奈良市で狭義の奈良盆地の地域)、北東部(基準地は宇陀市で、山辺郡・宇陀市)、五條・北部吉野(基準地は五條市で、旧大塔村の地域を除く五條市域と、吉野郡3町)と二次細分区分として3分割している。
南部は南東部(基準地は吉野郡上北山で、宇陀郡・吉野郡の大峯山系東側の地域)と南西部(基準地は十津川村風屋、五條市のうち旧大塔村の地域・十津川村・野迫川村)と2分割している。
県内は典型的な盆地気候であり、夏場はかなり蒸し暑い。最高気温25°C以上の夏日は奈良と五條がほぼ全日のうち60日間となっており、県内では最も多い。しかし2005年7、8月における最高気温では十津川村風屋の37.3°C、上北山の37.0°C、五條の36.7°C、奈良の36.2°Cと昼間の気温に関しては、十津川村風屋と上北山のほうが、奈良や五條よりも高くなることがしばしばみられ、かなりの酷暑になるために近畿地方で最も気温が高いこともある。また奈良盆地は、強い日射で地表と上空との温度差が大きくなりやすいことや紀伊山地、生駒山地、金剛山地、笠置山地に高温多湿の気流がぶつかることでも大気が不安定となるために、かなり頻繁に積乱雲(雷雲)が発生して夕立が起きやすい。奈良の夏季(5、6、7、8、9月)における平均雷日数は17.2日で、豊岡(兵庫県)の16.9日、京都の15.9日、彦根(滋賀県)の14.6日を上回る多さである。
冬の寒さはどの地域でも厳しい。近畿地方全体でも一、二を争うほどで、十津川では日本海側の豊岡市よりも寒くなる日もある。一般に寒いと言われる京都盆地よりも、奈良盆地のほうが冬場の平均気温は低い。また北部山岳部の冷え込みは3月ごろまで続くことが多く、年間を通じての最低気温の記録が3月では宇陀市大宇陀で−6.2°C、奈良市針が−6.1°Cとなっており、これらの宇陀地域は遅霜などの影響を受けやすい。このほか前述の通り積雪による影響を受ける地域もあり、奈良県内でも気象は一概に言えない状況である。
台風の影響は内陸部のため大きな被害を受けることは稀であるが、1912年(大正元年)の暴風雨で死者93人、1959年(昭和34年)の台風15号(伊勢湾台風)では風水害により死者行方不明者113名を出し、1998年(平成10年)の台風7号では室生寺五重塔など文化財が大きな損壊を受けるなど、台風が紀伊半島を北上する場合には地形の影響から大きな被害が出る。
吉野地区は年間を通して雨が多い、日本でも有数の多雨地帯であると同時に台風銀座でもある。台風が接近、通過する時は勿論だが、台風本体が東シナ海を通り、日本海に抜ける時や九州または四国に上陸し、中国地方を縦断する時にも暖かく湿った南東の風が紀伊山地にぶつかり、南東斜面を中心に大雨になりやすく被害をもたらすことがある。その典型例として、1889年(明治22年)8月に起きた十津川大水害と2011年(平成23年)の台風12号がある。特に、2011年(平成23年)の台風12号では上北山村の72時間降水量が国内の観測史上最大となる1652.5mmもの雨が降り、紀伊半島に甚大な被害をもたらしたことから「平成23年紀伊半島豪雨」または「紀伊半島大水害」と呼ばれている。
奈良県でも約2万5千年前(炭素14年代測定法による)には旧石器時代の人々が生活を始めた。県西部の二上山一帯は石器石材となるサヌカイトの産出地で、二上山北麓遺跡群には60か所以上の旧石器の遺跡が分布しており、ナイフ形石器・石核・剥片などの遺物が出土している。
縄文時代には木津川・吉野川水系の諸河川が流れる大和高原や吉野山一体を中心に遺跡が分布している。近畿地方では縄文草創期の遺跡は少ないが、県下最古の縄文遺跡は山添村中峯山(ちゅうむざん)の大川(おおこ)遺跡があり、県北部の布目川流域では、山添村の桐山和田遺跡や北野ウチカタビロ遺跡から草創期の隆起線文土器が出土している。また遅瀬川流域の山添村上津の上津大片刈遺跡からも草創期の爪文形土器が出土している。
吉野川流域には大淀町の桜ヶ丘遺跡で、縄文前期・中期の竪穴建物跡や炉跡などが検出されている。川上村迫の丹生川上神社上社の旧境内地には縄文早期から後期前期にかけての大遺跡宮ノ平遺跡があるほか、吉野町には縄文後期から弥生中期にかけての宮滝遺跡が所在する。宇陀地域では、縄文後期の本郷大田下遺跡(宇陀市大宇陀本郷)からはドングリの貯蔵穴(径・深さとも約1メートル)が45基発見された。
奈良盆地では布留遺跡、狐井遺跡など縄文早期からの遺跡が分布しているが、縄文中期の遺物は乏しい。縄文後期には遺跡数が増加し、布留遺跡では縄文後期の遺構に伴い硬玉製大珠も出土している。縄文晩期には橿原遺跡、竹内遺跡などがあり、畝傍山東麓の橿原遺跡からは魚骨類も出土しており、大阪湾岸地域との交易が想定されている。
弥生時代には奈良盆地を中心に集落遺跡が分布し、特に初瀬川左岸の唐古・鍵遺跡は弥生前期からの継続した大規模集落として知られる。唐古・鍵遺跡からは水田農耕の存在を示す水田遺構や環濠、木製農具をはじめ炭化米、高床式建物跡などの遺構が見られ、青銅器生産を示す鋳型も出土している。また、唐古・鍵遺跡の周辺にも分村的な多数の集落遺跡が分布している。
弥生後期には盆地周辺や宇陀地域において高地性集落が出現する。
紀元3世紀から4世紀ごろの古墳時代前期に、畿内の豪族が力を強めて周辺地域に覇を唱えた。その後長い年月と代替わりを経て、他地域との交流・攻防や大陸との交流の末、現在の日本地域の大半を支配する大勢力となった。これがヤマト王権と呼ばれる。
ヤマト王権は現在の皇室の祖であるとされ、宮内庁比定の天皇陵などが集まっている。また、邪馬台国と同一視する説、北九州にあった邪馬台国の子孫が移住して新たに建国した国であるという説、神武天皇の東遷説などがある。大化の改新前代に置かれていた宮廷直轄領である六御県(むつのみあがた)は、倭六県(やまとのむつのあがた)ともいい、天皇に献上するための蔬菜を栽培する菜園の霊を祀り、添(そふ)・山辺(やまのべ)・磯城(しき)・十市(といち)・高市(たけち)・葛城(かつらぎ)の6つの県(あがた)は特別視された。県内には、御県神社が式内大社として存在している。
3世紀の半ば過ぎから九州地方から渡ってきた豪族などの邪馬台国連合・ヤマト政権の盟主墳と考えられる古墳が累々と奈良盆地に築造されている。それらを列挙すると、東南部の外山古墳群、纏向古墳群、柳本古墳群、大和古墳群であり、墳丘長200メートルを超す巨大古墳が6基も存在する。これらの古墳群をまとめて大倭古墳群と呼称することもある。曾布地域の佐紀丘陵には佐紀盾列古墳群、馬見丘陵周辺には馬見古墳群が所在する。
古代からの神道信仰の伝統、および6世紀の仏教伝来以来の国策により、この地域には神社仏閣が多数存在する。蘇我馬子が創立した飛鳥寺や、聖徳太子が創立した法隆寺などが知られる。
ヤマト王権成立以来8世紀末まで、この地域に大和朝廷の累代の天皇の宮があり、都が置かれた。大和時代から飛鳥時代にかけては、桜井市、橿原市、高市郡に宮が置かれていることが多かった(飛鳥京跡)。特に藤原京は、持統天皇4年(690年)に着工され、持統天皇8年(694年)に完成した条坊制による中国風都城として知られる。その後、和銅3年(710年)に平城京遷都が行われた(奈良時代の始まり)。
平城京では遣唐使を通して唐など諸外国との文化交流が行われた。諸外国から輸入した宝物を一同に保管している正倉院は、事実上のシルクロードの終着点である。また、聖武天皇の鎮護国家政策により、興福寺など仏教勢力が力を強め、天平勝宝4年(752年)には東大寺で大仏開眼会が行われた。
平城京から長岡京への遷都の一因ともなった影響力を持った寺社勢力は、遷都後もそれらはこの地域に残り、その後地域の耕作者を支配下において大きな勢力となった。
平安時代後期は、清和源氏の源満仲の次男の源頼親(兄・源頼光/摂津源氏。弟・源頼信/河内源氏)の大和源氏の本拠地となった。なお、中近世の日本において大きな歴史的事件の舞台とはなっていないが、温暖で肥沃な盆地を抱える地域であるため、この地域の豪族はいずれも大きな力を持った。
一方、南部の険峻な山地には、その地の利を活かして反中央勢力(中でも反主流派の皇族)が居を定め、中央政府(京都の朝廷、および幕府)とにらみ合う時代が長く続いた。南北朝時代の後醍醐天皇の吉野朝廷(南朝)が有名である。吉野朝廷は地の利を生かしながら、また各地の武家勢力を糾合しながら60年にわたって抵抗し続けるが1392年に南北朝合一。しかしその後も活動を止めず、応仁の乱では山名持豊の推戴も受けた。
奈良時代に建立された藤原氏氏寺の興福寺・東大寺など南都寺院が大きな勢力を誇った。このため、鎌倉・室町の武家政権は大和に定まった守護を置けなかった。平氏が東大寺焼討ちなどを行って南都を制圧しようと試みたが、うまくいかなかった。
戦国時代には筒井氏・越智氏・十市氏・箸尾氏などが北大和地域に割拠し争ったが強力な支配勢力となりえず、細川氏や畠山氏・三好氏の後援を受けた赤沢朝経や木沢長政・松永久秀といった他国勢力の支配を受けた。16世紀末に戌亥脇党の筒井順慶が織田信長の力を背景に大和を概ね制する。また、一向宗の布教拠点として今井町が環濠城塞都市化して信長軍と闘ったが、武装放棄されたものの検断権を許され商工業を盛んにし自治都市として発展した。
豊臣秀吉の時代、順慶亡き後筒井氏は伊賀国に転出し、代わって郡山城に大納言豊臣秀長が拠を構え、地域の再編と産業奨励に乗り出し大和は安定した。
江戸時代は奈良(奈良奉行)・五條(五條代官)・今井(惣年寄)を幕府が直轄支配し、郡山藩が15万石で最大石高(但し、津藩も山辺郡などに領有しており、津藩を含めた場合は津藩が最大石高)で、高取藩が2万5千石、丹羽国柏原へ移封したが元禄8年(1695年)まで宇陀市大宇陀に所在した松山藩が2万8千石で、小泉藩・柳生藩・柳本藩・芝村藩・櫛羅藩などは陣屋であった。また、交代寄合の平野家の田原本陣屋があった。
このうち大和南部の広大な山域は、五條代官所管轄の天領(幕府直轄地)となった。実質はあまりに広域のため十津川村の十津川郷士などをはじめ各地域(郷村)による自治を行った。また、あまり知られていないことであるが、五條代官の支配地・管轄はかなり広域で現在の和歌山県の一部も含んでいた。
慶応4年/明治元年1月21日(1868年2月14日)、新政府は添上郡奈良に大和鎮台を設置。大和鎮撫総督府を経て、同年5月19日(7月8日)に奈良県(第1次)、7月29日(9月15日)に奈良府となり、大和国一円の幕府領、旗本領、寺社領を管轄した。明治2年7月17日(1869年8月24日)奈良県に改称。同年に十津川郷を兵部省軍務官に(のち五條県に編入)、明治3年(1870年)に宇智郡・吉野郡および葛上郡・宇陀郡の一部を五條県にそれぞれ移管している。五條県分離当時の奈良県の管轄地域は、添上郡68村、添下郡8村、平群郡61村、広瀬郡12村、葛下郡34村、葛上郡31村、忍海郡8村、宇陀郡89村、式上郡21村、式下郡26村、十市郡38村、高市郡41村、山辺郡55村(いずれも郡域の一部)であった。
明治4年11月22日(1872年1月2日)に大和国10県が統合され、改めて奈良県が設置された(第1次府県統合)。ところが、この奈良県は1876年(明治9年)4月18日に堺県に編入されて廃止となった(第2次府県統合)。その堺県も1881年(明治14年)2月7日に大阪府に編入されて廃止となったが、この年の12月には今村勤三ら大和出身の大阪府会議員を中心に奈良県再設置運動が開始された。そして、1887年(明治20年)11月4日に奈良県(第2次)が再設置され、11年半におよぶ堺県・大阪府時代が終わった。奈良県(第2次)の初代県知事には奈良県廃止時の堺県令だった税所篤が就いた。
1892年(明治25年)には湊町(現・JR難波駅) - 奈良間の鉄道開業で大阪と奈良が、1896年(明治29年)には奈良鉄道が木津 - 奈良間を開業することにより京都と奈良が結ばれたことで、神社仏閣の多い奈良県が観光地として栄えていくこととなる。さらに、1914年(大正3年)4月、大阪電気軌道(大軌、近畿日本鉄道の前身)が、大阪の上本町駅(現・大阪上本町駅) - 奈良駅間30.8km(現・近鉄奈良線)開業をさせ、より大阪と奈良の交通アクセスが良くなった。一方、当時日本で2番目に長いトンネルであった生駒トンネルの開通は難工事であり、開通後に大軌は深刻な経営危機に陥った。同社にとって幸いなことに旅客利用は順調で、1916年(大正5年)3月に債務整理を完了、やがて積極的な路線網の拡大に舵を切った。
その後、大軌は橿原神宮への参詣輸送を取り込むため1923年(大正12年)には畝傍線(現・近鉄橿原線)を全線開通、1925年(大正14年)には大阪からの短絡線である八木線(現・近鉄大阪線の八木西口駅以西区間)を開通させ、多くの観光客が同神宮を訪れることとなった。同じころ、大阪進出を果たした大阪鉄道 (2代目)(現・近鉄南大阪線)が橿原神宮を目指して路線を延長中であり、1929年(昭和4年)に久米寺駅(現・橿原神宮前駅)に到達、1928年(昭和3年)に吉野まで全線開通したばかりの吉野鉄道(現・近鉄吉野線)との直通運転を開始した。1940年(昭和15年)に官民一体で行われた紀元2600年祭には、両線や省線を利用して、神武天皇とゆかりの深い橿原神宮に多くの参拝者が訪れた。
1950年(昭和25年)7月、近鉄の手による宅地開発の開始を皮切りに、奈良市の学園前周辺が高級住宅地として開発が進んだことで、北和地域の大阪のベッドタウンとしての発展の礎が築かれた。高度経済成長期の昭和30年(1955年)から昭和48年(1973年)には近鉄奈良線沿線や近鉄大阪線沿線、近鉄南大阪線沿線では住宅地開発が進み、奈良盆地全域で急激な都市化が進行した。昭和末期から平成初期には、バブル景気により大阪都心部の地価上昇の影響を受け、県内でも地価上昇が進んだ結果、奈良盆地以外の宇陀市や大淀町、五條市でも住宅地開発が見られるようになり、県内の人口は増加していき、ドーナツ化現象の影響を大きく受けた。2000年(平成12年)以降は、都心回帰に影響もあって、人口は減少に転じているが、生駒市や香芝市、葛城市また県庁所在地である奈良市など、大阪から近いエリアでは開発が進んでいる。そのため、県外就業率が29.98%と埼玉県(2位)や千葉県(3位)を抑えて日本一高く(2005年国勢調査)、昼夜間の人口差が大きい。
また1987年(昭和62年)には、関西文化学術研究都市の発足に伴い、生駒市と奈良市が同都市の対象地域に含まれるようになる。平城・相楽ニュータウンの開発や、奈良先端科学技術大学院大学の設置や平城宮跡の復元など学術研究の分野でも、発展することとなった。さらに、東大寺学園や西大和学園など国内でも有数の難関私立進学校があるなど、文教地域としても知られるようになった。他に、1000世帯あたりのピアノの所有台数が日本一多い(1999年、359台)という統計などから、教養や教育に力を注いでいる家庭が多いのも奈良県の特徴である。
観光地としての面でも、平成初期の1993年に法隆寺地域の仏教建造物が、1998年には古都奈良の文化財が世界遺産となり、21世紀になってからの2004年には紀伊山地の霊場と参詣道が、ユネスコの世界遺産に登録され、今日では、古都と言えば奈良と京都と言われる程知名度が高く、世界的に有名な日本の観光都市として栄えている。現在、県内4箇所目の世界遺産登録(2024年度目標)に向け、県・橿原市・明日香村が活動を行っている。
奈良県ではやまと21世紀ビジョンを作成し「世界に光る奈良県づくり」「関西のオアシス」を目指している。また、古代より多くの都城が置かれたことから「日本の故郷」とされる。
2010年は平城京に遷都されてから1300年目に当たり、平城遷都1300年記念事業が企画され、2005年5月に同事業協会が設立された。また、同事業の主たる企画として、2010年の年初から年末まで「平城遷都1300年祭」が、平城宮跡を主会場(同年4月24日から11月7日)として実施された。
2022年7月8日には、奈良市の大和西大寺駅前が安倍晋三銃撃事件の舞台となった。
総人口の9割以上が奈良盆地に居住する。県南部(吉野郡)は県面積の6割弱を占めながら、可住地面積が非常に狭いため人口は4万人にも満たず、全国有数の人口希薄地帯である。
( )内は在任期間と在任任期数を表す。
財政力指数が0.4~0.5のⅡグループ(10自治体)に分類されている
衆議院の小選挙区が3。参議院では、全県で1区を構成。
衆議院議員(小選挙区選出)において、奈良県は3つの選挙区(いずれも定数は1)から成り立っており、区割りは以下の通り。
参議院議員の選挙区選出における奈良県選挙区の定数は2であり、3年ごとに1議席を改選する。
奈良県内に空港はない。
奈良県は日本で初めて県内の鉄道路線が全て電化された県である。このような都道府県は当県を含め1都1府3県しかない(旅客営業を行う路線のみ)。また、県内には気動車による定期列車が存在しない。JRの駅は33駅、近鉄の駅は90駅と近鉄の方が3倍近くも多く駅を有し、列車の設定本数などもおおむね多い。特に、人気の観光地の最寄駅はその殆どが近鉄の駅である。2006年3月に急行「かすが」が廃止されたことにより、奈良県はJRの鉄道路線がある46都道府県で唯一、JRの定期特急・急行列車が1本も走っていない県となっていたが、2024年3月より平日限定で特急「らくラクやまと」が運転を開始したことにより、18年ぶりにJRの定期特急・急行列車が復活したほか、民営化後では初のJR定期特急となった。近鉄の特急は大阪線などで多数走っている。
運営する鉄道会社はJR西日本と近鉄の2社のみであるが、近鉄は大阪市高速電気軌道(Osaka Metro、旧・大阪市営地下鉄)中央線・京都市交通局(京都市営地下鉄) 烏丸線・阪神電気鉄道 阪神なんば線と相互乗り入れを行っている。路線バスも含め、同県の公共交通は近鉄グループが多勢を占める。
大阪メトロと京都市営地下鉄が近鉄に直通という形で奈良県内に乗り入れているが、首都圏以外地域での異なる地下鉄事業者の車両が一つの県に乗り入れるのは他社線直通という形ではあるが、これは奈良県が唯一である。
なお、貨物輸送においては離島県の沖縄県を除き日本貨物鉄道(JR貨物)の営業拠点(オフレールステーションも含めて)が一切ない。
JRは1日平均乗車人員、近鉄は1年間の総乗車人員
(下表のJRの乗車人員は各年の日数を積したもの)
県内の路線バス・県内発着の高速バスは、奈良交通(奈良交通と子会社のエヌシーバス)がほぼ独占する。
他に同じグループの近鉄バスおよび三重交通が県外から乗り入れるほか、南海りんかんバスもわずかに奈良県内を走行する。また、西日本ジェイアールバスは高速バスのみ運行しているが、かつては奈良市や五條市周辺で一般路線バスも運行していた。また、吉野町では小規模であるが吉野大峯ケーブル自動車が路線を持っている(同社は吉野ロープウェイも運営)。この他、各市町村でコミュニティバスなどが存在する。
観光バスも近鉄グループが強い。その他には奈良観光バスがある。
当県の高速自動車国道は当道路のみで、総延長18.2kmは47都道府県中最下位である。
京奈和自動車道、南阪奈道路、第二阪奈有料道路はいずれも一般国道のバイパス道路整備予算で建設されている(西名阪自動車道も1969年(昭和44年)3月21日の開通時点では一般国道25号バイパス道路予算の一般有料道路だったが、1973年(昭和48年)4月1日付で高速自動車国道へ昇格した)。
京奈和自動車道は奈良盆地を縦断する予定で、慢性的な渋滞に悩まされている国道24号のバイパス道路予算で建設される高速道路であり、奈良県内と和歌山県内では無料となる予定である(京都府内は西日本高速道路管理の一般有料道路)。
県内の大学では奈良県大学連合を結成しており、単位相互協定を結んでいる。また県内には、国立で男女共学の総合大学が存在しない。
全てFM放送によるものである。AM放送の送信施設が存在しない都道府県は奈良県と群馬県のみである。
奈良県は、全国で唯一県域民放ラジオ局がない(県域放送#ラジオ放送を参照)。なお、県域民放ラジオ局の周波数 (85.8MHz, 500W) は1984年に割り当てられているが、開局について具体的な動きはない。
AM放送の中継局もNHK・民放ともにない(必然的に、周辺府県局を受信する。下記聴取状況参照)。ただし、ABCラジオのFM補完中継局(周波数93.3MHz / 送信出力7kW)は生駒山の奈良県側に所在する(MBSラジオとラジオ大阪のFM補完中継局は大阪府側にある)。
奈良県内におけるケーブルテレビ局(HFC方式で、かつ有線テレビジョン放送法に基づく)は近鉄グループの寡占産業となっている。以前は中部・南部に幾つかの小規模事業者が存在したが、これらは全て近鉄ケーブルネットワーク(KCN・奈良盆地部分)とKCN子会社のこまどりケーブル(主に山間部)に事業譲渡、または統合され、現在は2社だけで県内全域をカバーしている。うちKCNではサンテレビ及びNHK大阪総合・KBS京都・テレビ大阪の区域外再放送を実施している。
特に前述したとおり、奈良県ではNHK、民放(在阪大手4局・奈良テレビ)とも、デジタル放送は東部・中南部に直接受信をするための中継局がない(奈良テレビ放送#デジタル放送の項を参照。アナログ放送の時代はこれらの地域にも中継局はあった)ため、デジタル放送を視聴するためにはこまどりケーブルへの加入が事実上必須となっており、各局が行うワンセグを使った直接受信も事実上不可能である(NHKに関してはNHKプラスのアプリで視聴は行えるが、内容は全国向けと東京向けの番組になる)。
FTTH(光ファイバー)については、NTT西日本「スカパー!プレミアムサービス光」と、eo光テレビ(奈良県では近鉄ケーブルネットワーク提携の「KCN eo光テレビ」と、ケイ・オプティコムが直営するものとがある)が利用できるが、提供される地域は北部の大半のみである。
奈良県の方言は、奈良市などの県北中部と十津川村などの奥吉野地方で大きく異なる。北中部の方言は大阪弁に近く近畿方言(関西弁)らしい方言であるが、奥吉野の方言は東京式アクセントが主流で、「大根→だーこ」「赤い→あかー」のような連母音変化が起こり、「目ぇ」「気ぃ」のような長母音化が起こらないなど、近畿地方のなかで特殊な言語島となっている。
奈良市に暮らした志賀直哉は随筆『奈良』にて「蕨粉や豆腐、雁擬は評判が良い」と書きながらも、「(奈良は)食ひものはうまい物のない所だ」と書いたことで知られ、後者の文章がひとり歩きし、奈良の食に対する評価ともなっている。
特記のないものはテレビドラマである。
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