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熊谷信直


熊谷信直


熊谷 信直(くまがい のぶなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。安芸国の国人で、安芸武田氏家臣、後に毛利氏家臣。

生涯

安芸武田家臣から毛利家臣へ

永正4年(1507年)、安芸武田氏に従う安芸国の国人領主・熊谷元直の嫡男として生まれる。なお、信直が生まれた安芸熊谷氏は、平安時代末期に治承・寿永の乱で活躍した熊谷直実の直系の子孫にあたる。

永正14年(1517年)、父の元直が武田元繁に従って、吉川氏麾下の小田信忠が守る有田城を攻撃。同年10月22日の有田中井手の戦いで吉川氏一門の宮庄経友と毛利元就が率いる吉川・毛利連合軍と戦ったが、元直は中井手において宮庄経友によって討ち取られた。父・元直の戦死により信直が家督を相続したが、父を討ち取った毛利氏や吉川氏とは敵対関係であった。

大永4年(1524年)に周防・長門の大名・大内義興が安芸に侵攻し、安芸武田氏の居城・佐東銀山城を包囲した。大内軍の一部が三入庄まで進出したため、八木城主・香川吉景らの支援を得て、大内軍を打ち破った。同年7月には、父の仇であった毛利元就の指揮下に入り、香川光景・三須房清らと大内包囲軍に奇襲をかけ、散々に打ち破った。仇であった元就の戦いぶりを間近に見た信直は、元就に対する認識を変え、毛利氏との和解へと繋がった。

大永7年(1527年)に同じ安芸武田家臣の船山城主・山中成祐が信直を暗殺しようとして失敗。3年後にこの仇を討ち、弟の直続、家臣の岸添直清、末田直道らと謀って山中成祐兄弟を討ち取った。

天文2年(1533年)に所領の問題と武田光和夫人であった妹への待遇への不満、大内氏・毛利氏・熊谷氏の密約が漏れたこと、信直が武田氏の所領を横領したことなどで武田氏と対立。ついには自身の居城である三入高松城が攻撃を受けた。兵力は1,000余で、それを二手に分け、三入高松城を攻撃するのは総大将・武田光和以下、品川信定他200、もう一軍の総大将は武田一門の伴繁清、それに従うのは香川光景、己斐直之、熊谷一族の山田重任、温科家行、飯田義武、板垣繁任などのそうそうたる顔ぶれであった。それに対して熊谷勢は信直を総大将とし、弟の直続、末田直忠・直久兄弟、岸添清直、水落直政らがこれに従った。

三入庄に侵攻した伴繁清率いる武田軍は三入横川表に進出し、防備を固めていた熊谷信直配下300と激突した。この横川表の戦いにおいて少数の熊谷勢は奮戦して、総大将の伴繁清を負傷させた。また三入高松城へ侵攻した本隊も多くの死傷者を出し、撤退を余儀なくされた。これを横川表の戦いと言い、この合戦を期に毛利氏との連携を強め、その指示へ従うようになった。

天文3年(1534年)2月上旬、大内義隆の命を受けた毛利元就の指示によって天野隆重や香川光景らと共に備後国に出陣し、同年7月3日に宮直信の亀寿山城を攻撃。籠城した宮直信が程無く病死したため、幼少の嫡男・宮元盛が後を継いだが、勇将であった宮氏家臣の丹下与兵衛も戦死したため、10月に和議を締結し開城した。

吉田郡山城の戦いと月山富田城の戦い

天文9年(1540年)、出雲の戦国大名・尼子詮久(後の尼子晴久)が安芸に侵攻。毛利元就の居城・吉田郡山城へと攻め寄せた。また牛尾幸清が兵2,000を率いて佐東銀山城に入り、周辺をうかがった。籠城しながらも、毛利元就は神出鬼没の戦いぶりで尼子軍を翻弄し、大内氏の援軍として陶隆房が兵10,000を率いて来ると、翌10年(1541年)に尼子詮久は撤退した。信直は三入高松城を守っていたが、佐東銀山城内の牛尾幸清が撤退するに及び、八木城主・香川光景と追撃をかけるが、間に合わなかった(吉田郡山城の戦い)。

同年5月13日には元就の命に従い、宍戸元源、宍戸隆家、天野興定、香川光景、己斐直之らと共に旧主である安芸武田氏の佐東銀山城を攻撃。安芸武田氏当主の武田信実は吉田郡山城の戦いで尼子軍が撤退した際に牛尾幸清と共に出雲に逃亡していたため、香川光景と己斐直之らの術策を用いた降伏勧告により、安芸武田氏への忠義により自刃した内藤孫四郎を除く佐東銀山城の留守を守っていた将兵は降伏した。その後、佐東銀山城で降伏した将兵も含む安芸武田氏の残党が籠った伴城を毛利軍が陥落させた。これにより、鎌倉時代より続いた安芸武田氏は終焉を迎えた。

天文11年(1542年)1月11日、吉田郡山城の戦いでの敗戦により勢力の衰えた尼子氏を討つべく、大内義隆が周防国山口を出陣。途中、三入庄の観音寺に宿泊して、出雲へ侵攻した。信直は弟の熊谷直続と共に大内軍に加わり、尼子氏家臣の赤穴光清や田中三郎左衛門らが籠城する赤穴城の攻撃に参加した。赤穴城は石見国から尼子氏の本拠である月山富田城に至る通路にあるため、功を焦った弟の直続が同年6月7日に手勢を率いて赤穴城を攻撃したが反撃を受け、直続は熊谷氏家臣の荒川与三と共に戦死した。

その後、月山富田城を包囲攻撃するも、吉川興経らの寝返りもあり、結局月山富田城攻略に失敗。熊谷勢も無残な退却戦となり、香川光景らと共に退却していたが、出雲鳶ノ巣川で一揆衆の襲撃を受け、乱戦の後に死地を脱した(月山富田城の戦い)。

天文16年(1547年)には娘の新庄局を毛利元就の次男・吉川元春に嫁がせ、毛利氏との関係を強化し、一門衆として扱われるようになった。

大内氏との戦い

天文17年(1548年)8月、信直は元就と共に山口の大内義隆を訪問。翌年の3月まで山口に滞在した。そして天文19年(1550年)9月、元就の命を受け、月山富田城の戦いで煮え湯を飲まされた幽閉中の吉川興経を天野隆重と急襲して殺害した。興経の首は信直家臣の末田直共が取った。

天文20年(1551年)、大寧寺の変で大内義隆が家臣であった陶隆房の謀反により横死した。毛利氏は徐々に独立を志向し、陶氏率いる大内氏に従属を続けながらも、安芸国内の統一を目指した。翌21年(1552年)は5月に備後で尼子氏と対陣。7月には祝貞近を攻撃。9月には義隆の残党が立て籠もる安芸槌山城を攻略、平賀隆保らを討ち取った。また翌22年(1553年)には、鶴首城主・三村家親を支援した吉川元春に従い、備中猿掛城主・庄為資を攻撃して降伏させた。

天文23年(1554年)、折敷畑の戦いでも吉川軍主力として奮戦。陶軍を掃討し、宮川房長を自刃に追い込んだ。同年6月、陶軍の残党を打ち破り、廿日市周辺を征圧した。同年9月に、毛利軍は信直の婿であった野間隆実が籠もる矢野城を攻撃した。野間隆実の妻は信直の長女であったため、隆実は信直を通じて降伏したが、三入庄に移送されて暗殺された。基本的に降伏した者を赦す元就であったが、陶氏との決戦を目の前にしてやむを得ず緊急措置に至った。

天文24年(弘治元年、1555年)、陶晴賢(隆房より改名)率いる大内軍20,000が厳島に上陸。毛利軍の拠点で、己斐直之が籠もる島内の宮尾城を包囲攻撃した。信直は4人の息子高直、直清、広真、三須隆経らと兵を率いて、落城寸前となった宮尾城への援軍として入城した。旧暦10月1日に毛利元就率いる本隊が奇襲をかけた際に、城から撃って出て陶軍を撃破、晴賢を討ち取った(厳島の戦い)。

同年の防長経略にも参戦、岩国へ進出して杉隆泰の鞍掛山城を攻略した。翌弘治2年(1556年)から3年(1557年)にかけて山口を制圧。逃亡した大内義長を追って長門勝山城を包囲し、内藤隆世は自刃。降伏した義長も最終的には自刃して果てた。

尼子氏との激闘、第二次月山富田城攻防戦

永禄元年(1558年)には石見出羽に進出して小笠原長雄を破り、福屋隆兼も打ち破った。12月には中村康之と石見最大の国人であった益田藤兼を降伏させた。これらの功もあり、室町幕府13代将軍・足利義輝は永禄3年(1560年)、信直を伊豆守に叙任した。翌年には毛利氏に降伏していた本城常光を暗殺。この時、信直も軽傷を負った。

永禄5年(1562年)10月、元就率いる出雲遠征軍の一員として、出雲白鹿城を攻撃。城主・松田誠保は必死の防戦に努めたが、白鹿城は落城し、毛利軍は攻略に成功した。同年冬には出雲洗骸に陣を築いて月山富田城攻略の拠点とし、熊谷父子もそこに滞在して次の戦いに備えた。何度かの攻城戦の結果、元就は攻城の無理を悟り、長期攻囲作戦に切り替えた。そのため月山富田城内の兵糧は底をつき、徐々に逃亡兵が出るようになった。

永禄9年(1566年)11月、尼子義久・倫久・秀久兄弟は降伏し、大名としての尼子氏は滅亡した。

大友氏、尼子再興軍・山中幸盛との死闘

永禄11年(1568年)、吉川元春に従い熊谷親子は北九州に進出。博多を望む要衝・筑前立花山城を包囲攻撃し、援軍に現れた大友軍と激突した。立花山城は落城し、毛利氏の手中に収まったが、大内輝弘らが周防に乱入したため、立花山城を放棄して輝弘を討った(大内輝弘の乱)。

信直は元春と共に中国地方各地を常に吉川軍の主力として転戦し、最終的には国衆最高の16,000石を得た。しかし、天正7年(1579年)に嫡男の高直が病死したため、嫡孫の元直を補佐し、文禄2年(1593年)5月26日に病死した。

墓所は居城のあった三入高松城の麓、土居屋敷の近くにあった観音寺跡。毛利氏と共に熊谷氏が防長に移封された後も子孫は墓参を行っている。

家族

弟と息子

  • 熊谷直続 - 信直の弟。天文11年(1542年)に大内氏の尼子征伐に従い、赤穴城攻めで討死した。
  • 熊谷高直 - 信直の嫡男。天正7年(1579年)、父に先立ち死去。
  • 熊谷直清 - 信直の次男。
  • 熊谷広真 - 信直の三男。元亀元年(1570年)死去。
  • 三須隆経 - 信直の四男。三須房清の養子となり、三須氏を名乗る(三須房清は武田光和と離縁した信直の妹と結婚している)。
  • 熊谷就真 - 信直の五男。

香川宣阿による『陰徳太平記』に「白くも頭にあばた面、歩く姿はがにまた・せむし」「世にまたとなき悪女」と書かれており、吉川家家臣の手による書物であるというのに、遠慮もなく無惨であるのは、世評どうり事実であったものであろうといえる。 「形醜くければ、人これをめとらず、父の歎き、またいかばかりぞや」と噂された醜女を、吉川元春みずから「わが望むところは熊谷信直の嫡女なり」と、進んで迎えたとされている。

関連作品

  • 『毛利元就』(1997年、NHK大河ドラマ、演:綿引勝彦)

脚注

注釈

出典

参考資料

  • 『熊谷家文書』(第121号 - 第161号)
  • 『可部町史』
  • 『熊谷家譜録』(熊谷家蔵)
  • 『毛利戦記―大内、尼子を屠った元就の権謀』(歴史群像シリーズ (49)) ISBN 4056014604
  • 『萩藩閥閲録』巻27「熊谷帯刀」
  • 藤木久志 著「戦国乱世の女たち」、笠原一男 編『彼岸に生きる中世の女』評論社〈日本女性史3〉、1976年。 
  • 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修『毛利元就卿伝』マツノ書店、1984年11月。 

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 熊谷信直 by Wikipedia (Historical)