フレン・ゲレーロ・ロペス(Julen Guerrero López、1974年1月7日 - )は、スペイン・バスク州ポルトゥガレテの元同国代表サッカー選手、現サッカー指導者。現役時代のポジションはMFだった。2021年よりU-17スペイン代表の監督を務める。
ビスカヤ県ポルトゥガレテに生まれ、8歳の時にアスレティック・ビルバオの下部組織に入団した。1991-92シーズンにはリザーブチームであるビルバオ・アスレティックに昇格し、セグンダ・ディビシオン(2部)でプレーした。1992年にはアイトール・カランカらとともにU-19チームで全国リーグ・全国カップの2冠を達成した。同年9月、18歳の時にユップ・ハインケス監督が率いるトップチームに初招集され、デビューするとすぐにレギュラーとなると、デビュー以来の2シーズンで28得点を記録した。1993年にはエル・パイス紙のリーグ最優秀スペイン人新人選手賞を獲得し、1994年にはエル・パイス紙とドン・バロン紙のリーグ最優秀スペイン人選手賞を獲得した。1993-94シーズンのアルバセテ・バロンピエ戦ではハットトリックを達成し、スポルティング・ヒホン戦では1試合4得点を記録した。これらの活躍で、レアル・マドリード、FCバルセロナ、アトレティコ・マドリード、ユヴェントスFC、SSラツィオ、マンチェスター・ユナイテッドFCなどの関心を引いたが、アスレティック・ビルバオに忠誠を誓い、1997年には10年間の契約延長を果たした。これはクラブ史上最長期間の契約であり、この契約によりクラブ最高年俸選手となった。
1997-98シーズンには29試合に出場して8得点し、UEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得できる2位でシーズンを終えた。しかし、その後の数シーズンは出場機会が減少し、まだ28歳であった2002年にはルイス・フェルナンデス監督によって控えに降格させられた。2002-03シーズンから2005-06シーズンまでの4シーズンには57試合しか出場できず、得点はわずか4点に終わった。2006年7月11日、記者会見で現役引退を発表した。プリメーラ・ディビシオンでプレーした14シーズンで372試合に出場して101得点を記録し、UEFAチャンピオンズリーグも含めた欧州カップ戦では15試合に出場して5得点を挙げている。引退してすぐに下部組織であるレサマの1チームの指揮を任され、2年後に退任した。
U-16スペイン代表から各年代の世代別スペイン代表に選ばれ、U-21スペイン代表としては12試合に出場して8得点を挙げた。
まだ19歳であった1993年1月27日、ラス・パルマス・デ・グラン・カナリアで行われたメキシコ戦でスペイン代表デビューし、同年6月2日の1994 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選・リトアニア戦(2-0)で代表初得点を含む2得点を挙げた。1994年にはアメリカで開催された1994 FIFAワールドカップ本大会に招集され、1試合に出場している。1996年にはUEFA欧州選手権1996に出場し、同年12月18日のマルタ共和国戦(3-0)ではハットトリックを達成した。1998年にはフランスで開催された1998 FIFAワールドカップに出場した。1999年9月8日、UEFA欧州選手権2000予選のキプロス戦(8-0)でもハットトリックを達成している。2000年10月までに41試合に出場して13得点を挙げた。
1993年にはバスク国代表に初招集され、1997年のユーゴスラビアとの非公式親善試合ではハットトリックを達成した。2006年までに11試合に出場して6得点を挙げた。
弟のホセ・フェリクス・ゲレーロ(José Félix Guerrero)はミッドフィールダーとしてプレーするプロサッカー選手であり、アスレティック・ビルバオの下部組織出身である。プリメーラ・ディビシオンでは58試合に出場して2得点を挙げ、セグンダ・ディビシオン以下も含めると160試合に出場した。
出身地のビルバオにある自身の名前を付したレストラン(レスタウランテ・フレン・ゲレーロ)のオーナーである。ユーロスポーツのコラムニストである。
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