小清水 亜美(こしみず あみ、1986年2月15日 - )は、日本の声優、舞台女優、歌手。オフィス リスタート所属。東京都国分寺市出身。
代表作は『交響詩篇エウレカセブン』(アネモネ)、『狼と香辛料』(ホロ)、『スイートプリキュア♪』(北条響 / キュアメロディ)などがある。
小さい頃は、興味があることには集中力を発揮する子供だったという。その代わり、算数の計算式など興味のないことは全くやる気がなかったようで、勉強はあまり得意ではなかった。
子供時代は水泳、ピアノ、ダンス、習字、スキー、スケートなど色々な習い事をしており、中でも習字は好きだったが、ピアノ、そろばんにはあまり興味を持たず、それらはすぐにやめてしまったという。また、自分の中に目標を設定して、クリアできたら満足してやめてしまう、という面もあった。例えば、水泳であれば、クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライの4種目は完璧に25メートルは泳げるようになったことで満足してしまい、距離とタイムを競う世界に入る前にパッとやめてしまった。スキーについては始めにリフトを使わずに自力である程度のところまで上って滑るという練習を何度も繰り返しており、当初「上級者コースで滑りたい」という目標があったが、ボーゲンが出来るようになったところで満足してしまい、結局は足を揃えて滑ることなくやめてしまったという。
12歳のときに劇団若草に入団。学芸会では芝居をしたり、役に合わせた衣装、小物を考えたり、皆でひとつのモノを創り上げるという空気が楽しかったという。学芸会で一番印象に残った役は小学4年生の時の『アリババと40人の盗賊』の盗賊役。しかし中学校には学芸会はなく、小学校を卒業したら「そんな機会がなくなってしまう」と心配していた。その様子を見ていた祖母に『劇団』について教えてもらい、劇団若草の団員募集のチラシも持ってきてくれたという。一方、母は乗り気ではなく、それまでの態度から「入団したとしても続かないんじゃないか、もし続いたとしても受験に影響が出るのではないか」と複雑な気持ちでいたようだったという。一緒に暮らしていた祖母が応援してくれたおかげで、「入団オーディションを受けるだけ受けてもいい」という流れになった。母は「絶対、受からないだろう」と思っていたそうで、「自分で電話をして、申し込むならいいよ」と言われて小学生ながらに初めて知らない人物と電話をし、資料を取り寄せ、オーディションを受けて合格することができたという。元々人と話すのはあまり得意ではなく、入団の申込みの電話も、勇気を振り絞っていたという。
劇団入団後は、友人が増え、大人との会話の仕方も学ばせてくれたが、芝居を練習しているだけではなく、一種の社会勉強をさせてくれた部分があり、何もかもが楽しかったという。また人前で声を出す経験を積めたのも大きく、授業では皆の前で発声練習をしたり、他にも色々と人前で声を出す機会があり、「人間にはここまでの声が出せるんだ」ということを経験を通じて知った。劇団に入っていなかったら、日常会話で遠くにいる人を呼んだりもできないタイプだったといい、芝居を学んだだけではなく、もし仮に役者の仕事をその後していなかったとしても、物事を劇団若草では教えてもらったと語る。
一方、レッスンでは、舞台、芝居の稽古、ダンスなどがあったが、「できなくて悔しい」、「もっとがんばらなくちゃ」という気持ちが芽生えたことが一番の収穫だったと語る。
興味があることに関しては、頑張ればある程度のレベルには到達することができた。しかし芝居に関しては上を見ればきりがなく、目の前にあることを全力で取り組んでいくことしかできなかったという。劇団には幼い時からレッスンを受けていた人物がたくさんおり、同じ年齢だと一緒のクラスになるため、基礎力の差がハッキリと分かることから悔しかったという。しかし後から始めたことから「できなくても当たり前」と言い訳するのも悔しく練習を重ねて行くしかなかったという。
早口言葉、朗読でも色々な場面で差を感じることがあり、一番実感したのは芝居の掛け合い。上手い人物との掛け合いではできない部分が目立ち、恥ずかしいことで何度も悔しい思いをしていたという。
身近な先輩、友人など上手い人物を見て「彼女に追いつきたい」と思っていたという。同劇団に所属し、上のクラスだった平田真菜とは入団した頃にしばらくの間先輩としてクラスに来てくれたのが知り合うきっかけであった。平田の演技は飛びぬけており、目の当たりにして思ったことは「彼女と同じクラスに行きたい」「一緒に芝居をしたい」だったという。
劇団に入団してからは見るものが変わっていき、基礎を積み重ねていくと「こんな芝居ができるようになるんだ」と輪をかけて追いつきたい人物が近くにいて、目の当たりにしており、芝居の魅力にのめり込んで行ったという。
ミュージカルに出演していた舞台女優、テレビドラマで活躍していた女優しか知らず、小清水がくれていた仕事は同劇団の舞台に出演、雑誌『ニコラ』のラジオCMに出演など、テレビドラマ『3年B組金八先生』、映画『バトル・ロワイアル』のオーディションを受けるという活動で、その後はジュニアモデルとしてデビューし、女優へのチャンスをつかめばいいと思っていた。
当時は職業としての声優は無知だったが、中学3年生の頃、見かねていたマネージャーが、「声の仕事って、興味ある?」と声をかけてくれたことで、劇団の先輩飯塚雅弓のライブを見に行って、感激して声優を志すようになる。劇団若草の出身者に声優業界でも水島裕もいたが、入団時は無知で、祖母にも理由を聞いたところ、偶々郵便ポストに入っていたチラシを持ってきただけだったという。中学3年生の時に、「役者としてやっていきたい」と腹を括ったという。高校は通信制の学校を選んだが、当時は家の事情もあり、いつまでも夢を追いかけてはいられないという現実があったという。母を「高校の間に何とか自分の道を探す。見つからなければ、スッパリやめて大学に行って就職する」と説得していたという。
職業としての声優は役者冥利につきる仕事だと感じて、事務所に「声優のオーディションを受けたいです」とお願いしていたという。初めての声優のオーディションは『朝霧の巫女』だった。2003年、『明日のナージャ』(ナージャ・アップルフィールド役)のオーディションに合格し、主演での声優デビューを果たした。それまでにも色々なオーディションを受けていたが、全部テープオーディションの段階で落ちており、初めてスタジオオーディションに通ったという。劇団若草からスタジオオーディションに参加していた人物が2人ぐらいおり、受かるわけがないと待ち時間にロビーで皆で騒いだりしていた。おかげであまり緊張せずにスタジオに入れたが、何回か録り直しをして「たぶんダメだろうな」と語る。後日、学校の休み時間で、合格の連絡を受け取った時は驚き、事務所も本命も別の人物だったようで、スタッフも驚いていたという。その時の心境は、驚きすぎて「合格した」と聞いても、「……はぁ」と言うのが精一杯であったという。
声優歴が全くなく、当初、恐縮していたところ、プロデューサーの関弘美に「経歴がまっさらだからこそ、一生ずっとナージャをデビュー作と言える、ナージャが(小清水さんの)声優としての経歴のトップに書かれる」と話をもらっていた。その時、責任も感じ、『ナージャ』を背負って、声優活動をすることにになることから、「恩を返せるように、ナージャに選んでいただいたことに恥じないように声優業をやっていかなければならない」と思っていた。当時は学生だったため、プロ意識を持っていたわけでもないが、ふんどしを締めるような気持ちになり、2023年時点ではその言葉を忘れたことはないという。
小清水に決めた経緯は関によると日曜朝の枠でデビューすると、1年間にわたって仕事があり、名前を売るのにいいという認識があったようで、オーディションにはたくさんの人物が押しよせてきた。事務所によっては20人くらい参加するところもあったが、「多すぎて困ってしまう」と思ったため、「人数を絞ってオーディションに参加してください」とお願いしていた。その時、ベテランばかりになり、求めているフレッシュさ、はつらつとした若さを感じる声は少なく、オーディションが難航していた。当時の小清水はオーディションに来ていた人物達の中で一番はつらつとした若さを感じる声で、はつらつとしたというのがポイントで、声質、話し方が現代に通じる若さがあり、圧倒的な魅力だった。声を聞いていたところ、ナージャ役としてほとんど即決状態で、「これから扉を開けて、知らない世界へ出ていくんだ!」という感じは、小清水が圧倒的だった。
前述の通り、アフレコ経験が全くなかったため、東映アニメーションのご厚意で前番組の『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』の収録を見学させてもらったりしつつ準備をして、『明日のナージャ』の本編の収録は12月末か、1月からスタートしたように記憶していた。
声優の養成所に行っておらず、職業としての声優の訓練を一切受けておらず、マイク前が初めてで無知だった。舞台のことしか知らなかったことから、「台本は暗記するものだし、台本を持って本番に臨まない」と思っていたり、迷惑ばかりかけていた。はじめの半年間は、毎日、家に帰ると「ウワー」と泣いてしまった。印象に残っているのが、関に「ナージャ役に決まったと聞いてどうして決めてもらったのか」と聞いていたところ、「後ろ姿のO脚な感じがナージャに似てた」と言われた。関によると当時の小清水は高校の制服を着てオーディションを受けており、見た目が新鮮でスカートから見える脚の形がナージャそのものだったという。このことを小清水は「アフレコの基礎が1mmもない人間が、いろんな縁やきっかけでナージャ役に繋がったこと、本当に運命の扉を開いていただいたんだな」と2023年時点でも感じているという。
キャリアが5年になったタイミング、10年になったタイミングで、あとから理解できた教えも多かった。当時はリタ役の大谷育江に台本のチェックの仕方、台本の何を大事にするのかといった基礎を教わったり、おばば役の京田尚子には言葉のセンテンスを教わった。「お母さん」という台詞がたくさん出てくるが、無意識にアクセントが後ろになり、アクセントをしっかり考えることも教わった。その時、京田から「今すぐできろとは言わない。覚えておいていずれできるようになる。そのときにあのとき言われたことはこうだったのかと思い出してほしい」と言ってくれていた。滑舌の悪いところ、なまっている部分などまで、全部指摘してくれたため、台本の空いている部分に必死にメモをとっていた。家に帰ってからも、指摘してくれた部分をひとつひとつ見直して、自分ができないことを自覚する作業からはじめていた。芝居は下手だが、感情表現はもちろん、滑舌、アクセント、声を出すこと、声を出す距離感を「クリアできるようにしよう」と思いながら、1年間は、必死であった。5年後、10年後に「あぁ……。あのとき言われていたことの、本当の意味が、やっとわかった……」と理解できたという。アルベール役の山崎たくみには、業界用語、台本に出る漢字の読み方などをプリントにまとめてテストにしてくれたりしていた。
1年かけて、役者たちから、お金を払い、教えてくれるようなことを、無料で、プロの現場で、いちから教えてくれたわけであった。デビュー後には、「消えるわけにいかない!」という思いがあり、声の芝居の面白さを肌で感じていた1年だったことから、「自分がもちろん努力をして、才能がなかったのであれば仕方ないけど、努力をしないで消えるわけにはいかない。ちゃんと残っていくことが、せめてもの恩返しになれば……」という気持ちで、2023年時点でも声優として続けていると語る。この1年は小清水にとって大きな大きな財産と述べている。
フランシスとキースのオーディションの際に、ナージャ役として声のバランス、年齢感を見るために実施した掛け合いのオーディションで参加させていた。オーディション終わった後に関から「どの人が一番心ときめいた?」と聞かれ、答えたのが斎賀みつきだった。その時のスタッフとしても斎賀がいいと思っていたが、斎賀は女性で、ナージャにとってときめくかはとても重要なため、意見を聞かれていた。その後の他の作品でも斎賀とは何度も共演させてもらっているが、どの現場で会っても斎賀は永遠の王子様で「声優人生が終わるまで運命の王子様だ」と思っており、フランシスとキースについては2023年時点でもどっちも選べないという。
『明日のナージャ』で主役を演じさせてくれたことは凄く大きかったと語り、その後も順調に仕事をしており、オーディションもたくさん受けていた。10代の終わり頃からオーディションで役に決めてくれることが増えたという。
青森山田高校広域通信制課程卒業。2005年より八重垣事務所(劇団若草系列の芸能事務所)所属となり、『スクールランブル』(塚本天満役)、『おねがいマイメロディ』(桜塚美紀役)、『交響詩篇エウレカセブン』(アネモネ役)などで経歴を重ねる。『スクールランブル』の塚本天満役を演じていた時もまだまだ精神的にはキツく音響監督に厳しいことをたくさん言われており、すごく悔しい思いもしていた。悔しいのは言われたことではなく、自分ができないことであり、スタジオ内で何度も泣きそうになった。その時に「ここで泣いたら負けだ」、「私ができないから、厳しく言われるんだ」と思い、歯を食いしばってがんばっていたという。
初めてのゲームの仕事は『テイルズ オブ レジェンディア』。
2007年春に八重垣事務所を退所し、フリー期間を経て11月15日からぷろだくしょんバオバブ所属となる。同年、『コードギアス 反逆のルルーシュ』の紅月カレン役で第1回声優アワードサブキャラクター賞女優部門を受賞。2011年には『スイートプリキュア♪』(北条響/キュアメロディ役)にて、デビュー作以来2度目の朝日放送(現・朝日放送テレビ)制作日曜8:30 - 9:00枠の主演となった。
2011年9月30日、4年間所属していたぷろだくしょんバオバブを退所、同年10月1日よりアクセルワンに所属。
2018年2月28日、アクセルワンを退所し、フリーとして活動。
2022年1月6日、自身が立ち上げた声優事務所オフィス リスタート所属となったことを発表。
太字はメインキャラクター。
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