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神谷 明(かみや あきら、1946年〈昭和21年〉9月18日 - )は、日本の声優、俳優、歌手、ナレーター、元日本工学院専門学校声優・俳優科講師。神奈川県横浜市出身。
妻は元声優の戸部光代、長女はシナリオライターの華宮ゆう士、次女はミュージカル女優の神谷たえ。有限会社冴羽商事代表取締役。
幼少期、父親が営んでいた家具製造工場が倒産したことで両親が離婚。母親に引き取られ、母と弟一人の家庭に育つ。その頃、アニメより漫画本に熱中していたという。必死で働く母を助ける日々だったため学校も転々とする中(親の離婚後から鶴見区で暮らした後、小学5年生の時に蒲田に転居)、横浜市立青木小学校、東台小学校から転入した東京都大田区の相生小学校の大先輩に俳優の小沢昭一が居たことが神谷を演劇の道へと向かわせることとなった。
その後、御園中学校を経て「高校を卒業したら自分が働いていて家族を支えよう」との思いから東京都立芝商業高等学校へ入学。高校1年生の時に、珠算部に所属していたが、友人に「メンバーが足りないから」と誘われ演劇部に入部した際、「神谷って良い声してるよな」と言われたことがきっかけで俳優を目指す。なお、この時同じ学校の同級生で、同じく演劇部に所属していた部員に、後に神谷が声優業界に誘う事になる声優の佐藤正治がいた。
高校卒業後、飲食店勤務や歌手の付き人を経て、横浜の劇団「かに座」へ入団。アマチュア劇団だったため平日は会社に勤め土日に活動するが、改めてプロになりたいと考えたことで、1970年に劇団テアトル・エコーへ入団。このことを、将来の展望もなしに飛び込んでしまったが、そういう意味では、兄弟、親には、「ずいぶん精神的な負担をかけたんじゃないかな」と語る。テアトル・エコーは声優としても活動する人物が多く、その流れで神谷も声優としての活動を開始した。後に「ほかの劇団に入っていたら、30歳前に辞めていると思うんです」と語っている。事務所はその後、青二プロダクション、ぷろだくしょんバオバブ、東京俳優生活協同組合、アップス、青二プロダクション、コアミックスを経てフリーとなり、現在は有限会社冴羽商事代表取締役。
1970年、テレビアニメ『魔法のマコちゃん』の千吉役でアニメ声優デビュー。初レギュラーは『赤き血のイレブン』のヤシマサスケ役。初主演は『バビル2世』のバビル2世役で、彼のトレードマークの「叫び」もこの作品で体得した。
以後、『ゲッターロボ』(1974年)や『勇者ライディーン』(1975年)など主にロボットアニメ作品で主役を多く担当し、声優として一気に存在感を増した。これらの作品のクライマックスで必殺技を叫び続けたことから、一部では「叫びの神谷」と呼ばれた。この頃から声の仕事が増えたが、舞台公演のキャスティングから漏れるようになったことで悩んだ末、声優業に専念することを決意しテアトル・エコーも退団した。
1970年代後半からアニメブームが興り、同時期に起きた声優ブームでは中心的存在となり、“ 声優界のプリンス ”といったキャッチフレーズと共にアニメ雑誌で表紙やグラビアを飾るなどアイドル的な人気を博した。1979年から約1年間、『神谷明のオールナイトニッポン』のラジオパーソナリティーを担当し『オールナイトニッポン』初となる声優のレギュラーパーソナリティとなった。同年にアニソン以外の楽曲「マイ・ウェイ」でのレコードデビューや、5月には日本劇場(現・有楽町マリオン)で声優としてただ一人ワンマンショーを開催するなど、これらも声優として初である。直前の春休みには日劇と青二プロダクション主催の声優イベント「Voice.Voice.Voice」が人気を博し、日劇での前売り券発売日には神谷本人の来場もあって数寄屋橋交差点までの長蛇の列ができた。また、声優として初めてブロマイドが発売された。
1980年代には『週刊少年ジャンプ』連載漫画のアニメ化作品に多数出演し、『キン肉マン』、『北斗の拳』、『シティーハンター』などでは主演を務めた。また、これらの作品が神谷の代表作として紹介されることも多い。
アニメージュで開催されているアニメグランプリ声優部門(男性)にて、通算11回に渡りグランプリを受賞している。
1995年の阪神・淡路大震災の際にはチャリティとしてユニット「WITH YOU」を結成。そのリーダーを務め、「ふれ愛コンサート」でも活動。声優など多数の参加を得る。チャリティーイベントはその後も2004年の新潟県中越地震、2011年の東日本大震災、2018年の西日本豪雨など、大きな災害が起こるたびに各地で開催された。
2000年、『少年ジャンプ』連載作品の原作者である漫画家らが集英社から独立して設立した編集プロダクションのコアミックスに出資、2004年末まで役員を務めていた。
2017年1月9日、テレビ朝日にて放映された『人気声優200人が本気で選んだ!声優総選挙!3時間SP』で第22位に選ばれる。
現在は声優業の他に司会、ラジオCMやゲーム音声の製作、コンサート・イベント運営、講演会など幅広い活動をしている。
声種は「明るく澄んだハイバリトン」。声域はG - F。幅広い役どころを持ち、高音から低音まで使い分ける。
神谷本人によると、最初は少年役から始まり、『うる星やつら』で「二枚目と三枚目の同居した」面堂終太郎役を演じたことが『キン肉マン』の主演へとつながったといい、その後『シティーハンター』の冴羽獠役が「集大成」となったという。
テアトル・エコー時代から、人間的に愛すべきキャラクターやギャグを演じたいと思っており、面堂を演じていた時には「あんなかっこいいのに、バカだこいつ」と感じ、嬉しかったという。三枚目を演じたいという夢は『キン肉マン』で実現し、もう一つの渋い二枚目を演じるという夢は『北斗の拳』のケンシロウ役で実現することになった。
遡って第2次声優ブームを牽引する人気声優となってからしばらくは、人気に実力が追いつかない時期が続いた。当時ニ枚目の主役を張りながら、自分が手本にしてきた先輩声優たちのレベルにまだまだ達していないことに悩んでいたという。1981年の『うる星やつら』の面堂終太郎役で三枚目の芝居を思い切り演じたことが悩み払拭に繋がった。その後『キン肉マン』や『北斗の拳』などでさらに演技の幅を広げていったことで、名実ともに声優界のトップランナーとなった。
『超スーパーカー ガッタイガー』のエリック・ベルゲン役で初の悪役を担当。1999年には特撮ドラマ『ボイスラッガー』に敵組織の幹部キャラクター「将軍γ」役として素顔で出演したこともあった。
吹き替えでは、海外ドラマ『探偵レミントン・スティール』や『007』シリーズ、『ダンテズ・ピーク』などでピアース・ブロスナンの初期作品を担当した。ブロスナン主演作は田中秀幸(神谷とは『ドカベン』以後たびたび相棒役で共演)に引き継がれ、ジェームズ・ボンド役をビデオ/テレビ版で分け合ってもいる。
CMやバラエティ番組などでナレーションを手がけることも多い。代表的なものは、「スーパー戦隊シリーズ」枠を中心に放送されている東京ドームシティアトラクションズ(旧後楽園ゆうえんち)のヒーローショーのCMであり、1985年より20年以上にわたってナレーションを担当。
1970年代から80年代に活動した声優バンド・スラップスティックに、結成当初はベーシストとして在籍していた。だがスケジュールの多忙や、本来アマチュアとして和気藹藹と楽しんでいた演奏がプロの活動としてプロデュースされることに懸念を示し、脱退している。
2017年まで日本工学院専門学校(蒲田校・八王子校)で講師を務めていた。教え子には新谷良子、清水愛などがいる。高校進学前の新谷がもう一つ、思い直したきっかけで雑誌『アニメディア』の中で神谷のインタビュー記事に、「今、やれることをしておきなさい」という言葉があり、すごく心に残り、「やっぱりちゃんと高校へ行こう」と思い直したと語る。新谷が専門学校の体験入学時に神谷と出会い、あまりアニメなど無知だった新谷の母でも、神谷は知っていたと語る。新谷が専門学校に入学して最初に神谷に「とにかく大声出せ」と言われた言葉が印象的だった。新谷は大声を出すと、とりあえず緊張が取れるようになったと語る。新谷は専門学校在学中にラジオにも出演されたりしていたが、番組アイドル募集と書かれた告知を見たため、「アイドルは考えられないな」と思い、当初は応募しようとしなかった。しかし神谷が「応募してみろ」と背中を押して新谷は「それならがんばってみよう」と応募したと語る。
HTB制作の深夜バラエティ番組『水曜どうでしょう』の大ファンである。
趣味は写真、狂言、ドライブ、パソコン。
「声優」と呼ばれることについて、当初は舞台俳優出身だったことから抵抗があったが、キャリアを積むうちに抵抗は消えプライドを持つようになったという。また、声優呼ばわりを嫌悪する人物に対して「"声優ではなく俳優"と言ったところで、実際に自らの生計を立てたのが声の仕事なら、それはやっぱり『声優』なんです。自分でいくらそう言ったってプライドだけの問題。そんなプライドは持たない方がいい」と発言している。ただし、声優志望者に対しては「基本の演技がしっかりしていないと、後で自分が困る」「声優としての独特な演技法があるように思われがちですが、それはまったく間違いで、基本的に俳優と同じ。できれば自分の体を使って表現できることを、しっかり学んでほしいと思います」と語っている。
また、古川登志夫によると「第二次アニメブームが起きる前の先輩方の中には、“声の仕事は俳優として食えない連中がやるもの”という雰囲気があった。でもアニメブームで声優の仕事が増えてきた頃、神谷さんは僕にこう言ったんです。『音楽活動が中心の人は周りからミュージシャンと呼ばれる。声の仕事が中心の自分たちが声優と呼ばれて何を恥じることがあるんだ』と」。
仕事に対する姿勢や演技に関しては、ブログやインタビューなどで多くの先輩や声優仲間から影響を受けていることを明かしている。特に、テアトル・エコー所属時代に指導を受けた山田康雄や納谷悟朗、熊倉一雄などの名前が挙がることが多い。
声優としての醍醐味は「姿形にとらわれず、動物・植物・鉱物・空気・天体に至るまで、森羅万象あらゆるものに変身できる」ことだといい、それが一番楽しいところだと述べている。
アニメでの役作りについては、台本でイメージだけを作り、絵を見た第一印象で声を決めるという。
生涯現役でいたい趣旨の発言をしている。
槐柳二とは近所付き合いで、若い時に仕事先を推薦してもらったことがある。
古川登志夫とは共演が多く、『うる星やつら』『北斗の拳』など様々な作品でライバル役を演じたことで、互いに「戦友」と呼びあっている。
内海賢二のことは「大好きな先輩」、「本当に可愛がっていただきました」と語っており、数多くの作品で共演した。内海の訃報の際には「時には厳しく、また時には優しく、人としての生き方も教えてくださいました」「『北斗の拳』の収録で、人間として、役者として大きく成長出来たのは内海さんのおかげ」と感謝の言葉を述べている。
たてかべ和也のことは「新人のころから兄弟のように接していただきました」「カベさんから後輩を大事にすることを学びました」と語っており、プライベートでも事あるごとに相談をしていたという。神谷本人によると、後年たてかべに「僕が新人の頃、どうしてあんなに良くしてくれたんですか?」と聞いたところ、「おまえはな、子供の頃から苦労してきただろう?そいつがどこまで頑張るか、オレは見たかったんだよ」と告げられたという。
富田耕生とは『ゲッターロボ』の時からレギュラーで共演しており、神谷は前述のとおり父がいないことから、富田を「オヤジ」と呼んでいた。
富山敬とは『ふしぎなメルモ』で始めて共演させてくれた時の印象が鮮明に残っており、それ以降の『バビル2世』、『荒野の少年イサム』を演じる時の支えになっていたという。
好きな先輩俳優としては富山、八奈見乗児、富田などがおり、1978年時点ではそれらの人物たちの芝居を見て、いつも「何か盗んでやろう」と思っているという。
社会風刺コント集団「ザ・ニュースペーパー」の浜田太一は友人で、1995年からの神谷の復興支援活動にも参加している。また、お互いにカメラが趣味なため、プライベートで撮影旅行に行くなどしている。
つボイノリオとは1977年頃にニッポン放送「つボイノリオのオールナイトニッポン」のゲストとして当時大ファンだった榊原郁恵が出演すると聴いてスタジオに行った所飛び入り出演することになり、そこで意気投合して以来の友人である。その後NHK「プリンプリン物語」でも共演した。なお神谷がフジテレビ「森田一義アワー 笑っていいとも!」のテレフォンショッキングにゲスト出演した際、次の友達は誰にするかスタッフに事前に聞かれ神谷は「つボイノリオさん」とした所、スタッフに「他にいませんか?」と言われてしまった。
『勇者ライディーン』と『闘将ダイモス』では声を潰した経験をもち、神谷は「全力で芝居したのだと思うし、思い入れが深い」と語っている。後に『アニメディア』の連載で「今でも『ライディーン』のひびき洸の声を出せますか?」という質問が来た際は「出来るが、いい後進がいれば任せたい」と回答している。『ライディーン』後半の戦闘シーンでは、叫びっぱなしだったため、最後の「ゴッドバード!チェンジ」の台詞のみは、やむなく本人の声を録音したものを毎回用いるようにしていたという。
「スーパーロボット大戦シリーズ」では多くの作品で神谷の演じたキャラクターが登場しており、音声付の作品ではほぼ毎回収録に参加。また担当キャラクターが多いことから収録を2回に分けたり、「ゲームだから一番いい声を残したい」と「ゲッタービーム!」と30回も言い直したという逸話もある。また『スーパーロボット大戦F』発売時には神谷自身が顔出しでテレビCMに出演したこともある。
1998年に発表されたOVA作品『真(チェンジ!!)ゲッターロボ 世界最後の日』はリメイク作として主要キャストは総入れ替えとなったが、冒頭ナレーションという形で神谷のみが参加。神谷は、かつての役とは異なるが思い入れ深い作品に参加できたことが非常に感慨深いと述懐している。
『キン肉マン』では、あえてダミ声で三枚目キャラのキン肉スグルを演じた。このコミカルな演技の手本になったのは、駆け出しの頃に影響を受けた先輩声優・熊倉一雄の芝居である。この作品で自らも楽しみながら演じることで、他の作品でアドリブも自然に入れられるようになった。
1話から録り始めた頃はスグルがスーパー超人でないドジな性格からスタートし、そこから他の超人たちと関わりキャラが作られていったが、シリアスの中にもギャグがあったため救われた、息抜きができたと語っている。また、それまでは高めの声の二枚目役が多かったが、スグル役をやりながら低く渋い声や芝居ができるようになったという。
スグル役はギャグの演技が多いため声を出すのが大変だったといい、あくる日喉が使い物にならなくなったこともあった。またアドリブは最初は入れられなかったが、徐々に泣き声や掛け声などを入れられるようになった。
放送当時にスピード違反で警察にお世話になったことがあり、スグルの声をやってみたが許してもらえなかったことがある。
2002年のアニメ『キン肉マンII世』で登場した持ち役のキン肉スグル役は、神谷ではなく古川登志夫が演じた。これに、ファンからオファー辞退や体調不良など様々な憶測が飛び交うことになったが、2007年2月3日の『青春ラジメニア』にゲスト出演した際にこの件に触れ「製作側の予算の都合。好きなキャラなので、やりたくないわけでは決してない」とこれらの憶測を否定している。これは声優のアニメ出演ではギャラの額の決定に際して「ランク制」という規定が適用されることから、上位ランクでギャラ単価の高い神谷が「自分が出演したいから」「自分がやっていた役だから」という理由でギャラを制作側の予算に合わせる形で規定額から勝手に下げてしまうと、ランク制のシステムの関係で自動的に他の全出演者のギャラ単価にも軒並み大きな悪影響を及ぼしてしまうため、そのような無理な出演はできないという意味であり、すなわちアニメ制作者側の予算と声優業界のシステム面に起因する事情が声優交代の理由であったということを示している。また、1980年代の声優の地位・収入の向上の活動に携わった世代の一員であった関係上、同輩や後進に負担を掛ける無理な出演はなおさらにできないことだった。なお、予算が十分に確保されていた同作の映画版ではスグル役で出演を果たしている。
2024年に放送される『キン肉マン 完璧超人始祖編』ではスグル役は宮野真守に交代しているが、原作者のゆでたまごから「一緒にやってきた神谷さんをここで放り出す訳にはいかない」と手紙をもらい、神谷は父のキン肉真弓役、師匠のプリンス・カメハメ役で出演することになった。
『北斗の拳』のケンシロウ役のオーディションでは、格闘シーンの甲高い声での“アタタタタッ!”の掛け声を披露。オーディションの数日前からブルース・リーの映画を見てかけ声を研究し、近所迷惑にならないよう布団に潜って何度も練習して会得した。ケンシロウ役のオーディションでは古川登志夫も参加していたが、神谷の“アタタタタッ”のかけ声を聞いた瞬間「僕は負けたな」と思ったという。古川は後日、神谷から上記のかけ声の研究と練習の話を聞き、「自分がやりたい役を必死で勝ち取ろうとする神谷さんの姿勢と努力を見習おうと思った」と回想している。
『北斗の拳』放送初日を神谷は『オヨネコぶーにゃん』収録スタジオで迎え、収録が終わった待合室のテレビで『北斗の拳』が始まった。それを観た共演者はオヨヨと似ても似つかぬケンシロウの声が神谷のものと判らず動揺し、その様子を内心喜んで眺めていた。北斗百裂拳など技を披露する際「あたたたた……」の叫びの最後はアドリブで「終わった(ほわたぁ〜と聞こえる)」と叫んでいた。神谷によれば、これは非常に喉に過酷で甲高い声を出すのが大変だったため「あー、今日も本当に疲れたな。これで(仕事が)終わったな」という意味を込めたアドリブだったといい、当時は多忙のためそうした遊びを入れないとやってられないほどだったという。
ラジオ関西の番組『ピクチャーランドCLUB』にゲスト出演した際の「北斗百裂拳の声をどのようにして出しているのか」というリスナーからの質問に対しては「自分の大切なものが無くなって見つからず、ずーっと探していたが見つからず、それがある時机の裏から見つかった時に『あったぁ!』という声を何度も繰り返している」と答えている。
なお、『シティーハンター』原作には冴羽獠がケンシロウの真似をする場面があるが、TVアニメ化では全体的に原作の要素がそぎ落とされ、当該の描写も実現しなかった(アニメ版1期第23話に相当)。
『シティーハンター』の冴羽獠については、「自分が今まで演じた中で、一番好きなキャラクター」だと公言している。理由は「ヒーロー、二枚目、三枚目とそれまでで演じていた役柄を全部受け入れてくれるから」と述べており、2022年には「素晴らしい先輩から教わって培ったものが、すべて帰結している。声優としてすべてを注ぎ込んだ役。出会えて本当に幸せ。冴羽獠は自分自身であり、そうありたい自分でもある。冴羽獠は神谷明そのもの、と言っても間違いない」と語っている。
当初、獠役には同じ北条司原作の『キャッツ・アイ』で内海俊夫を演じた安原義人にほぼ決まっていたが、安原が出演していた刑事ドラマ『ジャングル』のスケジュールの関係で神谷に話が行ったのだという。集英社側は当初、複数のジャンプアニメの主役を掛け持ちしていた神谷の起用に難色を示したが、集英社近くで仕事があった神谷がついでに社内のジャンプ編集部を訪問、編集長から「シティーハンターなんだけどやりたい?」と聞かれ、「そりゃあやりたいですよ!」と申し出たことで起用が決まった、とのこと。
神谷演じる獠は、男性からも女性からも好かれるヒーローとなり、放送後は毎週番組宛に段ボール箱いっぱいのファンレターが届いたが、その9割が女性からだった。
神谷の事務所「冴羽商事」の名前も冴羽を演じたことに由来している。事務所の設立には原作者の北条から名前の使用許可を得ているが、当の北条は本気だと思っていなかったらしく、設立の報告に行ったところ「エッ、本当につけたの?」と驚かれたという。
フランス制作による2019年の実写映画『シティーハンター THE MOVIE 史上最香のミッション』の吹き替えでは、獠ではなく別の役でゲスト出演した。これについて、当初は獠役のオファーを受けていたが、「大変ありがたい話」としながらも、実写作品とアニメ作品は異なることや「これは今の僕では演じきれない」と考え辞退したことを明かしている。なお、獠役はアニメ版に複数回のゲスト出演経験があり、同年公開の『劇場版シティーハンター 〈新宿プライベート・アイズ〉』の打ち上げの席で、オファーを受けて欲しいと直々に頼んだ山寺宏一となった。
2022年に劇場版新作の製作が決定した際、「神谷明抜きでは、シティーハンターはできない」という製作陣の総意から発表前に出演できるかの問い掛けが神谷にあったといいい、神谷はこれに嬉しさと責任感を感じたことを明かしている。一方で、平均年齢70歳を超えたもののレギュラーキャストが全員現役で交替など無く集まった事の感慨も語った。
高橋留美子にその声を気に入られており、『うる星やつら』の面堂終太郎や『めぞん一刻』の三鷹瞬の声を演じている。
『らんま1/2』への出演はなかったが、作品の後期にはいくつか神谷のために用意されたキャラクターが登場した。
『名探偵コナン』の毛利小五郎役は、プロデューサーが過去に出演した『シティーハンター』『YAWARA!』と同じ諏訪道彦であり、番組を始める際に「神谷さんと一緒にやった番組は長く続く」と神谷の顔と名前が浮かんだ諏訪によるキャスティングだったという。
小五郎役について神谷は、「『シティーハンター』で自分の思いを第一段階としてクリアできた」後に始まったことから、新しい自分を作っていこうと意気込み、楽しみながら演じていたという。
演技については、先輩の納谷悟朗が演じた銭形警部を参考にしたといい、ギャグとシリアスな部分がハッキリした役であることを意識して演じていたという。また、小五郎の声質については「小五郎の年齢設定は38歳だが、現実であんな声の38歳はほぼいない」と冗談交じりに語っている。
2009年9月18日、前日をもって小五郎役を解任させられたことを自身のブログにおいて発表。詳細には触れず、『名探偵コナン』という作品自体には無関係で「契約上の問題と信・義・仁の問題」であるとし、原作者の青山剛昌・共演者・APUスタジオ・読売テレビ・小学館に対しお詫びと長年の愛顧についての感謝の言葉を述べた。発表後、具体的な理由が明かされなかったことでファンの間では様々な噂や憶測が飛び交い、翌19日、契約交渉の相手である制作会社の人物が「守秘義務の生じる契約内容」を音声制作・俳優団体や共演者の一部に「悪意を持って伝え」「帰る場所」を奪われたことで降板を決めたが、発表前にその人物がネットに降板情報をリークしたことで「ばかばかしさを覚え」、別の人物に役の復帰と仲裁を担ってもらったが叶わなかった、と自身のブログに投稿した。なお、この投稿は20日に削除している。その後、日本俳優連合を退会していた神谷が個人で出演料の交渉をし、出演作品の二次使用料などをめぐる交渉で折り合いがつかずこの結果になったとの報道があった際は「報道自体間違いではありません」とコメントしている。
諏訪をはじめとする『名探偵コナン』の直接のスタッフやメインキャストとの交友は降板後も続いており、『コナン』はこれからもずっと続いて欲しいことと、番組からひとまず離れたが応援団として変わらず支え続けている旨を何度か明かしている。また、後任となった小山力也には交代時にエールを送り、2010年4月には改めて会食して正式にバトンタッチとアドバイスが完了したことを発表している。
2019年4月公開の劇場版『名探偵コナン 紺青の拳』の予告映像の一つに、『北斗の拳』とのコラボという変則的な形式でケンシロウ役にてナレーション出演し、10年ぶりに『名探偵コナン』への参加が実現した。
高校卒業後、当初はコックを目指してレストランに就職したが、商業高校出身ということで半年後に経理に回された。「これが自分のやりたい仕事なのか?」と疑問を感じながら働いたことで胃下垂を患い、半年ほど養生している間に職場の席がなくなっていたという。
ラーメン屋をしていた時期もあり、店を開くのにあたり、親戚のラーメン店で2ヶ月間修行していた。ラーメン店は母親と出店していたが、人が少ない地域であっため、数年で閉店したという。
数か月間ではあるが有名歌手の霧島昇の付き人をしていた時期がある。
サラリーマン時代、横浜市にある貿易商社に職を得て、配送係の運転手から始まり、商品管理の倉庫番、営業事務へと出世はしたが、もっと儲けたくてその会社を退社したという。別荘地を売る不動産屋で「ガバッと儲けてやるぞ」と飛び込み、持ち前のバイタリティで駆けずり回っていたこともあった。当時は22、23歳で張り切ってみたところで、「はいよ」と大金はたいしてくれず、一軒売ったところで辞めたという。その他、アイスクリームの配達員、ガス器販売員、造船会社の弁当屋と、様々なアルバイトを転々としながら養成所の学費を稼ぎ始めたという。その後、化学雑巾リース会社の配達員となり、給料を貯えていたという。
『かに座』退団後、家計のことが気がかりだったが母にプロの役者になりたいことを伝えた際「自分で選んだ道だから頑張んなさい」と言われたという。後に、当時は今以上に役者になることが困難だった時代で、本来なら冒険できない立場だったことから「自分が母の立場だったら、泣いて止めたかもしれない」と述懐している。
テアトル・エコーの研究生時代の1970年春、劇団は自分の好きな井上ひさしの作品を次々と上演しており、「俺にぴったりの劇団だ。俺の本当の人生が、今日から始まるのだ」と思った。その後、訓練が始まって驚き、前述のとおり、高校演劇でも活躍し、アマチュア劇団でも舞台に立ち、「いっぱしの役者だ」と思っていた。しかし台詞を言えばひと言ひと言直され、動けば、「貴様はロボットか」と怒鳴られ、先輩の熊倉、納谷、槐らの指導は厳しかったという。芝居を離れて劇団近くの飲み屋で一杯やる時の先輩たちは、優しく後輩の話を親身になり耳を傾けてくれて「ああ、これが役者なんだ、これが劇団なんだ」と改めて演劇の世界に身を投じた喜びを噛みしめていたという。
研究生になり初めて芝居だけしていたのでは収入はいつまでたってもゼロでラジオ、テレビから収入が得られるようになければ、俳優としても生活していくことはできないとわかった。研究生になってから6カ月目、1970年10月、フジテレビの早朝番組の台詞のない端役で初めてテレビの仕事をくれた。その時は初めてくれたギャラ袋の重みを、忘れることができなかったという。
声優デビュー作のアニメ『魔法のマコちゃん』について、本人は以下のように回想している。「この作品のアフレコの現場では右も左も分からず、僕は後ろの方でセリフを喋っていたんです。すると“そんな所で何やってんだ!”って先輩たちにマイクの前まで突き飛ばされてね。セリフを言ってその場で反省していると、今度は“終わったら早くどけ!”とド突かれた。こんなんじゃもう使ってもらえないなと落ち込んだのが、声優デビューの思い出です」。
売れっ子の神谷は歯を治療した直後の当日に仕事をしなければならなかったこともあった。しかもスタジオ入りの途端麻酔が再び効きだし、『プリンプリン物語』のタイトルを「フリンフリン物語」としか言えず、危機に陥った経験がある。
かつては稀代の雨男として名を馳せた。イベントにおいてはそれまで快晴だった空が神谷が登場するや否や雲が差し掛かり、そのまま雨が降ってきたという事態も一度や二度ではなかった。
『神谷明のオールナイトニッポン』では「ギネスに挑戦!」というコーナーをやっていたが、コミックシンガーソングライターとして知られる嘉門達夫(当時は笑福亭鶴光の弟子だったため「笑福亭笑光」という名前だった)が類似コーナーを『MBSヤングタウン』でやっていたことで知り合いになり、そのまま親交を持っている。
多くの著名声優が在籍していたことでも知られる劇団薔薇座では、神谷は正規の座員ではなかったものの大道具のアルバイトをしていたといい、その流れでテレビ局やザ・ドリフターズのコント番組の舞台転換のアルバイトをしていたという。ただし薔薇座の座長であった野沢那智は当時神谷がアルバイトをしていたことは知らなかったという。
立ち食いそばが大好物でとてもうるさい。そのため「山手線全駅の立ち食いそばを制覇している」といわれていたが、後に「結構制覇しましたけど全駅ではないですね」とこのことを否定している。
神谷浩史とは、同じ名字でなおかつ職業も同じであるものの、縁戚関係は一切ない。ただし、浩史はラジオなどで明を「僕のお父さん」などと称している他、2003年に発売されたゲーム作品『激闘プロ野球 水島新司オールスターズVSプロ野球』では『ドカベン』の里中智を明に代わり演じている。
いわゆる"第二次声優ブーム"の立役者の一人だったころ、自身のラジオ番組『イクエと明のはなきんパーティー』で"おにぎり仮面"のニックネームを付けられた(当時長髪であったため、その髪型からの由来)。また当時同番組では、「アホといわれようとも!瞬間湯沸器といわれようとも!」というギャグもあった。
『探偵レミントン・スティール』に関しては「本当に面白い、お洒落で素敵な大人のコメディー。今でも沢山の皆様に楽しんでいただきたい作品」と評しており、30年以上経過した現在も当時の出演者・スタッフ一同交流が続いているという。また、同作の収録中にブロスナンが007を演じるという情報が入った際には「ぜひ演じさせていただきたい」と思ったと述懐している。なお、この作品も途中降板しており、シーズン3からは関俊彦に役を譲っている。
自身のスケジュールやポリシー、製作側の予算の都合などの諸問題から持ち役を降板、辞退していた時期があり、過去に演じたキャラクターの再演にも代役が立てられるケースが多い。ただし、例外として一部の役には復帰しているものもある。
なお、他の声優陣も総入れ替えされた作品はこの趣旨から外れるため、この表には記載しない。
太字はメインキャラクター。
※はインターネット配信。
特記のない限りは、全てナレーションである。
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