![吉野 (鹿児島市) 吉野 (鹿児島市)](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a4/Isoteien-sakurajima2.jpg/400px-Isoteien-sakurajima2.jpg)
吉野(よしの)は、鹿児島県鹿児島市の町丁。旧薩摩国鹿児島郡鹿児島近在吉野村及び大隅国始羅郡帖佐郷脇元村の飛地(竜ヶ水)、鹿児島郡吉野村大字吉野。郵便番号は吉野町の区域は892-0871、吉野一丁目から吉野四丁目までの区域は892-0877である。人口は36,194人、世帯数は14,233世帯(2020年10月1日現在)。吉野一丁目から吉野四丁目まで及び吉野町があり、吉野一丁目から吉野四丁目までの全域で住居表示を実施している。2012年1月現在の町域の面積は約3,310ヘクタール。
吉野という地名は弘治元年(1555年)ごろの資料に表れるのが初見である。1658年、磯地区に仙巌園と呼ばれる薩摩藩藩主島津氏の別邸が建設された。
19世紀になり、薩摩藩の集成館事業の一環として仙巌園の周辺に日本初となる近代洋式工場群が建設された。これらの史跡の一部は「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されている(詳細は#世界文化遺産節を参照のこと)。1853年の薩英戦争後にはイギリスをはじめとする諸外国の技師を薩摩藩が招聘し、日本初の紡績工場である鹿児島紡績所をはじめとする近代化工場が建設された。
鹿児島市の北東部、稲荷川上流域に位置している。町域の北方には鹿児島市川上町、鹿児島市宮之浦町、姶良市脇元、南方には鹿児島市清水町、祇園之洲町、大明丘、東坂元、西方には鹿児島市坂元町、下田町がそれぞれ隣接しており、東方から南方にかけては鹿児島湾に面している。町域の北端にある牟礼ヶ岡、関屋谷は姶良市及び牟礼岡との境界に位置する。
主要な山としては、牟礼ヶ岡(標高:552m)、寺山(標高:423m)、磯山(標高:169m)があり、谷は関屋谷がある。川は稲荷川、磯川、花倉川が流れる。
吉野町の大部分を占める吉野台地は、標高約150mから350mにあるシラス台地となっている。火山砕屑岩台地であり、平坦で起伏に乏しい地形をしている。吉野町では古くから鹿児島市街地への野菜や花木などの供給地となっており、町域の中央部から北部にかけて広がる吉野台地上の耕地の多くは畑地が占めている。
農業の形態としては都市型農業が営まれており、軟弱野菜を中心に鉢物の栽培のほか、造園業も盛んである。春期と秋季に鹿児島市街地の甲突川沿岸で開催されている木市は、仙巌園の庭園整備を行っていた吉野村の職人が鹿児島市街の街角で植木を販売したのが起源と言われている。
この節では吉野町のうち、錦江湾沿岸部、国道10号及び日豊本線沿線にある平松・竜ヶ水・三船・花倉(けくら)の各地区について述べる。
東部の吉野台地の崖下にあたる区域には海岸に沿って国道10号及び日豊本線が並行して通り、その沿線に平松地区、竜ヶ水地区、花倉(けくら)地区、三船地区の集落が点在している。
平成5年8月豪雨(8・6豪雨)で土石流被害にあった竜ヶ水地区周辺は古くより水害に多く見舞われており、竜ヶ水の地名は「竜が水を吹くように水害が多い」ということに由来している。8・6豪雨後には住民の多くが他の地域へ移転し、竜ヶ水駅の利用者も激減しており、2015年度の年間乗降客数は約1,000人となっている。
当該地区で発生した災害については「#災害」節を参照のこと。
吉野町の南部に位置する磯地区は、稲荷町の境界に位置する多賀山、吉野台地に続く磯山と鹿児島湾の間に位置する地区である。島津氏の別邸であった国の名勝である仙巌園や尚古集成館があり、観光地として賑わいを見せている。また、仙巌園附近には世界文化遺産である「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一部を構成する集成館事業に関係する史跡が多く集積している。
南部には海水浴場として磯海水浴場があり、磯ビーチハウスは7月上旬から8月末まで営業を行っている。
吉野町の行政の管轄区域は、鹿児島市役所本庁が海岸部の磯、花倉、三船、竜ヶ水及び平松地区を管轄し、その他の吉野町の区域は吉野町にある鹿児島市役所吉野支所の管轄区域となる。
また、鹿児島市が策定した「第五次総合計画」における地域区分でも、吉野町の磯、花倉、三船、竜ヶ水、平松の各地区は「中央地域上町地区」、その他の吉野町は「吉野地域」となっている。
吉野町の中心部にあたる北西部では1992年(平成4年)から土地区画整理事業が行われている。吉野町の北部と隣接する川上町の一部、下田町の一部を含む114.1haの区域にて吉野地区土地区画整理事業が行われており、道路の拡幅及び区画整理が実施されている。2015年(平成27年)2月2日に事業区域の一部で換地処分が行われ、同時に吉野一丁目、吉野二丁目が設置されている。
また、吉野地区土地区画整理事業に続いて、吉野土地区画整理事業の事業区域の南側を事業区域とする吉野第二地区土地区画整理事業の都市計画決定が2014年(平成26年)2月25日に告示された。事業主体である鹿児島市により事業着手された。
吉野町の一部が国立公園である霧島錦江湾国立公園の区域に指定されており、第2種特別地域(吉野)から構成される。
都市計画法の規定による風致地区は「寺山風致地区」が1963年3月7日に指定されており、吉野町の東部、寺山公園、吉野公園、鹿児島市立少年自然の家、平松地区から磯地区にかけての海岸線沿いの全域が区域に含まれる。
景観法の規定による景観形成重点地区は「磯地区」(Iso Area Landscape Scheme)が2014年4月1日に指定されており、尚古集成館、鹿児島紡績所技師館からの視認範囲を基本として、環境計画区域が設定されている。
2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、下記の吉野町の住宅地における地価は次の通りである。
吉野町の区域で発生した災害の歴史についての詳細は「#災害」節を参照のこと。
現在の吉野町の区域では主に縄文時代から弥生時代のものと見られる遺跡群が発見されており、吉野台地の東部の鹿児島湾との断崖の線に沿って散在している。
上ノ原の石郷遺跡は1915年(大正4年)にイギリスの医師で考古学者でもあるニール・ゴードン・マンローにより発掘調査が行われた。縄文早期から中期、後期のものと見られ、発掘された土器は市来式、石坂式、阿高式、岩崎上層式、指宿式、鐘崎式、草野式がある。また住居跡も発見されている。
七社の七社遺跡はゴルフ場建設の際に発見された遺跡であり、黒川式土器が発掘されている。前平の前平遺跡で発掘された土器は前平式土器と名付けられ、前平式土器の標式遺跡となった。
弥生時代のものとしては、先述の縄文時代の石郷遺跡に隣接して弥生時代の石郷遺跡があり、この石郷遺跡からは弥生時代後期のものと見られる遺物が発見されている。また、雀ケ宮遺跡でも弥生時代後期のものと見られる遺物が散布している。
また石郷遺跡では、本格的な調査は行われていないが土師器・成川式土器も出土しており、古墳時代の集落跡の存在も予想されている。
吉野という地名は戦国時代より見え、薩摩国のうちであった。吉野という地名は「山本氏日記」の弘治元年(1555年)8月27日の項目にある記述が初見であると考えられ、その他にも「上井覚兼日記」に記述が多く見える。
江戸時代の吉野村は薩摩国鹿児島郡のうちであり、鹿児島藩庁直轄地の鹿児島城下の近郊農村部を指す鹿児島近在に属していた。鹿児島近在は近村と遠村に区分されており、吉野村は遠村に区分されていた。なお、鹿児島近在は天明4年(1784年)までは近名と呼ばれていた。
村高(石高)は寛文4年(1664年)の「郡村高辻帳」では854石余、「三州御治世要覧」では963石余、「天保郷帳」には854石余、「旧高旧領取調帳」には1,360石余であったと記載されている。
慶応3年頃の吉野村には方限が7か所あり、実方、帯迫、菖蒲谷、中町、中別府、雀ヶ宮、七社があった。方限は薩摩藩の統治機構の一つであり、1村に複数置かれる。各方限には名主が置かれ、他藩の村に相当する。江戸時代初期頃より竜ヶ水地区は大隅国帖佐郷(外城)脇元村(現在の姶良市脇元)の飛地であった。脇元村自体は大隅国に属していたが、飛地であった竜ヶ水地区は薩摩国に属していた。竜ヶ水地区は明治までに吉野村に編入されている。
万治年間に島津光久が大磯に鹿児島城の別館を設け、その別館を仙巌園と名づけた。薩摩藩によって江戸時代後期に編纂された地誌である『三国名勝図会』には、仙巌園が建設された大磯が挿絵入りで収録されており、以下のように記述されている。
吉田・重富・帖佐にかかる付近には藩営の吉野馬牧があり、約400馬が放牧されていた。
吉野馬牧では慶長頃より原で藩庁主催の吉野の馬追いが行われていた。吉野の原に放牧されていた馬の群れを役員など百名が横隊となり鶴翼を作り、中に包み下方のオロと呼ばれるものに追い込むものであった。
1851年に島津斉彬が薩摩藩当主に就任すると磯地区にアジア地域初となる製鉄、紡績、造船等の近代洋式工場群が建設された。
1858年に島津斉彬が死去し、その後一時は規模を縮小するが、1863年に鹿児島湾において薩摩藩とイギリスとの間で勃発した薩英戦争ののちに派遣されたイギリス人の指導により集成館機械工場や、日本初の紡績所である鹿児島紡績所が建造された。
安永8年には吉野薬園と呼ばれる薩摩藩が運営する薬園が現在の吉野小学校の場所に設置された。薬園では70種類の薬草を生産していたが、後に行われた廃藩置県によって薩摩藩が廃止されたことにより薬園は廃止された。
跡地は私学校の分校となったが、西南戦争後に私学校は廃止され、その跡地に小学校が設置された。その小学校はのちの鹿児島市立吉野小学校の前身にあたる。
明治4年には廃藩置県が行われ、吉野村は薩摩藩から鹿児島県管下となった。廃藩置県により失業した士族の士族授産のため、西郷隆盛により吉野開墾社が設立された。吉野開墾社は帰郷浪士ら150名から構成され、吉野村の開墾事業が行われた。
翌年明治5年には天皇の鹿児島県巡幸において磯の機械局を視察するため、行幸道路として田ノ浦(現在の八坂神社附近)から磯までの海岸線の道路(磯街道)が整備された。また、それまで鹿児島から重富に至る道路としては吉野台地・白銀坂経由のルートのみであったが、翌年6月5日には磯から重富までの海岸線沿いの道路(現在の国道10号のルート、約10 km)の建設に着手し、同年9月15日に竣工した。
1878年(明治11年)の郡区町村編制法の施行から1889年(明治22年)に町村制が施行されるまでの間、吉野村内には町村制施行まで戸長役場が置かれ、町村制施行後は戸長役場は吉野村役場となった。
1889年(明治22年)4月1日に町村制(明治21年法律第1号)が施行されたのに伴い、鹿児島近在のうち吉野村、坂元村、下田村、川上村、岡之原村の5村の区域より鹿児島郡吉野村が成立した。町村制の施行に伴いそれまでの吉野村は吉野村の大字「吉野」となった。
1901年(明治34年)6月10日に鹿児島本線(現在の日豊本線)の国分駅(現在の隼人駅)から鹿児島駅までが開通した。大字吉野の区域には駅が設置されなかったが、線路が海岸線沿いを通ることとなった。鉄道の開通から14年経過した1915年(大正4年)8月7日、竜ヶ水地区に竜ヶ水駅が設置された。但し、貨物の取り扱いは行われず客扱いのみでの開業であった。
1934年(昭和9年)8月1日には吉野村が鹿児島郡中郡宇村、同郡西武田村とともに鹿児島市へ編入され、同日鹿児島県公報に掲載された鹿児島県告示「 鹿兒島市内大字名廢止町名改稱竝ニ區域變更」によって「吉野ヲ廢止シ其ノ區域ヲ吉野町(ヨシノテウ)ト」とすることが許可され、大字吉野を廃しその区域を以て鹿児島市の町「吉野町」が新たに設置された。
第二次世界大戦前には伊敷村に本部が置かれた大日本帝国陸軍歩兵第四十五連隊の演習場が吉野と花棚の境界上付近に展開されており、第二次世界大戦中には上花棚の区域まで拡大された。
1986年(昭和61年)2月9日に吉野町のうち大明ヶ丘団地として造成された区域に住居表示が実施された。これに伴い町名整理が行われ、吉野町の一部を分割し大明丘一丁目、大明丘二丁目、大明丘三丁目が新たに設置された。翌年の1987年(昭和62年)には吉野町北部を区域とする吉野地区土地区画整理事業の都市計画決定が告示され、1992年(平成4年)に事業に着手した。吉野地区については2022年までの事業完了を予定している。
1993年(平成5年)8月6日には記録的豪雨の影響により、吉野町の竜ヶ水地区をはじめとする鹿児島湾沿岸地域の29か所で大規模な土石流が発生。吉野町の区域で18名が死亡した。土石流により花倉病院周辺が埋没し入院患者や地元住民合わせて15名が死亡したほか、竜ヶ水駅に土石流が直撃し駅に停車していた鉄道車両3両が大破し3名が死亡するなど、壊滅的な被害を受けた。
吉野地域の人口増加に伴い、それまでの鹿児島市役所吉野出張所は1997年(平成9年)度より出張所から支所へ格上げされ、1998年(平成10年)1月から旧鹿児島無線送信所跡地に建設された新庁舎での業務を開始している。また、吉野支所は2004年(平成16年)の5町編入と同時に市民局市民部の課相当組織から、部相当組織へ格上げされた。
2015年(平成27年)2月2日に吉野第一地区区画整理事業の事業区域の一部で住居表示が実施されるのに伴い、吉野町、川上町及び下田町の各一部の区域で町名整理が行われ、「吉野一丁目」、「吉野二丁目」が新たに設置された。
同年7月には磯地区にある国の指定重要文化財及び国の史跡である「旧集成館」(旧集成館反射炉跡、旧集成館機械工場、旧鹿児島紡績所技師館)及び、寺山地区にある国の史跡「寺山炭窯跡」が「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つとして、世界文化遺産に登録された。
2023年(令和5年)1月23日には川上町・吉野町の一部より「吉野三丁目」、「吉野四丁目」が新たに設置された。
竜ヶ水地区をはじめとする鹿児島湾に面する地区では土石流などの災害が頻発している。これらの地区は姶良カルデラの壁となっている区域にある。シラス台地である吉野台地での降雨水は急崖とは異なる方向に流下する構造となっている。この構造のため、急崖の中腹にある透水層において強雨時に地下水位が上昇。湧水が発生し、これが崩壊や土石流の誘因となっているとみられる。
平成5年8月豪雨発生後、竜ヶ水地区を中心に砂防施設が建設されている。また、国道10号は異常気象時通行規制区間に竜ヶ水地区を含む姶良市重富から磯地区までの区間が指定されており、連続雨量が200mmに達した場合、道路管理者である国土交通省によって通行止規制が行われる。
吉野町の区域内において発生した主な災害は以下のとおりである。
1977年(昭和52年)6月24日に発生した災害であり、竜ヶ水駅付近のシラス崖が連日の雨により高さ300mに渡り崩壊。崩壊した崖の直下の住民9名が死亡した。建物の被害は13棟が全壊、1棟が一部破損であった。
また、国鉄日豊本線(当時)の線路が土石に埋まり、復旧に1か月以上を要した。
1993年(平成5年)8月6日に平成5年8月豪雨(8.6豪雨)に起因して吉野町の錦江湾沿岸部にある磯地区、花倉地区、竜ヶ水地区を通る国道10号及び日豊本線沿線で29か所の土石流・崖崩れが発生するなど壊滅的な被害を受けた。このことにより家屋に甚大な被害を受け、国道10号や日豊本線が土石流によって堰き止められたことにより鹿児島市近郊の交通網も麻痺した。吉野町内においては大規模な土石流が発生した竜ヶ水地区と花倉地区において18名が死亡した。
竜ヶ水(りゅうがみず)地区にある竜ヶ水駅付近では周囲の地域でがけ崩れや土石流が相次いて発生したことにより、鉄道・道路が通行不能となり完全に孤立状態となった。当時竜ヶ水地区には国道10号を通行中であった自動車約800台に乗車していた者と竜ヶ水駅に停車中であった列車の乗客が取り残され、竜ヶ水駅の南方向にある国道10号にて強盗事件の検問を行っていたため偶然居合わせた警察官と竜ヶ水駅で孤立した列車の乗務員の誘導により、国道10号の道路上に合わせて約2,500名が避難した。
同日16時53分ごろ、竜ヶ水駅の北方向にある斜面が崩壊。これによって発生した土石流が竜ヶ水駅に直撃したことにより、竜ヶ水駅に停車していた列車2編成3両が大破し、竜ヶ水駅は埋没した(日豊本線竜ヶ水駅土石流事故)。日豊本線の線路を超えた土石流は国道10号の路上に避難していた人や自動車の一部に直撃し、一部の人々は鹿児島湾に投げ出された。
鹿児島県からの出動要請を受けた対岸の桜島にある鹿児島郡桜島町は桜島町営の桜島フェリーを災害救助のため竜ヶ水地区に派遣し、駆けつけた漁船、海上保安庁と共に土石流によって孤立していた竜ヶ水から順次鹿児島港へ搬送した。
竜ヶ水地区での土石流災害からの脱出劇・救難活動は、さまざまなドキュメンタリー番組で取り上げられ、NHKの『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』(絶体絶命 650人決死の脱出劇~土石流と闘った8時間~)をはじめとして、フジテレビの『奇跡体験!アンビリバボー』、日本テレビの『奇跡の生還! 九死に一生スペシャル』において題材となったほか、東京書籍が発刊した2015年(平成27年)度用小学校道徳6年の教科書にこの災害における救助活動について記された「土石流の中で救われた命」が教材として掲載された。
また、竜ヶ水地区の西に位置する花倉(けくら)地区では集落を土石流が直撃し、集落にあった花倉病院に入院していた患者9名と花倉地区の住民6名の合わせて15名が死亡した。
災害後、鹿児島市内の学校に避難した花倉地区の住民は、花倉地区に戻らずに市営住宅に入居した住民も多く、花倉地区の人口は水害発生以前は約200人であったのに対して水害後は60人程度に減少した。
2014年(平成26年)の経済センサスによれば吉野町に所在する全事業所数は839事業所であり従業者数は7,488名であった。業種別には卸売業・小売業207、建設業138、製造業36、運輸業・郵便業19、農業・林業7、情報通信業2、電気ガス熱供給水道業1の順であった。
2015年(平成27年)の国勢調査によると吉野・吉野町に居住する15歳以上の就業者数は15,444人であり、産業別では多い順に医療・福祉2,926人、卸売業・小売業2,820人、建設業1,553人、教育・学習支援業904人、サービス業904人、製造業870人、宿泊業・飲食サービス業860人、運輸業・郵便業846人、学術研究・専門・技術サービス業603人、生活関連サービス業・娯楽業573人、公務員568人、金融業・保険業411人、農業・林業355人、情報通信業263人、不動産業・物品賃貸業262人、複合サービス事業139人、電気ガス熱供給水道業68人、漁業3人、鉱業・採石業・砂利採取業1名となっている。
『鹿児島市史第5巻』の記述によると2014年10月1日現在の人口は32,691人であり、鹿児島市の町丁では最も多くの人口を擁している。
以下の表は2020年10月1日現在の吉野の各区域の人口一覧である。
吉野に所在する史跡などの文化財群は、薩摩藩主島津氏の別邸(仙巌園)があった磯地区に特に多く、国の名勝に指定されている仙巌園や、国の重要文化財に指定されている集成館事業により建設された旧集成館や旧鹿児島紡績所技師館など日本の近代化において大きな影響を与えた建造物が多く所在している。
2015年(平成27年)7月に行われた第39回世界遺産委員会においてユネスコの世界文化遺産に登録された、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産には吉野町にある旧集成館反射炉跡、旧集成館機械工場、旧鹿児島紡績所技師館、寺山炭窯跡が含まれている他に、隣接する下田町にある関吉の疎水溝も構成資産に含まれている。
日本国によって指定された吉野町・吉野に所在する文化財の一覧である。この節では上記の世界文化遺産で記載された国指定の文化財等の解説は割愛する。
吉野の磯地区には尚古集成館という博物館と鶴嶺神社いう神社があり、美術品や歴史資料が所蔵されている。所蔵されている美術品や歴史資料には次のようなものがある。
2020年4月1日現在の鹿児島市指定の文化財は以下のとおりである。
この節では上記の史跡の節で記載された施設は割愛する。
教育施設は中央部に鹿児島市立吉野小学校、鹿児島市立吉野中学校、東部に鹿児島市立吉野東小学校、鹿児島市立吉野東中学校、吉野一丁目に鹿児島県立鹿児島特別支援学校が設置されている。北東部には鹿児島市立少年自然の家がある。また、1970年までは磯から平松までの国道10号沿線区間及び上ノ原集落を通学区域とする鹿児島市立龍水小学校が竜ヶ水駅付近に所在していたが、清水小学校及び吉野小学校にそれぞれ統合された。
鹿児島県立鹿児島特別支援学校は、吉野一丁目42番1号にある特別支援学校である。1965年(昭和40年)に鹿児島県立養護学校として設置され、1967年(昭和42年)には高等部が併置された。1975年(昭和50年)に鹿児島県立鹿児島養護学校に改称した。2013年には吉野町内の県高等学校合同グラウンド跡地に新校舎を建設し移転した。
鹿児島市立吉野中学校は、吉野町3074番地にある中学校。1947年(昭和22年)に鹿児島市立第一中学校として設置され、1949年(昭和24年)に現在の校名である鹿児島市立吉野中学校に改称した。1983年(昭和58年)には生徒数増加に伴い、鹿児島市立吉野東中学校に分割された。
鹿児島市立吉野東中学校は、吉野町5003番地にある中学校。1983年(昭和58年)に鹿児島市立吉野中学校の生徒数増加に伴い分割され設置された。
鹿児島市立吉野小学校は、吉野町2472番地にある小学校。安政元年に造士館の分校として吉野村に設置された2校を前身としており、1870年(明治3年)には2分校を統合し外城十二校として設置された。1876年(明治9年)には原小学校に改称、1934年(昭和9年)に吉野村が鹿児島市に編入されたのに伴い鹿児島市立吉野尋常高等小学校となった。その後国民学校令が施行され吉野国民学校に改称し、戦後の学制改革により現在の校名である鹿児島市立吉野小学校に改称。1970年(昭和45年)と1981年(昭和56年)に児童数増加に伴い鹿児島市立大明丘小学校及び鹿児島市立吉野東小学校に分割された。
鹿児島市立吉野東小学校は、吉野町5968番地1にある小学校。1981年(昭和56年)に鹿児島市立吉野小学校の児童数増加に伴い分割され設置された。学校名は吉野台地の東側に設置されたことに由来する。
鹿児島市立龍水小学校は、かつて竜ヶ水地区にあった小学校である。1893年(明治26年)に塩ヶ水小学校、平松小学校を統合し開校。1970年(昭和45年)3月31日に児童数の減少(閉校時111人)により閉校。花倉から平松までの海岸地域は清水小学校区、上ノ原地域は吉野小学校区へそれぞれ分割統合された。
市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる。該当地区の詳細の街区・番地は鹿児島市公式サイトの小・中学校の校区表を参照のこと。
町域の東部にあたる海岸部を国道10号がほぼ南北に通っており、それに沿って日豊本線が通っている。町域内には竜ヶ水駅が所在している。町域の西部は台地になっており、台地上を鹿児島県道16号鹿児島吉田線が縦貫し、吉野支所入口交差点から鹿児島県道215号吉野公園線が寺山公園までを結んでおり、寺山公園付近から川上町までを鹿児島県道220号寺山公園線が結んでいる。
高速道路は吉野の区域を通っていない。北部に隣接する宮之浦町にある九州自動車道薩摩吉田インターチェンジが最寄りの高速道路のインターチェンジとなる。
また、江戸時代には鹿児島城下と大隅・日向を結ぶ薩摩街道の大隅路があり、現在の国道10号のルートの一部となる海岸ルートが明治時代に完成するまでは姶良より白銀坂、吉田、吉野を通り坂元から皷川へ抜けるルートが使用されていた。
Owlapps.net - since 2012 - Les chouettes applications du hibou