井笠鉄道株式会社(いかさてつどう、通称井笠バス、英文社名Ikasa Tetsudo)は、岡山県笠岡市に本社を置き、かつて鉄道とバスを中心に事業を展開していた会社。2012年10月31日限りで事業を停止し、会社自体も破産手続に移行し解散した。
井笠鉄道の事業を継承して、2012年11月1日より2013年9月30日まで暫定運行を行った中国バス・井笠バスカンパニー(井笠バス福山カンパニー)および、2013年4月1日より同社井笠バスカンパニーが暫定運行を行った路線のうち、福山市内で完結する路線、および「カブトガニ号」以外の運行を担当し、同年10月1日から福山市内完結路線も運行する井笠バスカンパニーについては「井笠バスカンパニー」を参照。
井笠鉄道は主に岡山県の井笠地方(笠岡市、井原市等)を中心とする西南部と広島県福山市を営業エリアとしていた。そのため、岡山県バス協会と広島県バス協会の双方に加盟していた。かつては鉄道路線を有していたが、1971年に廃止されたため、路線バス・貸切バスのみの営業となった。また、1991年まで福山市赤坂にて、赤坂遊園という遊園地も経営していた。
コミュニティバスの一部をのぞき岡山県共通バスカード(井笠鉄道発行分)・井笠バス専用バスカード(販売終了)が使用できた。また、福山自動車営業所管轄路線の一部ではPASPYが利用できた(PASPY定期券は鞆鉄道発行分を使用。また鞆鉄道のPASPYを福山駅前案内所やPASPYリーダー装備車の車内で受託販売していた)。またHarecaの導入予定はなかった。
1990年代まではストライキを頻繁に起こしており、他社がストライキを中止・回避しても井笠鉄道だけは突入することも珍しくなかった。ただし、ストライキを起こしたのは主に第1組合の「私鉄中国地方労働組合井笠鉄道支部」(総評系の私鉄総連加盟)の組合員で、第2組合の「井笠バス労働組合」(同盟系の交通労連加盟)の組合員は通常通りの業務を行うことが多かったため、全便が運休とはならなかった。なお、倒産直前の時期は両組織が統一して「井笠鉄道労働組合」(私鉄総連加盟。総連には『私鉄中国地方労働組合井笠鉄道支部』の名称で登録)となっていた。
2012年10月31日をもって沿線の過疎化や規制緩和などによる経営悪化のためバス事業を撤退し、かつ事業継続を断念、破産手続を行って会社清算されることになった。これに伴い、北振バスが井原市と浅口市の循環バス事業の一部を引き継ぎ、主要路線について当面は道路運送法に基づく臨時措置として中国バスが引き継ぐことを要請した。
2012年10月17日に笠岡市役所で岡山・広島両県と7市町などで廃止対策会議が開かれ、代替運行を要請している中国バスに路線・系統の代替について、対策会議としての意見をまとめ、それに基づいて中国バスが代替運行の申請を中国運輸局に行った。代替運行に際し、運行本数の削減や一部系統の廃止が行われ、結果、総社市(旧・清音村)からは路線撤退することとなった。また、寄島 - 里庄間の路線は、里庄町と浅口市が共同で代替無償バスを運行した。
なお、従業員はいったん解雇された後で中国バスなどが雇用したが、定期券・回数券・バスカードは使えなくなった(PASPYは中国バスを含む他の利用会社で使用可能)。
中国バスは、社内カンパニーの井笠バスカンパニーが代替運行を引き継いだ後、中国バスの100%出資による新会社「井笠バスカンパニー」を設立して、2013年4月1日から福山市内で完結する路線以外の運行を引き継くことを2013年1月に決定した。新会社への引き継ぎに際し、笠岡市内と矢掛町内へ車庫が新設されることになり、それに伴い2路線が新設されることになった。笠岡市美の浜にバスセンターと新会社の営業所が設置された。美の浜地区はバス路線の空白地帯になっており、路線新設により利便性の向上が図られた。このバスターミナルは笠岡市が市有地に建設した。また、矢掛町内の車庫設置と、矢掛駅の駅前ロータリーにも乗り入れることで井原鉄道との乗り継ぎが改善された。
一方、この時点で新会社に引き継がれなかった福山市内で完結する路線は、2013年9月30日まで中国バス・井笠バス福山カンパニー(同社井笠バスカンパニーを改組)により、社内カンパニーでの暫定運行を継続し、2013年10月1日から、一部路線を廃止・デマンドタクシーに移行の上で新会社「井笠バスカンパニー」が運行することになった。
関連会社だった北振バス・井笠観光・井笠自動車整備・井笠郵便輸送・井笠商事は井笠鉄道の破産後も独立系企業として存続していたが、井笠自動車整備は2015年1月23日に破産手続き開始決定。また同じく関連会社だった笠岡タクシーはアサヒタクシー(本社:広島県福山市)の傘下となった。なお、アサヒタクシーは1978年にも同じく井笠鉄道の関連会社だった「久松タクシー」からタクシー事業を譲り受け(同社は井笠商事として存続)、子会社の「グリーンタクシー」を設立した経緯があった。
破産以前に廃止されていた拠点
井笠鉄道子会社であった井笠観光株式会社により運営(井笠鉄道破産後も独立系として現存)。第二種旅行業に登録している(登録番号・岡山県2-85)。
移転・廃止された拠点
〈〉内は共同運行会社
福山自動車営業所担当便でバスカードが利用可能となるのは、笠岡自動車営業所担当路線より遅れた。このため、福山車の導入前は、福山・笠岡(統合前の井原・寄島営業所を含む)の両方が担当する路線だと、福山担当便だけバスカードが利用できないという現象が生じていた。
福山市北方の山野地区については、福山駅との直通運転を取り止め、途中停留所(中国中央病院ほか)で乗り換えるゾーンバス制度が導入された。
PASPYリーダー装備車は、PASPY定期券発行対象の下記路線に優先使用された。
以下の区間を往復する場合、往復割引運賃があった。
いすゞ車を中心に、日野、三菱ふそうの車両を使用していた。
オートマチック車の導入も早く、いすゞEC/ED系でも多くのオートマチック (AT) 仕様の車両が導入されて、その車両のフロント部分には "AUTOMATIC" のエンブレムが付いていた。
またモノコックバスも比較的後年まで生き残っており、廃車後も車庫(笠岡自動車営業所)に留置されて部品取りなどに活用されていたが、モノコック車が全車退役したので部品取りとしての用途も終了して片付けられた。
近年では、バス路線代替の乗合タクシー(予約制)用に日産・キャラバンジャンボタクシーや日産・セドリックタクシーなどの乗用車も導入されていた。
井笠鉄道・北振バスの車両には、1台ごとに車両番号と呼ばれる番号が付与されていた。車両にはアルファベット1文字と3桁(北振バス)・4桁(井笠鉄道)の番号が付けられており、以下の法則に基づいている。これは井笠バスカンパニーにも継承されている。
例:Z8303
1967年(昭和42年)1月時点。
「井笠鉄道七十年史のあゆみ」p28による。
井笠鉄道では客貨車形式において気動車に「ジ」(自走客車の意)を命名し、ボギー車は頭に「ホ」を加えた。
鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計各年度版、高井薫平『軽便追想』ネコパブリッシング、1997年、213頁による。
本線廃止後の1972年に西武山口線へ1号機関車の貸し出しと同時に以下の車両が譲渡された。
笠岡から北川にかけては断片的に残っているが、岡山県道48号笠岡美星線の拡幅などでかなりの旧道床が姿を消した。また矢掛線と井原以西の旧道床も、大半が井原鉄道井原線の道床に転用され、遺構はわずかに残るのみである。
旧新山駅は駅舎が現存しており、井笠鉄道記念館として車輌や資料を保存している。
井笠鉄道は軽便鉄道を由来とする国内各私鉄線の中でも比較的遅くまで存続し、廃車となった車両の大半を解体せず自社の鬮場(くじば)車庫で保管していたため、多数の機関車、気動車、客貨車が現存する。
鉄道線全廃後、売却・譲渡されなかった残りの車両も鬮場車庫内に保管されていたが、1980年2月21日深夜に発生した放火事件による車庫火災でその多くが失われた。
鉄道線関連
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