![美作市 美作市](/modules/owlapps_apps/img/errorimg.png)
美作市(みまさかし)は、岡山県の北東部(旧美作国)に位置し、兵庫県および鳥取県と県境を接する市である。また、県内の市の中で最も人口が少ない。
市域の大半は丘陵と山林である。県境は中国山地を形成し県内最高峰の後山がある。旧勝田町、旧大原町、旧東粟倉村は豪雪地帯となっている。
山崎断層帯は、岡山県東部から兵庫県南東部にかけて分布する活断層帯。山崎断層帯は、那岐山断層帯、山崎断層帯主部、草谷断層の3つの起震断層に区分される。
那岐山断層帯は、岡山県苫田郡鏡野町から岡山県勝田郡奈義町に至る断層帯。長さは約32㎞で、ほぼ東西方向に延びており、断層帯の北側が南側に対して相対的に隆起する断層帯である。
山崎断層帯主部は、岡山県美作市(旧勝田町)から兵庫県三木市に至る断層帯で、ほぼ西北西ー東南東方向に一連の断層が連なるように分布している。全体の長さは約79㎞で、左横ずれが卓越する断層帯。
草谷断層は、兵庫県三木市から兵庫県加古川市にかけて分布する断層。長さは約13㎞で、東北東ー西南西方向に延びており、右横ずれが卓越する断層である。
なお、山崎断層主部は、兵庫県姫路市より北西側と兵庫県神崎郡福崎町より南東側とではそれぞれ最新活動時期が異なる。そのため、地震本部では、北西部と南東部に分けて評価を行っている。
市の中心である林野(はやしの)地区は古くから交通の要衝で、戦国時代の頃から吉井川を往来する高瀬舟による物資の輸送が活発に行われた。船着場周辺には商人の蔵が立ち並び、やがて倉敷と呼ばれるようになった。江戸時代になると、最初に津山藩主になった森氏が津山城下の商人と同程度の権限を当地の商人に与え、東美作の中心と位置付けられる。森氏改易後は江戸幕府の直轄地になって代官所が置かれ、その後も物資の集散地として繁栄を続けた。
明治時代に町村制が施行。1889年に英田郡倉敷村(美作倉敷)になり、同時に窪屋郡倉敷村(現・倉敷市、備中倉敷)も発足し、岡山県内に二つの倉敷村が誕生した。その後、備中倉敷は紡績工場や鉄道等が作られる等いち早く近代化が進み、二つの倉敷の差は徐々に開いてゆくことになる。
備中倉敷の知名度が上がるにつれ、郵便や荷物の誤配が頻発する問題が発生。美作倉敷宛に正式住所を記載しても4分の1くらいが備中倉敷に送られてしまい、交通機関が未発達であった当時は大変な損害を荷主に与えることが少なくなかった。そして、1918年(大正7年)当時の町長が上記の理由から旧郷名の林野郷(はいのごう)に由来する林野(はやしの)町に改名し、備中倉敷に倉敷の名を譲った形となった。(『美作町史』より)
ここでは、明治時代から平成の大合併による美作市成立までにおける、市町村制施行に伴う合併や編入の変遷についてまとめた。
(+印は在職中死去)
※ただし作東町吉田→美作市江見吉田として、昭和の大合併時の旧町名・江見町からの名称を冠することになり、東粟倉村の内、大字青野、大字吉田は東粟倉村の「東」を冠し、東青野、東吉田となった。
定数:18人
任期:4年
主な産業:製造業、卸小売業、農業、林業、観光業(温泉)
作東産業団地、中尾工業団地、大向工業団地、土居工業団地、山城産業団地
かつては市域内に山陰合同銀行支店があったが、2006年に閉鎖されている。
過去の友好都市
美作市の人口は、2005(平成17)年3月31日に6町村が合併し、市制が施行されて以来減少し続けている。自然動態については、2021(令和3)年3月31日現在、依然として自然減の状態が続いているが、社会動態については、2020(令和2)年度において美作市発足以降初めて18人の転入超過となった。一方外国人の人口は、2021(令和3)年3月31日現在で473人となっており、総人口26,821人に占める割合は約1.7%。外国人の人口、占める割合については年々増加している。市内の外国人登録人口は、2016(平成28)年と比較すると2021(令和3)年では2倍以上の人口になり、その中でもベトナム人は3.5倍以上に増加している。
小学校
中学校
【岡山県優良実践校】
多くの教育課題を抱えながらも真摯に努力し、落ち着いた学習環境の確保等に成果を上げている学校として岡山県より選定
幼稚園
こども園・幼児園
保育園
高等学校
廃校
専門学校
高速道路
一般国道
県道
市道
道の駅
※( )は、標高。「*」は、岡山県百名山。
美作アルプス(後山~駒の尾山)の尾根を駆け抜ける絶景のコースです。
日本雪合戦連盟の公式ルールによる雪合戦大会です。愛の村パーク大駐車場を会場として開催している。
注釈
出典
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