![大神氏 (豊後国) 大神氏 (豊後国)](/modules/owlapps_apps/img/errorimg.png)
大神氏(おおがうじ)は、古墳時代から江戸時代の筑紫・豊国の氏族。大神比義命(おおがのひぎのみこと)を家祖とする。豊後大神氏とも呼ばれる。
大神氏の祖は、古墳時代568年(欽明天皇29年)に豊国に入って宇佐神宮前身の鷹居社を建立した大神比義命(おおがのひぎのみこと)である。また、大神氏は、宇佐神宮に大宮司・祝・禰宜などとして奉仕していたが、摂関政治が始まって劣勢となり、速見郡大神郷に移住したとか、さらに豊前国大野郡に移住したなどの説があり、様々である。また記録上の大神の名称が「大神部」などの職業を意味する場合についても注意が必要である。
中世期には豊後における有力な在地武士の一族であったが、鎌倉時代には、代官として大友氏初代当主能直の弟である古庄重能が豊後国に下向し守護に任じられたため、大神氏系の一族はこの入国の際に激しく抵抗した。しかし、第3代大友氏当主の頼泰以降は大友氏との養子縁組等により、大友氏の土着化が進み、大神氏の勢力は衰退し、次第に大友氏家臣団に組み込まれた。
その後の戦国時代には、御紋衆の大友氏と国衆(土着)の大神氏庶家との間で、賀来の騒動などの紛争も生じている。
かつて豊後国速見郡大神郷の大神村に大神比義館跡や大神八幡があり、同郷の深江村浜口には深江城があったとされている。大野川及び大分川の流域の大野郡や直入郡も本拠地のひとつであったとされている。
建武(1334年 - 1336年)のころに大神仙介が築城した日出城(速見郡日出町)も居城のひとつであったが、この城は1586年の天正の戦で落城したという。
大神比義命が568年(欽明天皇29年)に勅命を受けて豊前国に入り、神社を建立したり祈祷につとめ、その子孫は宇佐神宮の創祀や宮司職に関わっていたとするものである。のちの710年(和銅3年)には勅定を得て宇佐神宮を建立し、その子孫は祝氏、小山田氏の2氏を始めとして数百の家に繁栄したという、中野幡能の説。
養老4年(720年)の隼人の乱の逸話に、宇佐八幡に神託を仰いだ朝廷に対し八幡神が「我ゆきて降しおろすべし」と自ら征討に赴いたというものがあるが、このことにも祭司であり武家であった大神氏の関与がありうる。
大神氏は禰宜職、及び後には大宮司職を継ぎ、769年の道鏡事件の頃に宇佐氏と争ったという逸話もある。ただし小山田家は宇佐神宮を離れていない。
続柄不明の大神姓の人物も含め主な人物を挙げる。各庶家の著名な人物は各記事を参考。
霊媒(神道者)。568年(欽明天皇29年)豊国に入り、宇佐郡馬城嶺に大菩薩として出現した応神天皇の魂を祀るために鷹居八幡神社(宇佐神宮の前身、鷹居社)を建立した。571年(欽明32年)には託宣により誉田天皇広幡八幡麻呂(八幡神)を奉斎した。
子孫に春麻呂、諸男、田麻呂と大神杜女は大神朝臣を賜った。
宇佐八幡宮に大神祖神社(大神比義命)がある。
奈良時代の東大寺大仏造立の際に 宇佐八幡宮の禰宜尼であった大神朝臣杜女(おおがのあそんもりめ)が八幡神を奉じて入京し、大仏造立事業への援助を託宣したのが、中央の八幡信仰の進出のきっかけになった。
※大神の分家、三輪→大神おおみわに後から変えた方ではなく“おおがのあそんもりめ”である。
これが元で八幡信仰が広がり、貞観二年(860年)、宇佐から石清水八幡宮が勧請され都における八幡信仰の拠点になった。
翌長保6年(1004年)3月に宇佐八幡宮、大宮司・大神邦利ら宇佐の神職・神人ら数百名が上京して陽明門前で大宰帥平惟仲の苛政を愁訴する事件が発生する。宇佐神宮側は、大宰府による神宮や宮司への多くの特権侵害、特に惟仲による神宮宝殿の検封を第一に訴えた。これに対して、朝廷では度々陣定が開催され、右衛門権佐・藤原孝忠ら推問使の下向が行われる。一方で、惟仲や妻の藤原繁子が猛運動を試みたり、藤原道長の指示により惟仲の弟の生昌が九州に下向したほか、公卿の中でも権中納言・源俊賢が推問使の派遣に反対するなど、惟仲を擁護する動きがあった。結局、宇佐神宮側の訴えは認められ、6月に惟仲の釐務停止が決定、12月には大宰帥を解任(後任として藤原高遠が大弐に任官)されたが、罪には問われず中納言の官職は留任となった。
大神惟基の文献資料は比較的後世のものに限られており、一見矛盾する多くの説がある。
のちの『平家物語』や『源平盛衰記』には、惟基は山岳信仰の祖母岳大明神のご神体である大蛇と人間の娘との交わりから誕生したという旨の伝説がある。また、そのご神体がましたという洞窟には、651年(白雉2年)に健男霜凝日子神社(たけお しもごおりひこ じんじゃ、穴森神社)が建立されているので、惟基の出生はそれよりも前であると推測される。
養老年間(717年 - 724年)、豊後国に六所権現(現・阿南神社)が建立されているが、ここは惟基二男の惟季が在した阿南荘のひとつなので、これも惟基か惟季(阿南次郎)の代までに、大神氏によって開拓された地域であると思われる。
また、青井阿蘇神社は、阿蘇神社の神主の尾方権助大神惟基が神託により、806年(大同元年9月9日に阿蘇三社に分祀したものとされている。茅葺屋根をもつ神社であるが、奈良では607年に瓦屋根の法隆寺などが建立されているから、茅葺の神社を建立した惟基をおおみわの族とすることはやや不自然でもある。
また惟基は、812年(弘仁壬辰)に日向国の天岩戸神社の再興に関わったとされている。
年代的に見れば上記の神社興しを惟基が1代で扱ったとは考えにくいが、古来のヒメヒコ文化により惟基を祖とする族が建立を行っていたとすれば、可能性はある。
子については男子5人説、男子9人説があり、娘については記録されていないか存在していない。また三浦安貞『豊後事蹟考』などによれば、子は男子7人で、庶家は大神氏含め37氏族となった。
877年(元禄元年)、豊後国速見郡内成にはオオヤマツミを祀る神社があったが、比義の後裔であるという大神道国が八幡神を勧請して大神峰神社(おおがみねじんじゃ、別府市内成)を建立した旨が、おそらく江戸時代に作成された文書にあるという。
惟基の5代の孫で緒方氏の祖である緒方惟栄は平安末期、源頼朝が以仁王の命に応じ平家に対して挙兵したあと(治承・寿永の乱、源平合戦)、養和元年(1181年)に豊後国目代を追放されて源氏につき、元暦元年(1184年)には平家についた宇佐神宮を焼き討ちにしたり葦屋浦の戦いで戦勲を挙げるなど大いに活躍し、従来の支配階級に代わり武士勢力の存在感と支配力を強めた。
建武(1334年 - 1336年)年間に大神氏居城として日出城(速見郡日出町)を建造。
在九州有力武士団である鎮西九党の惟住氏や惟任氏もまた大神氏が祖であるとされている。
大永年間に、豊後国海部郡(あまべぐん)に在し、大神氏末裔といわれる佐伯氏の居城となる栂牟礼城を築いた。佐伯氏第10代当主。
1586年の天正の戦(豊薩合戦)では、大神氏庶家の武家とされる大津留氏、橋爪氏、武宮氏などは大友軍に属し、島津軍から大友氏の城を防衛したと言われている。
永禄4年(1561年) - 寛永7年5月13日(1630年6月23日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての博多商家。島井宗室・神屋宗湛とともに「博多の三傑」と呼ばれる。名は信好(のぶよし)。子孫は代々福岡藩黒田家の国元御用商人をつとめた。子の二代目は、茶人でもあった大賀宗伯。
宇佐八幡宮を創建した大神比義命の子孫で宇佐八幡宮内の弥勒寺学僧である神吽が、宇佐八幡宮の創祀以来の由緒・縁起・旧記・託宣の集成である、八幡宇佐宮御託宣集を23年の歳月を費やし正和二年(1313年)に完成させた。
光吉氏、幸弘氏、吉籐氏、十時氏、由布(油布)氏、三重氏、野津原氏、堅田氏、高野氏、松尾氏、吉藤氏、行弘氏、太田氏、板井氏、釘宮氏、上野氏、早稲田氏などが大神氏族であるという説もある。
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