![ジェイ・ケイ ジェイ・ケイ](/modules/owlapps_apps/img/nopic.jpg)
ジェイ・ケイ(出生名: Jason Luís Cheetham、1969年12月30日 4:00am - )はイギリスのシンガーソングライター。ジャミロクワイを率いて同バンドでの活動でグラミー賞を受賞しており、楽曲「ヴァーチャル・インサニティ」の成功が有名。20世紀最後の大物と言われた。
イングランド北西部のブラックバーンで一卵性双生児として生まれるが、兄デイヴィッドはへその緒が首に絡まって生まれた事による脳障害によって6週間で亡くなってしまった(この兄は、彼の初期の歌詞に頻繁に登場する)。
母カレン・ケイ(芸名)はジャズシンガーである。イギリス各地の劇場で歌ったり、BBCの深夜帯で自分の番組を持って既存のヒット曲やスタンダードナンバーをショー形式で歌ったり、さらにクイズ番組の回答者をするなど、テレビタレントでもあった。
実父ルイス・サライヴァはポルトガル人のギタリストであるが、両親が一緒に暮らすことはなかったため、ケイは33歳になるまで父親と面識はなかった。
母はケイを連れて劇場で仕事をしていたため、母の楽屋で過ごしたり、舞台裏を見たり、他のプロの歌手やダンサーがステージをこなす姿も見て育った。ごくたまに母がステージにケイを上げてくれる事もあり、一番小さい頃の記憶は赤ちゃんくらいの頃の事で、母の腕に抱かれながらたくさんの観客の前に出た光景を覚えているとのこと。幼児期に母の仕事場やライブツアーに付き添ったことによりステージセンスや音楽的素養が培われた。
幼少期に母がマービン・ケイという人物と一時期結婚していたため苗字がケイとなり、その時期は母と義父と共にマンチェスターに居住していた。メディアではマービンを「父」と呼ぶ事もあり、父はスピードの速い車が好きな人物だったそう。その後はラトランドのオークハム中学に通った。他にもサフォークやデヴォンで幼少期を過ごす。13歳の頃は母と母のマネージャーをしていたジェームス・ロイヤルと共に半年間タイに居住し、その後は一時期レスターシャーの寄宿学校に在学していた。
14歳頃ロンドン郊外のイーリングに引っ越し、アクトンにあるトワイフォード・チャーチ・オブ・イングランド高校に通うが、15歳で母親と喧嘩して家出してホームレスをする。生きていくために少々の軽犯罪を犯しながらホームレス生活をしていたが、ある日襲われて刺され、この時誤って逮捕されたが無実と分かり後に取り消され、退院後は母親の所に戻った。
15歳頃、住宅の上の階にドラムマシンやキーボードなどを持っているペルシャ系のアレムと言う友達ができ二人でギグにハマる。アレムはレコードや音響機器もいろいろ持っており、この頃よく一緒にデクスター・ワンセルの音楽を聴き、特にアルバム「What the world is coming to」は15歳のケイに非常に大きな音楽的影響を及ぼした。アレムとは成功後も交流があり、一緒にジャズバーに行ったり自宅音楽スタジオ(後述「不動産」参照)に遊びにきたこともある。
10代の頃は自宅付近の人通りの少ない小道で一人で歌の練習もしていた。スケートボードにもハマり、遊びでも移動手段としも毎日乗っていた。2001年の楽曲「ユー・ギヴ・ミー・サムシング」のミュージックビデオではスケートボードで360度スピンやチック・タックを披露している。
人生で初めて行った仕事はモヤシのパック詰めである。その他ピザの配達やヘロイン中毒者がいる化粧品工場で作業員をしたり、電話で意見を聞く市場調査員など様々なアルバイトをしながら生活し、そんな状況からの現実逃避のためにパブで飲む生活をしており、当時のアシッドジャズ、レア・グルーヴ・シーンの真っ只中のクラブ文化に居場所を見出す。1980年代後半のロンドンではハウスも流行り始めるが、ハウスは好きではなかった。
1986年、16歳の時そんな生活から抜け出すために歌うことで生きていこうと決め、作詞作曲をしてアレムと共にデモテープを送り始める。初めて人前でギグを披露したのはイーリングのパブ「The Haven (Haven Green 1番地にあったが現在は存在しない)」である。ナイトクラブ「Broadway Boulevard (High Street 11番地にあったが現在は存在しない)」でも披露した。
アレムは、同じ地区であるイーリングに事務所を構えるストリート・サウンズ社というレコード会社に知り合いがいたため売り込む事ができ、ケイが作詞作曲した楽曲「Natural Energy」が創業者のモーガン・カーンの耳に留まり発売される事になった。歌で生きていこうと決めてからわずか6週間後の事だった。レコーディングをし(スタジオはSpringbridge mews 9番地だったが現在は移転)、3枚だけホワイト・レーベル(サンプルのレコード盤)が作成され、バッファローマンのロゴを自分でラベル紙に描き(ジャミロクワイの「バンドロゴ」参照)、自分の声がレコードになっている事にとても興奮した。しかし3週間後に事務所に行ってみると社員が荷造りをしており、社長のモーガンがスウェーデンに引っ越したので事務所は閉めると言われデビュー話も立ち消えになってしまった。
この頃はイーリングのクラブに毎週末通い素人ながらステージに上がってダンスをした。当時のDJが後にテレビ番組に語った所によれば、ケイがステージに上がると盛り上がっためDJたちは意図的にそのままステージに上がらせておいた。ダンスが抜群に上手く観客に魅せるセンスがあり、130bpmのビートでもノンストップで30分とか1時間とかステージで踊って盛り上げていた。DJたちはケイはダンスが上手い少年だと思っていて、歌も上手いとは知らなかった。
他のオーディションも経験しており、デモテープが音楽プロデューサーのジャック・スティーブンの耳にとまり、ロンドンの大きなオフィスに通され曲を披露した。スティーブンは(ペルシャ人の外見をした)アレムが歌う所を見たがり、しかしアレムはギグ担当でありボーカルではなくデビューには至らなかった。
イーリング時代はイーリング・ブロードウェイ駅のケバブ店「ラロアッシュ」でよくチキンケバブを食べていた。この店は駅前のバス停の所にあり、チキンケバブは手頃価格のメニューとして現在も若い世代に人気である。
1991年、ブラン・ニュー・ヘヴィーズのマネージャーであるチュンジ・ウィリアムズ(ヤング・ディサイプルズのフェミ・ウィリアムズの弟)と出会いデモテープをアシッド・ジャズ・レコーズの創業者であり社長でもあるエディー・ピラーに気に入られ同レーベルからのデビュー、ジャミロクワイの構想へと扉を開いて行った。
2003年、レコード会社の計らいでタイにて実父と対面した。父はアル・パチーノに似ており、父と同じ髪の色、髪質、目の色であることをケイは誇りに思ったが、今後距離が縮まるかは不明とのこと。
2006年6月15日、ロシアのサンクトペテルブルクでコンサートをする。
2008年、推定資産4000万ポンドと報道された。
2022年、推定資産7000万ドルと報道された。
2023年6月26日、ケイが生まれた地の行政地区であるランカシャーにてコンサートを行った。2023年はジャミロクワイがソニーからデビューして30周年の年であることから(アシッド・ジャズ・レコーズから換算すると31年)、同市は1年前からケイと出演交渉をして実現したそう。
2023年11月、ケイのフィギュアが日本で先行発売された。他の国々では2024年1月19日に発売されると発表された。
ブレイクダンスやパントマイム、スケートボードなどに基づく独自のダンススタイルを持ち、ライブの高揚に合わせて非常に即興的に踊る。1997年MTV Video Music Awardsでは、「ヴァーチャル・インサニティ」のビデオにおいて本人が最優秀振付賞をとった。作曲過程では曲の全体像がまずイメージとして浮かび、すべての楽器に対して演奏してほしいメロディを歌って教えることでトラックを作り上げていくという。その上に乗せる歌唱はやはり随所において自由で即興的であり、ライブでは全身でバンドを指揮している。2017年初旬に2度脊柱の手術をしたためか、それ以後ダイナミックなダンスはない状況になった。
ヘビースモーカーで、スコッチ・ウィスキーを好んでいる。2010年になって、2003年までコカインを使用していたと本人が新聞に語った。この記事はスキャンダル記事ではなく、完全にコカインをやめており、音楽業界で活躍し続けているという報道である事に注意が必要。1990年代の歌詞にはコカインやマリファナを連想するフレーズがあるが、これらの楽曲はメジャーレーベルから販売されて何百万枚も売れており、90年代と今は社会状況が変わっている事も注意が必要である。
2017年の楽曲「Nights Out In The Jungle」は亡くなってしまったエイミー・ワインハウスへの共感を歌ったと語られた。嗜好だけでなく、超売れっ子歌手の孤独とプレッシャーなどの共感も含んでいるとのことである。
1998年からデニース・ヴァン・オウテンと交際しており、2000年のバレンタインに婚約したが、2001年1月頃に婚約を解消し別れた。デニースが出版した自伝によれば出会いのきっかけは1998年のF1のイギリスグランプリである。仕事のチャンスや将来の展望に違いもあり、また、最大の問題としてケイが薬物をやめられない事で別れてしまった。2001年のアルバム「ファンク・オデッセイ」はデニースに関する楽曲が複数含まれている。1999年の楽曲「Falling」もデニースのことであると語られた。
1996年はタムジン・グリーンヒル(当時はファッションモデル)と交際していたと本人が語った。2002年初旬ハイディ・クルムと、2002年後半はリサ・ブッチャーと、2003年はカイリー・ミノーグと、2005年はウィノナ・ライダーと、2006年から2007年はエイミー・ナッタルとの交際報道がある。
2006年から付き合いのある女性と、2017年までの間に既に結婚して娘二人がいる事を発表した(ジャミロクワイの2006年、2008年、2018年の出来事参照)。
楽曲
チャリティー
テレビドラマ
バラエティ番組
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