![ジェンナーロ・ガットゥーゾ ジェンナーロ・ガットゥーゾ](/modules/owlapps_apps/img/errorimg.png)
ジェンナーロ・イヴァン・ガットゥーゾ(Gennaro Ivan Gattuso, 1978年1月9日 - )は、イタリア・カラブリア州コリリアーノ・カーラブロ出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。元イタリア代表。現役時代のポジションはミッドフィールダー。守備的ミッドフィールダーやボランチの位置でプレーし、ボールを奪うチャージやタックルから「最強の潰し屋」や「闘犬」の異名をつけられていた。リーグアン・オリンピック・マルセイユの監督を務める。
イタリア半島の南東に位置するコリリアーノ・カーラブロに生まれる。父親は小さな会社を経営しながらカルチョとACミランを愛するという人物で、父親の影響を受けたガットゥーゾは幼い頃からボールを蹴り出し、12歳でカラブリア州のユース代表に選出された。当時から技巧派の選手ではなく、サルバトーレ・バーニが好きだったと語っている。同様にキャプテン翼に登場するキャラクターの中では石崎了が好きであったことを語っている。
1991年に当時セリエC1に所属していたボローニャから誘いを受けるが、これを断った。すぐさまペルージャからオファーが届き、結果的に故郷を離れてペルージャからプロへ駆け上がるという環境に身を置くことになった。
プリマヴェーラではスクデットを獲得し、U-18イタリア代表にも選出された。1995-96シーズンに17歳でセリエBながらプロデビュー。翌シーズンにクラブはセリエAに昇格し、ガットゥーゾも1996年12月22日にセリエAデビューを果たした。
その数カ月後の初春に、彼に人生最大の転機が訪れる。意外にもスコットランドの強豪レンジャーズが、当時、欧州サッカー界で議論を巻き起こしていたボスマン判決を利用する形で、ガットゥーゾの移籍金ゼロでの獲得に乗り出し、(ガットゥーゾ曰く)「現在の30倍近くの年俸を払う」と持ちかけた。当然ペルージャ側に手塩にかけて育てた逸材を手放す考えはなかったが、最後はガットゥーゾの意思で移籍が決まった。
移籍証明書の発行が遅れ、グラスゴーに赴いて2カ月間は出場不可であったが、1997-98シーズンからスターティングメンバーに名を列ね、巨躯なスコットランドの選手達に交じり、アイブロックスのピッチを駆け回る小柄なイタリア人は「ライノー(スコットランド人の「リーノ」の発音)」「ブレイヴハート」と呼ばれファンの心を掴んだ。計36試合に出場し7得点を挙げた。1998-99シーズンの途中に、イタリア復帰を突然表明した。当時セリエAに所属していたサレルニターナが獲得に乗り出し、1998年10月に移籍した。
ガットゥーゾ本人は現在でも「あの国のサッカーが僕の性格やプレースタイルには最も合っている」と明言している。またレンジャース退団に際して俳優のショーン・コネリーから残留する様に懇願されたと後に明かした。
セリエAに復帰したが、サレルニターナは最終節でセリエBに降格した。ガットゥーゾ自身は1998-99シーズン終了後にACミランへ移籍した。
2002年FIFAワールドカップ日韓大会出場。イタリア代表はベスト16。
2003-04シーズン、セリエA優勝。
2006年FIFAワールドカップドイツ大会出場。ブッフォン、カンナヴァーロ、ピルロ、トッティ、マテラッツィ、デル・ピエロらと共に24年ぶり4度目の優勝。
2008年12月、カターニア戦で前十字靭帯を損傷し、長期離脱。2009年5月13日のアルバニアとの親善試合で復帰した。
2010年、FIFAワールドカップ南アフリカ大会を最後に代表引退する事を表明。しかし、本大会では守護神のブッフォンが椎間板ヘルニアにより途中離脱。ピルロも負傷(3戦目に強行出場)など、キープレイヤーの不在も響き、イタリア代表は1敗2分と1勝もできずにグループリーグ敗退、自身も第3戦のスロバキア戦でスタメン出場するが、前半終了時にクリスティアン・マッジョと交代し、ベンチに退いた。
2011年9月、ラツィオ戦で途中交代後、長期離脱。10月に行われた会見で視神経のマヒによるものと発表された。2012年5月、2011-12シーズン限りでのミラン退団を公表した。
2012年6月、スイス・スーパーリーグのFCシオンへ移籍。2013年2月、解任されたビクトル・ムニョスの後任として選手兼任監督に就任したが、5月に解任された。
2013年6月、セリエBに降格したパレルモの監督に就任。だが同年9月、わずか6試合で解任された。
2014年6月、ギリシャ・スーパーリーグ・OFIクレタの監督に就任。10月26日、一度は辞任を表明したが、翌日に撤回した。だが12月に給与未払いなどを理由に再び辞任した。
2015年8月、レガ・プロ(イタリア3部)のピサの監督に就任。2015-16シーズンは好調を維持して、セリエB昇格プレーオフに進出、フォッジャ・カルチョとのプレーオフ決勝戦で2戦合計4-2で勝利し、チームを7年ぶりのセリエB昇格に導いたが、喜びも束の間、シーズン終了後に契約を巡ってファビオ・ペトローニ会長と衝突して2016年7月31日に辞任を発表した。しかし翌月にピサは中東の投資会社に買収され、新オーナーとなった投資会社はガットゥーゾの復帰に動き、2016年9月2日に復帰した。電撃復帰により迎えた2016-17シーズンはリーグ最少失点の36を誇りながら、得点数は23と攻撃陣が極度の不振に陥り、第40節でASチッタデッラに敗れるとわずか1年でレガ・プロ降格が決定し、シーズン終了後にガットゥーゾも退任した。
2017年5月26日、古巣ACミランのプリマヴェーラの監督就任が発表された。契約期間は2年間。
2017年11月27日、モンテッラの後任としてミランのトップチームの監督に昇格した。
2018-19シーズンは4位インテルに勝ち点1の差で及ばずCL出場権を逃し、2019年5月28日、退任が発表された。
2019年12月11日、SSCナポリの監督に就任したことが発表された。コッパ・イタリアでは決勝でユヴェントスをPK戦の末に破り、優勝に導き、指導者としてのキャリアをスタートして以降、初タイトルを獲得した。しかし、リーグ戦は奮わず、2019-20シーズンは7位で終了。2020-21シーズンも5位に終わり、同シーズン終了後に解任された。
2021年5月25日、ACFフィオレンティーナの監督に就任したことが発表された。しかし、選手補強を巡ってクラブ側と対立。結局1試合も指揮を執ることもなく、6月17日に双方の合意により退任したことが発表された。
2022年6月9日、バレンシアCFの監督に就任したことが発表された。契約期間は2024年6月までの2年間だったが、成績不振によりわずか半年ほどで契約解除となった。
2023年9月27日、オリンピック・マルセイユの監督に就任したことが発表された。しかし、2024年に入ると公式戦7試合未勝利など結果を残せず、わずか5か月ほどで解任となった。
国際Aマッチ 73試合 1得点(2000年-2010年)
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