![火野葦平 火野葦平](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/45/Hino_Ashihei.jpg/400px-Hino_Ashihei.jpg)
火野 葦平(ひの あしへい、1907年〈明治40年〉1月25日 - 1960年〈昭和35年〉1月24日)は、日本の昭和戦前・戦後期の小説家。本名:玉井 勝則。
早くから文学を志し、早大在学中『街』の創刊に参加。労働運動に参加するも検挙され転向した。日中戦争応召中に『糞尿譚』が芥川賞を受賞。次いで『麦と兵隊』以下3部作が評判を呼んで、兵隊作家としてマスコミの寵児となった。そのため、戦後は戦犯作家として指弾される。その後、筆力を揮って再び活躍したが、睡眠薬を用いて自殺した。
自伝的作品『花と竜』などに書かれているように、父・金五郎は現在の愛媛県松山市の出身、母・マンは現在の広島県庄原市の出身。
旧制小倉中学校(現福岡県立小倉高等学校)卒業、早稲田大学英文科中退。『糞尿譚』で芥川賞を受賞、その後の『麦と兵隊』は大きな評判をよび、『土と兵隊』『花と兵隊』とあわせた「兵隊3部作」は300万部を超えるベストセラーとなった。東京と福岡に本拠を二分し、東西を往復しての執筆活動で多忙を極めた。著述業と共に「玉井組」2代目も務める。
『麦と兵隊』など兵隊小説作家として知られるが、一方で河童の登場する作品が多く残る。その数、小説、随筆、童話などで100点を超えるという。芥川龍之介を敬愛しているが、芥川が「フィクションによってしか語れぬ事実がある」と、河童を通して社会を風刺したのに対し、葦平は「私の描く河童が理屈っぽく、風刺的に、教訓的になることを警戒していた」と書いている。また、「河童が私の文学の支柱であることになんの疑いもない」と書いている。
三男・玉井史太郎は、若松区にある旧宅を利用した記念館「河伯洞」(1999年1月に開館)の館長を務めていたが、2021年(令和3年)1月5日に病没した。
なお、妹の息子(火野の甥にあたる)は、ペシャワール会の医師中村哲である。
1907年(明治40年)1月25日、福岡県若松市(現在の北九州市若松区)新仲町(現在の白山1丁目旧大字修多羅すたらの一画)に玉井金太郎、マンの長男として出生。本名、勝則。父は、石炭仲仕玉井組の親方、ほかに弟二人、妹七人がある。1923年(大正12年)16歳、小倉の県立小倉中学校(現在の福岡県立小倉高等学校)四年を修了し、早稲田第一高等学院に入学。1926年(大正15年・昭和元年)19歳、4月、早大英文科に入学。中山省三郎・寺崎浩・田畑修一郎らと同人誌「街」を発行。1927年(昭和2年)20歳、7月詩誌「聖杯」を中山省三郎・五十嵐二郎らと刊行。1928年(昭和3年)21歳、2月、福岡歩兵24連隊に幹部候補生として入隊する。レーニンの訳本を発見され、一階級さげられ、伍長で12月除隊。父は玉井組を継がせようとし退学届を出す。文学書を売り払い、左翼関係書を耽読する。1929年(昭和4年)22歳、1月、出初式にはじめて玉井組の印半纏を着用し、「文学廃業」を知人に宣言する。1930年(昭和5年)23歳、8月、日比野良子と結婚。同年9月には長男闘志が生まれた。1931年(昭和6年)3月、若松港沖仲仕労働組合結成し、その書記長となる。8月、洞海湾荷役のゼネストを決行する。1932年(昭和7年)25歳、1月に上海事変勃発し、苦力のストライキがおこる。玉井組が代わって上海に派遣される。帰国後、特高に逮捕されたのを機に、日本共産党に疑惑を抱き、転向を決心し、文学への関心ふたたびたかまってくる。この年長女美絵子生まれる。1934年(昭和9年)27歳、10月、劉寒吉・岩下俊作らの詩誌「とらんしっと」に参加。第17号に火野葦助の名で、20号より火野葦平と改め、散文詩を寄稿する。この年、次男英気生まれる。1937年(昭和12年)30歳、10月「糞尿譚」(久留米の同人誌「文学会議」)を発表。9月日支事変のため10日に応召する。10月、杭州湾に敵前上陸し、12月、杭州に入城する。この年、三男史太郎生まれる。1938年(昭和13年)31歳、2月、「糞尿譚」により第六回芥川賞を受賞する。
芥川賞選考委員の川端康成は「少し大袈裟に云えば、大旱の雲を望むが如くで、その多少の欠陥は二の次とし、先ず喜んで「糞尿譚」を推した。」「芥川賞としては、火野君を選ぶのが面白いと考えたのである。優劣論ではない。」と選評している。
1938年(昭和13年)3月、小林秀雄(批評家)が「文藝春秋」特派員として中国に渡り、上海を経て27日、杭州で火野葦平に第六回芥川賞を渡す。小林秀雄は6月に明治大学教授に昇格した。
小林秀雄は「続いて火野伍長、S部隊長の挨拶があり式を終わった。いかにも陣中らしい真面目な素朴な式であった。僕は恐縮したが、嬉しかった。火野君も大変喜んでくれた。二人は直ぐ古くからの友達の様になった。火野君は見るから九州男児と言った面魂の、情熱的な眼つきをした沈着な男である。」と文章を残している。
直木三十五賞を受賞した古川薫は、少年時代の1939年(昭和14年)春ごろ、火野葦平が山口県宇部市の渡辺翁記念会館で講演したのを見にいっていた。「軍国の気風充満する戦時ではあったが、ひとりの下士官が軍装で演壇に立つ風景はやはりめずらしく、それが当時の火野さんの立場を象徴していた。」「今にして思うと、火野さんは軍から「人寄せパンダ」よろしく、目いっぱい利用された「悲しき兵隊」だったのだ。」と解説している。
その後、報道部へ転属となり、軍部との連携を深めた。攻略直後の南京に入り、それに至る進撃路において捕虜が全員殺害される様子を手紙に書いている。
戦闘渦中の兵隊の生々しい人間性を描いた。戦地から送った1938年の徐州会戦の従軍記『麦と兵隊』が評判を得て人気作家となる。『麦と兵隊』は英訳され、それを読んだパール・バックも賞賛した。
1939年11月に退役して帰国。やはり従軍していた中野実ら従軍芸術家と「文化報国会」を結成。帰還後も「兵隊作家」ともてはやされた。
1941年(昭和16年)には大連、旅順、奉天、新京、ハルピン、ハイラル、チチハル、黒河など各地に赴いている。
太平洋戦争勃発後、翌1942年(昭和17年)に白紙徴用されフィリピンに上陸してバターン作戦に従軍。前年11月から比島派遣渡集団報道班員としてフィリピンに入っていた向井潤吉(向井は1940年12月から朝日新聞で連載された火野の小説「美しき地図」の挿絵を担当していた)と報道班員としてともに行動し親交を深めた。そこからマニラに帰った火野はデング熱で陸軍病院に入院したが、高熱をおしてバターン戦記「兵隊の地図」を脱稿した。
1944年(昭和19年)4月、大本営は特別報道班員派遣を企画し、文壇から火野葦平、画壇から宮本三郎、楽壇から古関裕而を指名していたが、宮本が出発前日に急病となったため向井潤吉に急遽交代することとなった。ラングーン到着後、火野と向井は先に現地の様子を見に行くことになったが、7月4日に大本営はインパール作戦の中止を発表したため、二人はライマナイから撤退してマンダレーで古関と合流。その後、火野は雲南省で郷土部隊である通称「菊兵団」を訪問した後、9月3日に帰国した。
ペン部隊の一員としてフィリピンに渡った際には捕虜の再教育に尽力する一方、ビルマに渡った際にはインパール作戦を通じた負け戦に直面。現地の惨憺たる状況を記録に残している。
戦後、1948年(昭和23年)6月25日から1950年(昭和25年)10月13日まで文筆家追放指定を受けた。追放解除後も、若松の「河伯洞」と東京の「鈍魚庵」を飛行機で往復するなど活動し、九州男児の苛烈な生き方を描いた自伝的長編『花と竜』や、自らの戦争責任に言及した『革命前後』など、数多くの作品によって文学的力量を発揮し、再び流行作家となった。
1953年3月はじめに、河伯洞を河童の漫画で知られる清水崑が出版社の編集者と一緒に訪れた。清水が『河童』の装丁を描くことになり、打ち合わせのための訪問だった。その場で2人は意気投合したという。
1960年(昭和35年)1月24日、若松市の自宅「河伯洞」の書斎で死去した。命日は戸籍上の誕生日の前日だった。戸籍基準なら満52歳、実際の誕生日を基準とすると満53歳没となる。戒名は文徳院遊誉勝道葦平居士。晩年は健康を害していたこともあり、最初は心臓発作と言われたが、死の直前の行動などを不審に思った友人が家を調べると、「HEALTH MEMO」というノートが発見された。そこには、「死にます、芥川龍之介とは違うかもしれないが、或る漠然とした不安のために。すみません。おゆるしください、さようなら」と書かれていたという。その結果、睡眠薬自殺と判明した。このことは、1972年3月1日、13回忌の際に遺族によりマスコミを通じて公表され、社会に衝撃を与えた。その時、ニュースで報じた告別式の映像が九州朝日放送(KBC)の映像資料として現在も保管されている。
1960年5月、『革命前後』および生前の業績により日本芸術院賞を受賞した。
若松区白山1丁目にある火野が生涯の大半を過ごした建物。建物は和風の母屋と、葦平が執筆活動をしていた書斎を含む棟焼きのモルタル造りの洋風部分(増築)とで構成されている。建物の名前は、葦平の河童好きから由来しており河童の住む家という意味で名付けられた。文化財公開施設として一般に公開されている。
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