![コンピュータゲームの歴史 コンピュータゲームの歴史](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b0/Consoles-computerspielemuseum.jpg/400px-Consoles-computerspielemuseum.jpg)
コンピュータゲームの歴史(コンピュータゲームのれきし)では、これまでのコンピュータゲーム関連の主な出来事を記す。コンピュータ囲碁/コンピュータ将棋/コンピュータチェスについては各リンク先で詳述する。
ゲーム機、アーケードゲーム、コンシューマーゲーム、携帯型ゲーム、日本におけるゲーム機戦争、パソコンゲーム、パーソナルコンピュータ史、携帯電話ゲーム、クラウドゲーム
1912年、スペインの技術者レオナルド・トーレス・ケベードが、チェスのオートマタ『エル・アヘドレシスタ』を発明した。自動でエンドゲームを行う装置で、歴史上最古のコンピュータゲームと考えられている。
1939年、ニューヨーク万博でエドワード・コンドンがニムのコンピュータゲーム『Nimatron』を展示した。
1947年、en:Thomas T. Goldsmith Jr.とen:Estle Ray Mannが『陰極線管娯楽装置』を発明し、翌1948年に特許を取得した。
1950年、カナダで開催されたen:Canadian National Exhibitionでen:Josef Katesが三目並べ(○×ゲーム)のコンピュータゲーム『en:Bertie the Brain』を展示した。同時期にクリストファー・ストレイチーがチェッカーのプログラムを開発した。
1951年、イギリスで開催されたen:Festival of Britainでフェランティ社がニムのコンピュータゲーム『Nimrod』を展示した。
1952年、ケンブリッジ大学のEDSACで、同大学の大学院生であったアレキサンダー・ダグラスが三目並べのコンピュータゲーム『OXO』を開発した。
1958年、ブルックヘブン国立研究所のウィリアム・ヒギンボーサムがテニスの試合をシミュレートするコンピュータゲーム『Tennis for Two』を開発した。リアルタイムインタラクティブ性のあるゲームであり、学術研究ではなく純粋に楽しませるために作成された最初のコンピュータゲームであるため、いくつかの定義において『Tennis for Two』は最初のコンピュータゲームとされる。
1962年、マサチューセッツ工科大学の学生であったスティーブ・ラッセルを中心に、DECのミニコンピュータ「PDP-1」上で『スペースウォー!』を発表。アメリカ中の「PDP-1」に広がり、多数の派生版を生み出した。複数のコンピュータでプレイされた最初のコンピュータゲームである。
1971年、ノーラン・ブッシュネルが『スペースウォー!』をヒントに世界初のアーケードゲーム『コンピュータースペース』を製作・発売した。
1972年、ラルフ・ベアがマグナボックスから世界初の家庭用ゲーム機「オデッセイ」を発表。オデッセイのデモンストレーションを見たノーラン・ブッシュネルは同年にアタリを創業し、オデッセイのテーブルテニスを模倣したアーケードゲーム『ポン』を発売。商業的に大成功を収め、翌年の1973年以降、『ポン』のコピー品、類似品を販売した企業が多く現れた。
1975年、アタリは家庭用ゲーム機『ホーム・ポン』を発売し、大ヒットとなった。『ポン』はゲーム市場を開拓し、アメリカ、ヨーロッパ、日本でコピーゲームが販売され、多くの競合他社が参入するきっかけとなった。
1974年、テーブルトークRPG『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(略称:D&D)が発売。世界初のロールプレイングゲームであり、D&Dを元にしたコンピュータゲームが多数作られた。初期のコンピュータRPGである『dnd』や、『ダンジョン』にも多大な影響を与えた。
1978年、日本ではタイトーが『スペースインベーダー』を発売。喫茶店を中心にテーブル型の筐体が出荷され、社会的な大ブームとなった。「インベーダーハウス」と呼ばれる、スペースインベーダーを並べた施設も人気を博した。一方でインベーダーブームは多くの犯罪のきっかけとなり、1979年6月からの取り締まり強化やマスコミによる報道によりブームは沈静化していった(スペースインベーダー#ヒットと社会現象も参照)。
1976年、フェアチャイルドが史上初のロムカートリッジ式家庭用ゲーム機「チャンネルF」を発売。1977年にはアタリが「Video Computer System」(通称「Atari VCS」、後に「Atari 2600」に改称)を発売。Atari VCSにより、アメリカの家庭用ゲーム機産業は大きく成長したが、1982年末のクリスマスシーズンに大幅な値崩れを起こし、翌年の1983年には家庭用ゲーム機市場がほぼ消失してしまう。アタリが『パックマン』や『E.T.』を大ヒットを見込んで大量に注文・生産し、大量の売れ残り在庫を抱えたことが原因といわれている(アタリショックを参照)。
1978年、『スペースインベーダー』が発売され、日本とアメリカの両方で商業的な成功を収めた。スペースインベーダーは、「アーケードゲームの黄金時代」のきっかけとなり、その後、多くのシューティング・アーケードゲームが開発された。1980年、『パックマン』が大ヒット。パックマンは最も成功したアーケードゲームであり、北米の大衆文化に多大な影響を与えた。1983年頃から家庭用ゲーム機の台頭や、クローンゲームの氾濫により、ブームは下火となったが、一部のゲームはブーム衰退後も人気を維持した。
1980年、任天堂が携帯型ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」を発売。ソフト内蔵の電子ゲームで、多くのタイトルが発売された。全世界で合計4,340万台を売り上げ、任天堂のゲーム機として初の世界的大ヒットとなった。ゲーム&ウオッチのヒットにより、他社から多数の電子ゲームが発売され、流行した。
1981年に発売されたエポック社のロムカセット式家庭用ゲーム機「カセットビジョン」の成功で1983年には多くのロムカセット式ゲーム機が発売された。その中で任天堂の「ファミリーコンピュータ」(ファミコン)が大ヒットし、急激にシェアを拡大した。1984年から多数のサードパーティが参入し、エニックスの『ドラゴンクエスト』シリーズは社会現象として多くのマスメディアで取り上げられた。1985年から、ファミコンは「Nintendo Entertainment System」(NES)として日本国外で発売された。NESはアタリショックで衰退した北米の家庭用ゲーム機市場で圧倒的シェアを占めた。
日本電気(NEC)、富士通、シャープの3社がパーソナルコンピュータ市場でシェア競争を繰り広げた(8ビット御三家を参照)。1983年、アスキーとマイクロソフトがパソコンの共通規格「MSX」を発表。多くの日本の電気機器メーカーが参画した。MSXは多数のゲームソフトが発売されたこともあり、ファミコンなどの家庭用ゲーム機と比較され、競合した。
多くのゲーム雑誌が創刊された。パソコンゲームでは『マイコンBASICマガジン』(電波新聞社)、『月刊ログイン』(アスキー)、『コンプティーク』(角川書店)、家庭用ゲーム機では『Beep』、『ファミリーコンピュータMagazine』(徳間書店)、『ファミコン通信』(アスキー)、『ファミコン必勝本』(JICC出版局)、『マル勝ファミコン』(角川書店)、アーケードゲームでは『ゲーメスト』が創刊された。
1985年、『スーパーマリオブラザーズ完全攻略本』(徳間書店)が120万部のミリオンセラーとなり、書籍ベストセラーの1位となる。さらに翌1986年も1位となる。
子供向け漫画雑誌『コロコロコミック』が1985年にハドソンと提携し開催した全国キャラバンで当時ハドソン所属の高橋名人が「16連射」を披露し、ファミコン名人として子供たちを中心に一世を風靡した。
ファミコンの次世代ゲーム機としてPCエンジン(1987年、ハドソン・NECホームエレクトロニクス)とメガドライブ(1988年、セガ)が発売された。
1981年にIBMが「IBM Personal Computer」(型番5150)を発売。1983年に後継機である「PC/XT」、1984年に「PC/AT」を発売し、IBMのブランド力により米国市場を席巻した。IBM PCシリーズは汎用的な部品を採用し、オープンアーキテクチャであったため、IBM PCクローン機を販売するベンダーが多数登場し、1980年代以降、PC/AT互換機はパーソナルコンピュータのデファクトスタンダードとなった。1995年にマイクロソフトから『Windows95』が発売され、一般的なPC利用者にとっても、World Wide Webなどが容易に利用できるユーザー環境が拡大し、企業や研究者のものだったインターネットが爆発的に普及した。
1989年、任天堂が携帯型ゲーム機「ゲームボーイ」(GB)を発売。同年に発売された『テトリス』が大ヒットし、出荷台数を牽引した。1996年に『ポケットモンスター 赤・緑』が社会現象となり、市場が再活性化した。1996年に「ゲームボーイポケット」、1998年に「ゲームボーイカラー」が発売され、ゲームボーイシリーズは任天堂のゲーム機として初めて世界累計で1億台を売り上げた。
1994年にセガサターン(セガ)とPlayStation(SCE)が発売。同時期に多くの高性能ゲーム機が発売されたことから、次世代ゲーム機戦争と呼ばれた(日本におけるゲーム機戦争を参照)。
SCEはPSのソフト媒体としてCD-ROMを採用した。CD-ROMはロムカセットよりも短期間で製造できることからSMEの流通網を使い、在庫を少なく維持し、リピート発注によりゲームソフトを流通させた。この流通方法は過剰在庫、品切れを防ぐ狙いがあった。さらにSCEは大幅な値引き、投げ売りを問題視し、「値引き販売禁止(再販売価格維持)」「中古品売買禁止」「(同業他社への)在庫横流し禁止」を小売店に要請した。デジキューブのコンビニ流通やコナミなど大手サードパーティーの自主流通の登場と公正取引委員会による独占禁止法違反疑惑により、SCEは流通への支配力を徐々に失った。SCEは1998年1月、小売業者及び卸売業者の事業活動を制限した事実が認められたとして、独禁法違反で排除勧告を受けた。
CESAなどが合同でゲームソフトの中古売買は違法だと大々的に主張し、1998年に裁判を起こした(いわゆる中古ゲームソフト裁判)。2002年に最高裁判所は、メーカー側の上告を全て棄却し、中古ゲームソフトの売買は合法であると認められた(テレビゲームソフトウェア流通協会を参照)。
1996年に発売された電子ゲーム「たまごっち」(バンダイ)が大ヒットした。同年に発売した「テトリン55」(ゲームテック)と共にキーホルダー型の電子ゲームが流行し、バンダイは1997年にたまごっちの亜流シリーズとして「デジタルモンスター」を発売した。1998年の「ポケットピカチュウ」(任天堂)など、歩数計機能を備えた電子ゲームが人気を博したほか、メモリーカードに液晶とボタンを搭載し、家庭用ゲーム機と連携できる「ビジュアルメモリ」(セガ)、「PocketStation」(SCE)も発売された。
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