![サム・マクダウェル サム・マクダウェル](/modules/owlapps_apps/img/nopic.jpg)
サミュエル・エドワード・マクダウェル(Samuel Edward McDowell, 1942年9月21日 - )は、MLBの元選手。ポジションは投手。アメリカ合衆国ペンシルベニア州ピッツバーグ出身。ニックネームは「Sudden Sam」。
1960年にクリーブランド・インディアンスと契約。1961年9月15日のミネソタ・ツインズ戦でメジャーデビュー。1963年4月16日のワシントン・セネターズ戦で7四球を与えながら2安打13奪三振でメジャー初完封。1964年はAAA級で8勝・防御率1.18・102奪三振・5完封の好成績を挙げてメジャーに昇格し、そのまま定着。終盤に7連勝を記録するなど11勝6敗・防御率2.70・177奪三振・100四球を記録した。1965年は前半戦で9勝6敗・防御率2.18・164奪三振を記録し、オールスターゲームに初選出される。9月4日のボルチモア・オリオールズ戦では10イニングを16奪三振で無失点に抑えた。17勝11敗・防御率2.18・325奪三振の成績で最優秀防御率・最多奪三振を獲得する一方で、リーグワーストの132四球・17暴投の荒れ球ぶりだった。1966年は初の開幕投手を務め、4月25日のカンザスシティ・アスレティックス戦、5月1日のシカゴ・ホワイトソックス戦では2試合連続で1安打完封勝利を挙げる。9勝8敗に留まるが、共にリーグトップの225奪三振・5完封を記録した。1967年はいずれもリーグワーストの123四球・101自責点・18暴投と今ひとつの成績に終わる。1968年は5月1日のアスレティックス戦で16奪三振で無四球完封勝利を挙げ、その試合を含めて2試合で30奪三振、3試合で40奪三振のメジャー記録を樹立。7月1日から7月12日にかけても3試合で40奪三振を記録した。15勝14敗と勝利数は伸びなかったが、チームメイトのルイス・ティアントに次ぐリーグ2位の防御率1.81、リーグトップの283奪三振の好成績を挙げた。1969年は前半戦で7連勝を記録。18勝14敗・防御率2.94・279奪三振の成績だった。1970年は6月2日のミルウォーキー・ブルワーズ戦で7回までノーヒットに抑えるなど前半戦で13勝4敗・防御率2.63・183奪三振を記録。20勝12敗・防御率2.92、いずれもリーグ最多の304奪三振・305.0イニング・131四球・17暴投の成績で、サイ・ヤング賞の投票ではジム・ペリー、デーブ・マクナリーに次ぐ3位で、10ポイント差で受賞を逃した。1971年は制球難に陥り開幕から4連敗を喫する。その後6連勝して持ち直すが、終盤で負けが込んで13勝17敗・192奪三振、8年連続100四球でキャリアワーストの153四球に終わり、連続200奪三振も6年で途切れた。11月29日にゲイロード・ペリー他1選手との交換トレードでサンフランシスコ・ジャイアンツに移籍。
1972年は開幕から5連勝を記録するがその後不調に陥り、7月から1ヶ月半離脱するなど10勝8敗・防御率4.33と不本意な成績に終わった。1973年はリリーフに回り、6月7日にニューヨーク・ヤンキースに移籍。
移籍後は先発に戻り、最初の6試合で5勝を挙げるがその後7連敗を喫し、6勝10敗に終わる。1974年は1勝6敗と振るわず、12月20日に解雇された。1975年4月2日に故郷のピッツバーグ・パイレーツと契約。主にリリーフとしての起用で、防御率2.86を記録したが6月26日に解雇され、32歳で現役引退。
身長196cm・体重100kg近い体格の大型左腕で、95mph以上はあったと言われる速球を武器に多くの三振を奪う一方で、8年連続100四球を記録する荒れ球ぶりだった。趣味は絵を描くことでコマーシャルアートも手掛けた。しかし最も好きだったのがアルコールで、それが成長を阻んだ。
投手としての球種はハードカーブ、スライダー、チェンジアップ(米書 「guide to pitchers」より)
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