![東中野 (八王子市) 東中野 (八王子市)](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fb/Chuo-Daigaku-Meisei-Daigaku-Station.jpg/400px-Chuo-Daigaku-Meisei-Daigaku-Station.jpg)
東中野(ひがしなかの)は、東京都八王子市の地名。住居表示未実施区域。郵便番号は192-0351(八王子南郵便局管区)。
東京都八王子市の南部に位置する地域。東で大塚、南で松が谷、別所、西で堀之内、北で日野市程久保と隣接する。多摩ニュータウン建設に伴う開発が行われた南部はすでに市街地化している一方、建設区域から外れた北部は開発が進まず、山林が多く残されているほか、畑作や稲作も盛んであり、今でも昔ながらの多摩の農村の景観が残されている。多摩丘陵の一角に位置し、土地の起伏が大きく、谷戸も多くみられる。湧水や地下水も豊富であり、かつてはこの水を利用した酒造業も盛んにおこなわれていた。
多摩丘陵周辺は水が豊かであったこともあり、人の定住も早く、東中野からも縄文時代早期のものをはじめ、多くの遺跡が発掘されている。 平安時代は船木田荘に属していたといわれ、室町時代になると大石氏の支配下に入る。大石氏の没落後は後北条氏の支配下に組み込まれた。
1870年、元新撰組隊士の斎藤一諾斎が金住院の住職となり、漢学や習字などの教育を行った。斎藤のもとには中野村からはもとより、大塚村、堀之内村、和田村など周辺の村々の子弟も集まり教育を受けた。このことが中野村や周辺地域における教育熱を高めたほか、大沢信重(のちの由木村長・南多摩郡会議員)、井上隆治(のちの由木村長)、林副重(のちの東京府会議員・大塚村)、柚木芳三郎(和田村)など、多摩地域における自由民権運動において指導的立場にあった人材を輩出することとなった。
中野村(東中野)の開闢は定かではないが、天正年間に行われた太閤検地の記録にその名が見られるので、少なくとも安土桃山時代にはすでに存在していたと考えられる。
江戸時代以前は中野村と称していたが、多摩郡小宮領にも同名の中野村(現・八王子市中野町、中野山王、中野上町、暁町)があり、1882年(明治15年)、小宮領の中野村が西中野村としたのに対して、東中野村と改称した。(小宮領の中野村から見て東に位置している。)
東中野では、江戸時代の「小名」と呼ばれる地域集団の単位をそのまま引き継いでいる。現在の町内会の地区の単位も小字ごとの3地区に区分されている。
東中野では1875年(明治8年)の地租改正に合わせて字が再編されたが、その際「一号」 - 「二十九号」という数字が付与されただけの名称に変更された。
字の再編に伴い廃止された旧字の名称なども、現在でも住民の間で慣習的に使用されているものは多い。
大谷戸、天野谷戸、松木谷戸、小池、竹ノ内、開戸、下田、申酉谷戸、荒田、竹ノ花、釜ノ入、茶堂、下ノ川、東ノ前、瀬場川、天野前、ユブメキ、樋越前、内田前など
1822年(文政5年)、中野村(現:東中野)に住んでいた8歳の小谷田勝五郎という少年が「自分はもとは程久保村(現日野市程久保)の藤蔵という子どもで、6歳の時に疱瘡で亡くなった」と言い、あの世に行ってから生まれ変わるまでのことを語ったという話。当時大騒ぎとなり、話は江戸まで知れわたり、平田篤胤は勝五郎を自分の屋敷に招き、聞き取った内容を『勝五郎再生記聞』という書物にまとめている。また、小泉八雲も、随想集『仏の畠の落穂』に「勝五郎の転生」を著し、ロンドンとボストンで発売した。
2017年(平成29年)12月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである。
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。
大正末期から昭和初期にかけて由木村の有力者によって南津電気鉄道の敷設が計画され、東中野には由木中野駅が建設されることが予定されていた。しかし昭和恐慌による生糸価格の暴落とその後の混乱により計画は頓挫して未成線に終わり、実際に開業されることはなかった。
中大西門(多摩センター駅行のみ停車)・中央大学・谷津入・東中野・天野・中大隧道・明星大学南・陽光台入口・向山緑地・由木ヶ丘公園の10か所のバス停がある。東中野にバス路線が開通したのは、1951年の八王子 - 由木 - 関戸線(京王バス)が最初である。次いで京王バスにより1955年には府中 - 由木 - 橋本線が、1960年には関戸 - 由木 - 相模原線が開通する。その後も新設・廃止・再編を繰り返し、2020年現在東中野を通行するバス路線は以下の通りである。
かつては他に秋葉神社、稲荷神社、第六天神社、住吉神社、山の神神社があったとされるが、明治期に熊野神社に合祀されたといわれている。
かつては金住院という寺があり、斎藤一諾斎が住職を務めていたというが、明治初期に廃寺なった。
東中野村は1889年(明治22年)、周辺10ヶ村と合併し由木村となるが、初代村長は東中野出身の大沢信重(任期:1889年(明治22年) - 1897年(明治30年))であった。1897年には2代村長として、やはり東中野出身の井上隆治(任期:1897年(明治30年) - 1898年(明治31年)・1899年(明治32年) - 1903年(明治36年))が就任。その後も金子喜造(任期:1940年(昭和15年) - 1942年(昭和17年))、小谷田弥市(任期:1942年(昭和17年) - 1944年(昭和19年))、大沢昌敏(任期:1949年(昭和24年) - 1953年(昭和28年))と続き、由木村の11の大字のうち最多の人数の村長を輩出した。
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