菅原 洋一(すがわら よういち、1933年(昭和8年)8月21日 - )は、日本の男性歌手。兵庫県加古川市出身。兵庫県立加古川東高等学校卒業。国立音楽大学大学院修了。徳間ジャパンコミュニケーションズ所属。所属事務所はミュージック・オフィス合田、個人事務所はスガワラ企画。 2016年の時点で、株式会社ハイブリッジと業務提携していた。
生家は、加古川市内の寺家町商店街にあった若松屋という商家で、乾物から棺桶まで扱っていた。実母は歌の上手な人だったが、菅原を生んで間もない頃に亡くなり、物心がつく前に父親が再婚し継母と暮らし始めた。菅原は子供の頃、ラジオから流れる流行歌を覚えて、従業員の休み時間に家の中で歌っていた。周りの大人たちに歌声を褒められたが、この頃は特にプロの歌手になりたいとは思っていなかった。
実は小学生の頃まで継母を実母と思って暮らしており、中学1年生のある日親戚の女性から生まれてすぐに実母が亡くなった事実を知らされた。しかし、父も義母もそんなことを微塵も感じさせずに育ててくれたことから、両親にはそれまで通りの態度で接し続けた。この頃、ラジオから流れてきた「黄昏」という曲を聴いて心が震え、これが菅原にとってタンゴとの運命的な出会いとなった。
中学生の頃は体が弱かったこともあり風邪をこじらせて、一時心臓や腎臓を悪くした。しばらく学校を欠席した影響で数学の成績が悪くなり、以前から音楽に興味があったことも相まって、数学とは無縁の音楽系大学への進学を目指すようになる。本人によると、田舎町だったこともあり音大受験のための学校がなく、高校進学後は独学で音楽を勉強した。
志望校を国立音楽大学に決め、課題である声楽(『マルタ』というオペラのアリア)と、ピアノ曲『乙女の祈り』を練習した。入試当日、ピアノ演奏が途中で止まってしまい諦めかけたが、思いがけず合格した。後に本人が聞いた話によると、試験官の先生の中に「声質はいいし、面白そうだから入れてやろうよ」との意見が出たことで合格になったとのこと。
同大学声楽専攻科入学後は、関種子に師事。本心ではタンゴを習いたかったが、同大学では当時軽音楽の類を勉強するのが禁止だったため、密かにタンゴのレコードを聞いたり、タンゴ喫茶に足繁く通うことで欲求不満を解消した。また、スペイン語(タンゴで有名なアルゼンチンの言語)とイタリア語が似ていることからこれを隠れ蓑に、関に「イタリア音楽を勉強したい」と告げ、イタリア歌曲やカンツォーネを歌うことでタンゴの下地を作った。
大学4年生になった頃、まだまだ音楽を勉強したいとの思いから、国立音楽大学大学院声楽専攻に進学。この頃からタンゴ喫茶のステージで歌わせてもらったり、後日関の紹介で知り合った服部良一のコンサートにも出始める。正式に服部の弟子となった後、いくつかのレコード会社の口利きをしてもらうが、中々所属先が決まらない日々を過ごす。
先述のタンゴバンド「早川真平とオルケスタ・ティピカ東京」での歌手デビューを経て、ポリドールからソロ歌手としてレコードデビュー。『知りたくないの』の発売後、札幌のダンスホールや銀座のクラブホステスの間で徐々に人気が出始め、その後大ヒットに繋がった。菅原が後に聞いた話では、所属先から「売れない歌手の君を、このレコードを最後にクビにするつもりだった」と打ち明けられ、同曲がヒットしたことで契約を打ち切られずに済んだとのこと。
家族は妻の菅原明美(旧姓・平井明美。1962年11月17日、東京・銀座の東京都中小企業会館にて菅原洋一と挙式。)、長女の菅原歌織、長男のピアニストである菅原英介。
歌織は、成蹊中学校・高等学校を経て、成蹊大学文学部英米文学科を卒業。成蹊大学在学中の学生時代には、フジテレビ「オールスター家族対抗歌合戦」のアシスタント(1984年7月~1986年3月)を務めた。成蹊大学を卒業後はソニーに入社。1993年の結婚を機にソニーを退職,高瀬姓となる。
英介は、幼い頃から菅原の影響を受けて音楽に興味を持ち、高校卒業後単身で渡米。現在(2016年頃)は作業療法士として働きながら作曲・演奏活動を行っている。他にも菅原と演奏会で共演したり、デュエット・アルバム(アルバムの欄を参照)を発表している。
菅原と妻との出会いは菅原が歌手デビュー前にタンゴ喫茶のステージで歌っていた頃、たまたま人に付き添って来店した妻(当時、女子大生)と親しくなりその後結婚。ただし菅原が売れない歌手だったことから、両家の親から反対されたため駆け落ち同然で結婚し、しばらくは六畳一間の部屋で夫婦で貧乏生活を送った。
ちなみに菅原姓について菅原は、「昔僕が家族(父親など)から聞かされた話」として以下のように証言している。「菅原の姓は、大昔に政争に破れた菅原道真が京都から太宰府に下向する際、たまたまうちの先祖が自宅(現在の加古川市)で長期間宿を提供した。旅立つ前に道真公から大変感謝された先祖は菅原姓を拝領し、それから菅原姓を名乗るようになったそうです。本当の話かは分からないですけど、とりあえず僕は信じています」。
「生涯現役」をモットーにしている。加齢により普段の話し声はかすれることもあるが、本人は「歌う時は、声の出し方が違うため大丈夫」としている。
趣味は、写真、ドライブ。普通自動車第一種免許と4級小型船舶免許を所有している。
ニュークラシカルコンサートとは、円熟味を増した菅原の「歌声をいかにお楽しみいただくか」に拘り、敢えてクラシックスタイルに立ったコンサート。 最小限の音飾で「生の歌声と生音の演奏」が中心。菅原自身もライフワークと語るこの新しいコンサートスタイルを全国クラシックホールを中心に展開している。このコンサートのスタジオ録音盤というべきアルバムもリリースしている。
菅原は1988年の第39回まで、連続22回出場。その年にヒット、または話題になった洋楽などを披露することが多くあった。
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