![太田耐造 太田耐造](/modules/owlapps_apps/img/nopic.jpg)
太田 耐造(おおた たいぞう、1903年(明治36年)5月16日 - 1956年(昭和31年)3月21日)は、日本の検察官、司法官僚、弁護士。
東京出身。東京帝国大学法学部卒業。
東京地方裁判所検事、司法省刑事局第六課長、司法省会計課長、甲府地方裁判所検事正、満州国司法部刑事司長を歴任し、1944年、大審院検事となった。この間、1941年の治安維持法改正に関わり、予防拘禁制を立案。国防保安法立法化も手がけた。また、ゾルゲ事件捜査に関わった。
戦後は公職追放を受け、弁護士を開業した。
塩野季彦を頂点とする思想検事の主流「塩野閥」において、佐藤祥樹、岸本義広、佐野茂樹とともに「塩野閥四天王」のひとりに数えられたといわれる。
占領期が終わる逆コースで、1951年秋に辻宣夫、小島玄之、松下喜太郎、柏木勇、三田村武夫らが、近代的な反共主義運動を起こすため創設した「日本青少年善導協会」の世話人として、有馬頼寧、丸山鶴吉、吉田茂、後藤隆之助、安倍源基、鹿内信隆とともに迎えられた。
1952年7月、法律雑誌『ジュリスト』に治安維持法に関する論文を発表。日本共産党スパイ査問事件について言及し、「被害者大泉兼蔵、小畑達夫は警視庁のスパイであった。」「起訴された後予審において大泉は、自分が警視庁のスパイであることを自白したが、検察側は、このようなスパイ政策を容認していなかったので、これに対して断乎たる態度で臨んだ。」「小畑は撲殺された」等と述べた。
1972年『太田耐造追想録』が同刊行会により出版された。
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