材木町(ざいもくちょう)は、愛知県岡崎市の町名。現行行政地名は材木町1丁目から材木町3丁目。
岡崎市の西部に位置し、中心街の一角に相応する。36個の番地と丁目が南から順に1丁目~3丁目ある。なお小字は持たない。
2019年(令和元年)5月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである。
国勢調査による人口の推移
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。
額田郡岡崎材木町を前身とする。
材木町の地名の由来は材木問屋が軒を並べていたからではない。ただ、明確にされているわけではなく、次の説がよくいわれている。岡崎の城下町を整備した岡崎城主田中吉政が、町家を建築する材木を伐り出した場所から由来するという説がある。また城下町整備以前の岡崎中心部は幽邃とした密林で、材木町の地にあったという天神山の材木をすべて伐採して、まずこの場所に積んで置いたため「木町」と称したという説もある。なお天神山はすべて取り崩して平地にし、その土砂で岡崎城西側にあったとされる沼沢を埋め立てて田町などの町を造ったという。
岡崎城下における職人は鍛冶屋の数が多かった。享保年間頃では、大工など他の職人の中でも数が最も多い。とくに材木町の通りは際立っている。材木町の通り沿いに鍛冶職人が大勢集住したのは、岡崎城主田中吉政や、その次の本多康重が城下町づくりの一環として材木町の東にあったとされる久後切という地域に鍛冶職人を集住させたことにはじまる。材木町の通り沿いにはほかに大工職人・指物師・桶職人など、ほかにもさまざまな職人が居住していた。いわば総合的な職人町を形成していたのである。
明治期に入ると鍛冶屋は激減。替わって菓子製造業が増えた。当時、名古屋を除けば、材木町界隈は東海一の菓子の町と呼ばれた。そんな職人気質の雰囲気が強かった材木町も、1945年7月20日に岡崎空襲を受け町の東部が消失した。
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