新田神社(にったじんじゃ)は、東京都大田区矢口にある神社である。創建は南北朝時代正平・延文年間。旧社格は府社。
祭神は贈従三位左兵衛佐源朝臣新田義興公。
新田義貞の次男であり、元服に際して後醍醐天皇に「誠に武勇が器用である。義貞の家を興すべき人なり」として義興の名を給るほど無類の勇将であり(太平記に「怪しき程の勇者」とある)、南朝の忠臣として知られる。
新田義興は、父の義貞・兄の義顕の戦死後も南朝方の中心として、弟の義宗や従兄弟の脇屋義治ら新田一族を率いて武蔵野合戦など各地を転戦していた。
太平記の記述によると、入間川付近に宿営(入間川御陣)していた鎌倉公方足利基氏は義興の進出を畏れ、執事の関東管領畠山国清と計って配下の江戸遠江守(江戸長門と比定)や、足利に寝返った新田の元家臣竹沢右京亮に眼をつけ、奸計を用いて殺害しようとした。竹沢は足利方から勘気をこうむったので改心して再び新田側に寝返ったと装って近づいたが、容易に信用されなかった。そのため都から少将局という美しい上臈女房を義興に献じて歓心を買い、時間をかけて信用させたところで宴に招いて暗殺しようと試みた。ところが少将局が義興に心を寄せてしまい危険を知らせたために暗殺は失敗。代わりに少将局は殺害された(村民がこれを弔って建立した女塚神社がある)。自力では討てないと悟った竹沢は国清に援助を要請し、国清は領地没収の懲罰を捏造して竹沢を介して遠江守を新田側に送り込んた。
正平13年・延文3年(1358年)、4月に足利尊氏が没し、竹沢は自分に馳せ参じる兵が鎌倉に多数いるので、今こそ奪還する好機だと義興をそそのかした。これを信じた義興らは、隠密のことであったので少数の側近のみを従え、10月10日の夜明けに多摩川河畔の矢口の渡しに誘い出された。竹沢は背後(大田区側)に射手150人を隠し、江戸遠江守は江戸下野守や孫の蒲田忠武ら郎党約300騎を率いて対岸(川崎側)の茂みで待ち伏せし、船頭を買収して舟底に穴をあけさせ、両岸から挟撃する謀略を巡らせた。義興と家臣13人(14人とも)が川の中ほどに漕ぎ出したところで船頭に栓を抜かれて逃げられ、進退窮まった義興ら主従は自刃、あるいは対岸に泳ぎ着いて斬り合いとなり討死した。
基氏から論功を受けた遠江守は恩賞地へ向かう途中、10月23日の夕刻、謀殺に協力した船頭の舟が矢口の渡し場に迎えに来たが、黒雲とともに暴風雨が起こって船頭らは川に落とされた。遠江守は驚いて引き返すも義興の怨霊が現れて雷火を落とし、落馬した数日後に狂死した。このとき起きた火災で付近の延命寺(旧蓮花寺)の堂宇が焼失したといわれる。また畠山国清の夢にも現れ、入間川の在家100余りや堂舎仏閣数10箇所が落雷によってことごとく焼失し、矢口付近には夜ごと光り物が現れて往来の人々を悩ますようになったので、近隣の住民が義興の霊を鎮めるために墳墓の前に新田明神社を創建し、後に新田大明神として尊崇されるようになった。これが新田神社創建の由緒である。
江戸時代になると、徳川氏が新田氏の末裔であるとされていることもあり、武家信仰の神社として大いに信仰された。
明治4年(1871年)に品川県によって社殿が造営されたが、昭和20年(1945年)4月の空襲により全焼した。明治神宮で仮社殿として建てられていた神明造の本殿と幣殿を特別に下付されたので、昭和35年(1960年)になって復元奉建し、現在に至る。
建築様式は流造。社殿の復元造営の際にあわせて新築された。
社殿の後方に15mほどの円墳があり、義興の遺骸を埋めた墳墓(胴塚)と伝わる。柵で囲われており、古来よりその中に入ると必ず祟りがあるといわれ、「荒山」「迷い塚」などの呼び名もある。江戸時代の古文書には、盗賊がこの御塚内に逃げ込んで隠れようとしたところ意識不明となり、村人たちに御用になったこともあると記されている。
御塚の中央には「舟杉」という大杉があったが、義興の乗った舟を埋めたものが生育したものだという伝承がある(現在は落雷で焼失)。また、この御塚の後部には昔から決して神域を越えることがないという不思議な篠竹が生えており、源氏の白旗を立てたものが根付いたとされ「旗竹」ともいわれる。この竹は雷が鳴るとパチパチと音を立てて割れたという。
樹齢700年といわれるケヤキの古木で、第二次世界大戦の空襲を受け、雷に当たって引き裂かれてしまったが奇跡的に枯れず、新緑の頃になると若葉が茂る。上部に宿り木が寄生している。このため、この神木に触れると健康長寿、病気平癒、若返りの霊験があるという古老の言い伝えがある。
祭神は稲荷大神として知られる宇迦之御魂大神。江戸時代に矢口村の農業(稲作)を守護するため、伏見稲荷大社より分霊を勧請して祀られたと伝わる。
境内に残る古い狛犬は、足利基氏家臣の畠山一族の者、その血縁者の末裔が神社付近に来ると雨を降らし、うなり声を上げたという言い伝えがある。元々は雌雄2体あったが、吽像は戦災で失われ、現在は阿像1体しかない。造られた年代は不明。現在の狛犬は昭和40年(1965年)、石工・風間八太郎の作である。
約180〜240kgほどの重量があり、昔、祭礼の日に若者たちがその石を持ち上げて力比べをし、持ち上げた石に重量や姓名などを刻んで奉納した。本来は神事儀礼であり、当時の通過儀礼の一つであったと考えられている。
(詳しくは文化財項を参照)
現在の第二京浜(国道1号)沿いに建てられていたもので、文化14年(1817年)4月、麻布日下窪講中によって建立された新田神社への道標である。
昭和31年(1956年)に伊勢神宮から下付を受けたもの。
矢口地区の英霊を顕彰するため、昭和42年(1967年)に建立された石碑。毎年4月10日に慰霊祭を行っている。
昭和50年(1975年)に伊勢神宮より特別に下付された。手水石は昭和34年(1959年)に造られたもの。
新田神社の社宝を収蔵する。伊勢神宮の第60回式年遷宮のあとの昭和51年(1976年)、神宮から撤下された天照大神の神宝「御櫛笥」および「御弓」と「御楯」を収蔵し、あわせて戦災を免れた数々の社宝を収蔵・展示するため、翌年の昭和52年(1977年)に校倉造で造営された。一般公開は年に1度、10月10日の例大祭当日(正午より午後3時迄)に行われる。(主な収蔵物は文化財項を参照)
神札、御守などの授与、各種の祈祷や祭事の申し込みを受け付けている(受付は早朝より午後5時まで)。
祭神の命日にあたる10月10日午前11時より大祭式を斎行。神慮を畏み祭神の御心を慰めるとともに、皇室の弥栄と日本国の安泰と発展、崇敬者と国民すべての幸福・繁栄などを祈念する。
午後1時より3時頃まで立身流矢口支部による「古武道奉納演武」が行われる。演武内容は、居合の立合表「序」・「破」・「急」と居合の居組それぞれ8本、剣術表「破」が6本、剣術五合之形が5本、棒、半棒などを披露(年によって変更あり)。
宝暦年間(1751年〜1764年)の末頃、『宝暦末より矢口新田社に参詣多し、社地に矢を売始、詣人求めて守りとす』との記述が見られ、義興の矢と称して門前の茶店で売られたものをヒントに、平賀源内が新たに魔除けとして考案したという。御塚の外には決して生えないという不思議な篠竹を用いて五色の紙で矢をつくり、新田家の旗印を付けた「矢守」は正月の名物となったという。参拝客は2本の矢を買って1本は神殿に供え、もう1本を持ち帰って魔除けにした。これは新田家伝来の「水破兵破」の二筋の矢に由来している。後にこの矢守が全国に拡がり「破魔矢」の元祖となったという。
新田神社には「七不思議」と呼ばれるものがあり、以下の項目が挙げられる。
太平記の新田神社の縁起を題材にした時代物。平賀源内が「福内鬼外」の筆名で書き、全五段からなる。明和7年(1770年)に江戸外記座で初演され、その秋には大阪の竹本座でも上演されるなど評判が良かった。新田義興が武蔵国の矢口の渡しで憤死したことに始まり、その遺子を守る家臣・由良兵庫之助らと義興の弟・義岑の活躍を描いている。義岑を慕う恋人のうてな、義興を陥れた強欲な船頭・頓兵衛などの悪人と、義岑に恋したために逃亡を助け、父頓兵衛の刃に倒れるお舟、遺臣と遺族を取り巻く後日談。
浄瑠璃が好評だったので歌舞伎にもなって人気を博した。寛政6年(1794年)8月、江戸の桐座で初演。天保年間に七代目市川團十郎が頓兵衛役を演じて以来、大役となった。近年では四段目の「頓兵衛住家」だけが単独で上演されていたが、明治期には新田家家老・兵庫之助を中心とする三段目の「由良兵庫館」が人気であった。
2015年、国立劇場の11月歌舞伎公演で「神霊矢口渡」の序幕「東海道焼餅坂の場」、二幕目「由良兵庫之助新邸の場」、三幕目「生麦村道念庵室の場」、大詰「頓兵衛住家の場」からなる、四幕構成の通し狂言としては119年ぶりの上演がなされた。二幕目の由良兵庫之助新邸で、かつて初代の中村吉右衛門が演じた新田家家老・兵庫之助役を当代の中村吉右衛門が演じた。
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