![塩瀬村 (兵庫県) 塩瀬村 (兵庫県)](/modules/owlapps_apps/img/nopic.jpg)
塩瀬村(鹽瀨村、しおせむら)は、かつて兵庫県有馬郡にあった村。1889年(明治22年)の町村制施行にともない編成され、昭和の大合併により消滅した。
現在の西宮市北部地域の東側、おおむね武庫川右岸一帯にあたる。村名は町村制施行以前の名塩村・生瀬村から一字ずつが採られたもの(合成地名)である。
有馬郡東南部に位置していた自治体。おおむね武庫川右岸であるが、東の生瀬地区では左岸にも町域が広がり、宝塚駅付近(川辺郡小浜村、宝塚町を経て現在の宝塚市)に近接する。北東に川辺郡西谷村(現在は宝塚市の一部)、北西に道場村(現在は神戸市北区の一部)、西に山口村(現在は西宮市の一部)、南に良元村(現在は宝塚市の一部)と接する。
町村制施行以前には、生瀬(なまぜ)と名塩(なじお)の2つの村があった。
武庫川沿いに位置する生瀬は、摂津平野と有馬方面を結ぶ有馬街道(大坂街道)に位置し、13世紀にはすでに宿駅として栄えた記録がある。嘉禎4年(1238年)創建とされる浄橋寺(浄土宗西山派)には、武庫川を渡る生瀬橋の創建にまつわる伝説が伝わる。江戸時代には参勤交代の宿駅として、また物資の中継地として栄えた。
名塩川が武庫川に合流する木之元(このもと、古くは「木ノ本」と書いた。江戸時代には名塩村の枝郷となっており、現在は名塩木之元という町名である)には木ノ元地蔵尊木元寺があり、聖徳太子ゆかりの地蔵伝説がある。室町時代に赤松則村によって伽藍が建設された。文安2年(1445年)赤松満政は木元の山中で一族と共に最期を遂げた。
武庫川の支流名塩川を遡った盆地に名塩の古い街がある。文明7年(1475年)、当地を訪れた蓮如が設けた草堂が教行寺の始まりとされる。教行寺は蓮如の子蓮芸の子孫が代々住持を務め、「名塩御坊」と呼ばれる高い寺格を保ち、名塩は寺内町として発展した。
名塩は和紙生産の郷として知られ、名塩雁皮紙(名塩鳥の子紙)を特産品としている。名塩の紙漉の発祥にはさまざまな伝説があるが、和紙生産が盛んになり名塩が発展するのは17世紀以降である。江戸時代後期には名塩から蘭学者億川百記が出ており、百記の娘の八重は、百記の弟弟子である緒方洪庵に嫁いだ。この縁で洪庵門下の伊藤慎蔵によって1862年から1869年にかけて名塩蘭学塾が設けられ、洋学が教授されていた。
また、18世紀の中頃には武田尾温泉が知られるようになった。
1889年(明治22年)、町村制の施行により、名塩村・生瀬村が合併して塩瀬村が発足する。ともに長い歴史を有する名塩・生瀬の間にはしばしば利害の衝突も発生したという。1898年(明治31年)、阪鶴鉄道(現在のJR福知山線)が宝塚駅から延伸開業した際、終着駅として有馬口駅(現在の生瀬駅)が開業。阪鶴鉄道は翌1899年(明治32年)に三田駅まで延伸し、武田尾駅(駅所在地は現在の宝塚市玉瀬)が設置されて武田尾温泉の利用者が増えた。
1951年(昭和26年)、昭和の大合併に伴い塩瀬村は解村し西宮市に編入された。
西宮市では旧塩瀬村の地域を「塩瀬地域」と称し、塩瀬地域は名塩地区と生瀬地区からなるとする。1980年代には大規模な宅地開発が進められた。
西宮市役所は塩瀬支所を名塩に置いており、塩瀬支所生瀬分室を生瀬に設けている。
村が存在していた当時、生瀬駅以北(道場駅まで)の福知山線は武庫川峡谷内を走っていた(現在は旧国鉄福知山線廃線跡と呼ばれるハイキングコースとなっている)。新線(現在の路線)に付けえられたのは1986年である。旧村域にある西宮名塩駅は、新線付け替え時に開業した駅である。
生瀬駅から武庫川右岸(塩瀬村側)を北上した福知山線は、第二武庫川橋梁で対岸(宝塚町側)に渡り、武田尾駅に至る。武田尾駅の西で第三武庫川橋梁(廃線により撤去)により再度右岸(塩瀬村)へ渡っていた。
惣川駅(惣川貨物駅)は宝塚駅の西方にあった貨物駅で、ウィルキンソンの炭酸水積み出しのための側線に設けられた。大正期には旅客を取扱った時期もあるという。のちに大阪砕石工業所の砕石積み出しに用いられた。宝塚駅構内に編入され廃止されている(宝塚駅参照)。
村域内には、大阪方面から有馬温泉に至る古くからの街道、有馬街道(大坂街道、湯山街道、生瀬街道とも)が走る。生瀬は武庫川右岸(西岸)に位置する宿場町であり(生瀬橋が左岸とを結ぶ)、北西へ名塩・三田を経て丹波方面に至る街道(大坂街道、丹波街道、名塩街道とも)との追分でもあった。
明治時代まで、生瀬から西に船坂方面へ至る有馬街道(生瀬街道)は太多田川の河原をさかのぼる道筋になっており、「四十八ヶ瀬」あるいは「四十八飛び」と呼ばれる難所であった。
有馬街道(生瀬街道)は1887年(明治20年)から翌1888年(明治21年)にかけて改修され、県道に移管された(現在は兵庫県道51号宝塚唐櫃線)。
1898年(明治31年)の阪鶴鉄道(現在のJR福知山線)開通・生瀬駅開業後は、有馬温泉への経路として盛んな交通があったが、1915年(大正4年)に三田-有馬間に有馬鉄道(有馬線)が開通すると利用者は少なくなった。
生瀬と名塩の間の交通も、生瀬西方の「猿首岩」と呼ばれる岩山に交通が阻害されていたが、江戸時代に平坦な街道が開削され、明治中期に県道となり、昭和に入り二級国道176号福知山大阪線となった。
現在は旧村域に中国自動車道の西宮名塩サービスエリアが所在するが、当時は未開通。
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