![近衛基実 近衛基実](/modules/owlapps_apps/img/nopic.jpg)
近衛 基実(このえ もとざね、旧字体:近󠄁衞 基實)は、平安時代末期の公卿。藤原北家、関白・藤原忠通の四男。官位は正二位・摂政・関白・左大臣。通称は六条摂政(ろくじょう せっしょう)。五摂家の一つとなった近衞家の祖。
父・忠通にとって16年前に三男を早世させて以来の男子出生であったが、既に忠通は自身と20歳以上も年の離れた弟である頼長を猶子としており、表向きは歓迎されない出生であった。だが翌年には母・信子の実家より高陽院に移され、久安元年(1145年)正月の載餅の儀式において事実上の後継者としての披露が行われた。ただし、高陽院は頼長を庇護していた姉の藤原泰子(女院・高陽院)の御所であり、事実関係はむしろ頼長側の要求で忠通は頼長の実子である兼長を養嗣子として迎え、事実上の廃嫡となった基実は代わりに泰子の養子としてその所領を継承することになったのではないか、とする見方もある(頼長の『台記』では久安元年の載餅には忠通は出席しなかったことが記されている)。その後、忠通と兼長の縁組は久安4年(1148年)には解消されて、基実が忠通の後継者とされた。
久安6年(1150年)、8歳となった基実の元服と叙位が決定されるが、この年の9月に後継者問題を巡って忠通が父・藤原忠実から義絶されて藤氏長者の地位も奪われて半ば失脚する形になる。そのため、諸国の受領の協力を得られずに12月25日に実施された元服の儀式では饗宴が行えず、本来であれば元服当日に行われる筈であった正五位下・左近衛少将への叙任も30日まで引き伸ばされた。
その後、わずか10歳で従三位に叙せられているが、頼長の子供たちと比べるとその昇進は大幅に遅れており、摂関家を継ぐためには必須の経歴であった近衛中将に任ぜられたのは従三位になってから(摂関家の嫡子は通常五位で任官)、近衛大将に至っては遂に任じられることがなかった。
ところが、近衛天皇の崩御後に父・忠通の推しで後白河天皇が即位すると、父と天皇の引き立てで権中納言、権大納言を経て、保元2年(1157年)には正二位・右大臣に叙任される。この間、保元の乱においては父と共に天皇に近侍して東三条殿行幸の際に剣璽を奉じている。
保元3年(1158年)8月には16歳の若さで二条天皇の関白にまで栄進し、藤氏長者となった。忠通は既に62歳となっていたため、長く昇進が抑えられていた基実を一刻も早く昇進させて自身の後継者として関白の地位を譲り、自身は大殿としてその後見をしようとしたのである。しかし、その一方で忠通は近衛大将を経ずに摂関となった基実は摂関家自体の後継者としては相応しくはないと考えていた節があった。このため、忠通は基実の弟を次の摂関にしてその子孫に摂関家を継がせようとしたとする議論がある。ただし、忠通が意図した摂関家の後継者については、朝廷内で忠通に継ぐ実力者である閑院流の三条公教の娘を妻に迎えて忠通自筆の日記を継承した異母弟の松殿基房であったとする説と姉である皇嘉門院の養子となり摂関家の嫡子と同様の昇進を遂げた異母弟の九条兼実であった説がある。平治2年(1160年)に基実は左大臣に任ぜられたが、翌年には基房は右大臣、兼実は権大納言に昇進している。特に基実は基房を警戒しており、基実の没後に兼実は基実が基房に宿意(恨み)を抱いていたと記しているほどである(『玉葉』承安2年11月20日条)。また、基実の正室は院近臣・受領クラスの藤原忠隆の娘に過ぎず、しかも妻の兄である藤原信頼は平治の乱を引き起こすなど、基実は苦しい立場にあった。
ところが、長寛2年(1164年)2月に忠通が急死すると、基実はその2か月後に平清盛の娘・盛子と結婚している。清盛は元々二条天皇の乳父であるとともに急速に台頭してきた平家一門を後ろ盾に得ようとしたと考えられている(実際にこれ以降、清盛の一族が摂関家の家司などの家政職員に登用されるようになる)。翌長寛3年(1165年)には六条天皇の摂政となる。しかし翌永万2年(1166年)7月26日、僅か24歳で病により薨御。死因は赤痢であったと伝えられている。基実の子供たちは幼く摂政は基房が就任するが、清盛と藤原邦綱の工作で摂関家の所領や日記の大半は一時的に盛子が継承して将来的には基実の嫡男である基通(盛子の養子となっていた)が継承することとされた。死後、正一位太政大臣を追贈された。
※日付は旧暦。
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