![和田アキ子 和田アキ子](/modules/owlapps_apps/img/nopic.jpg)
和田 アキ子(わだ アキこ、1950年〈昭和25年〉4月10日 - )は、日本の歌手、タレント、司会者、女優、ラジオパーソナリティ。所属芸能事務所は株式会社ホリプロ(在籍期間は女性タレント及び全体で最長)。所属レコード会社はユニバーサルミュージック。
血液型はO型。本名は飯塚 現子(いいづか あきこ、旧姓:和田)。在日韓国人として出生し、その後日本へ帰化。帰化前の本名は金 福子(キム・ポクジャ、김 복자)で、通名は金海 福子(かねうみ ふくこ)。
愛称はアッコ(さん・ちゃん)、アコ(さん・ちゃん)、ゴッド姉(さん・ちゃん)。
天王寺区にある大阪市立真田山小学校を卒業後、私立城星学園中学校へ入学。そのまま私立城星学園高校に進学するも父親が勝手に退学届けを出したため、在学期間はわずか2、3日間で中途退学となった。
小学5年生の頃に洋楽に憧れ、15歳の頃からジャズ喫茶やゴーゴークラブで歌い始める。174cm(デビュー当時)の長身から発せられるパワフルな歌声は評判を呼び、ホリプロ(当時の社名は「ホリプロダクション」で、小規模事務所だった)社長・堀威夫直々にスカウトされる。当時はグランプリズ(夏夕介が在籍)というバンドを組み、大阪と神戸三宮で活動していたが実際にデビューできたのはボーカルの和田とオルガンの夏のみであった。芸名の「アキ子」の「アキ」がカタカナなのは、本名の「現子」が普通に読めないため、当時のホリプロの社長が付けた。本名は当て字である(詳しくはこちらを参照)。
デビュー当時のキャッチ・コピーは「和製リズム・アンド・ブルースの女王」。
1968年(昭和43年)10月25日、「星空の孤独」でレコードデビュー。1969年4月25日(昭和44年)、2枚目のレコード「どしゃぶりの雨の中で」が17万枚のスマッシュヒットを記録する。
1970年(昭和45年)、20歳になり『女番長・野良猫ロック』(日活)で映画初主演を果たす。同年、「笑って許して」でNHK『第21回NHK紅白歌合戦』に出場し、『NHK紅白歌合戦』初出場を果たす。紅白にはこれを含めて通算39回出場し、紅組司会を計3回、紅組トリを計7回(うち1回は大トリ)を務めた(2023年時点。紅白について詳しくは、後述)。
1972年(昭和47年)、「あの鐘を鳴らすのはあなた」で第14回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。1973年(昭和48年)から日本テレビ『金曜10時!うわさのチャンネル!!』に出演し、番組内で「ゴッド姉ちゃん」と呼ばれて人気を博した。以後、歌手業を続けながら様々なバラエティ番組にレギュラー出演した他、多数の冠番組などで司会者としても活躍。
32歳の時に子宮癌により子宮を摘出し、この時は子供が出来なくなったショックで、神様を呪ったとのこと。
1985年(昭和60年)10月、生放送のバラエティ番組・TBS『アッコにおまかせ!』が放送を開始し、以後長年に渡り司会を担当(2024年現在)。
1987年度(昭和62年度)の日本女性放送者懇談会賞(現:放送ウーマン賞)を受賞した。
2005年(平成17年)7月13日付のオリコンチャートでm-floとのコラボレーション作品「Hey!」が初登場9位を記録し、自身33年ぶりとなるTOP10入りを果たす。
2008年(平成20年)、競艇(日本モーターボート競走会)のイメージキャラクターとなる。同年9月29日にはデビュー40周年記念として、ニューヨークのアポロ・シアターで、日本人・東洋人のソロ歌手としては初となる単独公演「40th Anniversary Concert "Power&Soul"」を行った。
2021年(令和3年)4月より、所属レーベルをこれまでのテイチクエンタテインメント / ユニオンレコードからユニバーサルミュージックに完全移籍。年内に新作のオリジナルアルバムを発売予定であることも発表された。
大阪府大阪市天王寺区舟橋町。朝鮮系日本人であり、帰化時の官報では1949年(昭和24年)生まれとなっている。使用言語は、大阪弁を中心とした関西弁であり、標準語を使用することもある。
済州島出身者の父と、朝鮮半島出身者の母を持つ在日韓国人2世で、当時の本名は金福子、通名は金海福子だった。4人兄弟の長女で、下に3人の弟がいる。父は柔道の師範で大阪環状線鶴橋駅の近所にある自宅で柔道場「金海道場」を開き、母は乾物屋を営んでいた。『週刊文春』のインタビューで、「『自分は日本人ではない』と知ったのは中学生の頃。区役所に行って分かった」と語っている。
芸能界デビュー時に、在日韓国人だと分かる名前をまずいと思った父親が、既に帰化していた和田の叔父の養子にしてもらい、同時に名前も「現子」と改名して「和田現子」となり、本人も日本に帰化した。
このような出自であるが、保守的な思想が強く、2024年に発生した中国籍の男による靖国神社への落書き事件に怒りを露にするなどしている。
父親は柔道の道場を開いており、和田の持ち前の大きな体もあり、中学1年生の頃すでに柔道初段だった。父親は礼儀作法・しつけに厳しく、全てのことは男性優先で男尊女卑、父の前では正座・敬語を使わなければいけないなどの厳しい家庭環境で、まだ小学生だった和田を殴りつけるなど、たびたび鉄拳制裁・暴力を加えられることもあった。当時の楽しみは、弟たちとホームドラマを観ることだった。
中学からミッションスクールに進学したが、上記の理由により父を憎んで反発。中学2年生の頃には不良番長として子分を従えて歩き、飲酒・喫煙を繰り返し、大阪ミナミの繁華街を縄張りにし「ミナミのアコ」と呼ばれ恐れられていた。
その後エスカレーター式に高校に進学したが、3日目に父に「お前のような不良がいると学校の迷惑になる」と、退学届を勝手に出されて中退。この行為に我慢できず、憂さ晴らしに不良仲間とミナミなどに訪れては、他の不良たち相手にケンカを売ったり買ったりの日々を送る。以前から柔道をやっていたことや背が高いこともあり、ケンカは強かった。
ある日、不良仲間とミナミのジャズ喫茶「ナンバ一番」に訪れ、ステージで歌唱中の歌手にヤジを飛ばしたことがきっかけでステージで歌い始め、和田の歌唱が評判となった。後日この噂を聞きつけて東京からやって来た堀威夫から「あなたと一緒に世界で勝負したい」と熱心にスカウトされ、プロの歌手になることを決めて上京した。
上京からしばらくは、横浜にあった堀の実家で下宿生活を送った。初期に、会社が「R&B歌手なので世界に通用するような洋モノの名前がいい」ということから芸名が「マーガレット和田」になりかけたが、名前とイメージが合わず結局本名からとって「和田アキ子」でデビューすることとなった。デビュー曲「星空の孤独」は売れなかったため給料が安く、日々の食事代に事欠くほどだった。
デビュー当初は長身かつ大柄な体格・低音の効いた声が原因で、横柄な態度を取っていないにもかかわらず先輩歌手から「態度がでかい」等といじめられる。楽屋(女性歌手たちの大部屋)に入ると「男(和田)がいるから着替えられなーい!」と大声でいびられたり、白色の新しい靴に黒のマジックで「バカ」と書かれた。他にも数え切れない理不尽・陰湿ないじめ(メイク改造論、花束が菊の花、靴に男女と書かれる等)に遭い「私が一人前になったら、そういうことはしないようにしよう」と誓う。
芸能活動の初期に二、三の映画に主演、準主演しているが、現場の印象が非常に良くなかったため、長らく日本映画界とは距離を置いている。その後はごくまれにゲスト出演する程度であり、旺盛な芸能活動の中では映画の比率は無に等しい。テレビドラマへの出演も、滅多に無い。
夫の飯塚と入籍したばかりの1981年の夏、体の不調を感じて聖路加国際病院で当初“子宮筋腫”の診断を受け、そのまま入院。しかしその後、飯塚と和田の母が真っ赤な目をして和田の病室に戻ってきて、「さっき子宮がんということが分かった。今全摘すれば治るから手術の承諾書にサインしてきた」と告げられた。以前からたくさん子供がいる温かな家庭を作るのが夢だった和田は、大きなショックを受けた。
手術は成功したが、本人にとって「人生で一番辛い時期」となり、子供が産めなくなったため数日後飯塚に離婚を切り出した。しかし飯塚から励まされて夫婦生活の継続を決め、退院後の同年10月に四谷の教会で結婚式を挙げた。
かつてはヘビースモーカーで、不良になり始めた中学生の頃から煙草を吸っており、成人式の際の記者会見では冗談交じりに禁煙・禁酒を宣言したこともあった。禁煙に成功する前は一日3箱、特に麻雀をやっていた時は1カートン(200本)は吸っていた。以前から何度も禁煙を試みるも失敗し、一時期禁煙に成功するも数年後に喫煙を再開。しかし2007年7月に『アッコにおまかせ!』の企画で出川哲朗・松村邦洋らと人間ドックを受けたところ「肺気腫の疑い」との診断を受け、翌年、9月に念願のニューヨーク、アポロ・シアターでの単独コンサートを控えていたことから精密検査を受け、「慢性中等度閉塞性呼吸不全」(中程度の慢性閉塞性肺疾患〔COPD〕)との診断を受ける。この際、医師から「完全な肺気腫で、(このままの生活を続ければ)将来的に歌が歌えなくなる」と“歌手生命の危機”を告げられる。その後、盆休みでロンドンに滞在していた時心臓発作を起こしたこと(これも喫煙が原因で、血管の石灰化を起こしていた)、姪やイチローをはじめとする周囲の友人、アッコファミリーからの説得、そしてカンニング竹山からの愛のこもった強い説得が決定打となり、2008年(平成20年)8月25日から周りのサポートを得ながら禁煙を開始し、2009年(平成21年)1月1日に完全禁煙を宣言。2009年(平成21年)8月に禁煙1周年を迎えた。こうした経験から2011年5月には「COPD広報大使」に任命されている。
動物が苦手で、特に犬や蛇などの爬虫類が大の苦手。
前述の理由から子供を産むことができなかったため、大の子供好きである。
デビュー前、地元大阪では女番長(当時の類語としてズベ公、スケバン)として名を馳せていたものの、唯一沢田研二(正義感が人一倍強く、血気盛んだった)にだけは頭が上がらず、睨まれ縮こまってしまったほどである。
毒舌で体が大きく、また酒豪で暴力をふるう・喧嘩っ早いというイメージが強いが、その一方寂しがりや・恐がりで家事好き、意外に繊細な泣き虫である。可愛がっている芸能人を自宅に招待して酒を飲みつつ手料理を振る舞ったり、自宅に泊めたりしている。また昔から仲間うちで集まり酔って大騒ぎ・悪ふざけ・無茶ぶりをすることもあり、若い頃は泥酔して何も覚えていないこともしばしばあった。これが和田にまつわる酒席での数々の恐怖のエピソードとなる。一方、前述の通りの家庭環境や山岡久乃との関係から礼儀作法や不義理、また遅刻・番組収録時間の押しには厳しいが、身内に対しては甘いきらいがあり、特に非常に可愛がっていた芸能人の不祥事に関しては触れたがらなかったり言葉を濁したりすることも多い。ただし犯罪を犯したり反社会勢力との交際の疑いで引退した芸能人については、身内であっても一切の連絡を絶つことにしており、年賀状のやり取りすらも行っていない。
一緒に飲みに行った芸能人がテレビ番組などで、夜中に電話で呼び出される・毎晩飲みに誘われる・朝まで説教された・酒を飲んで暴れるというエピソードをよく語るが、和田は「若い時はいざ知らず現在はそんな体力はない」「虚像の“和田アキ子”のイメージばかりが先行する。」と否定しながらも、「それが、“和田アキ子”のイメージならそれでいい。酒飲まない、暴れない、説教しない“和田アキ子”なんて“和田アキ子”じゃない。」と語っている。
あがり症で、コンサート・音楽番組に出演する際は過剰に緊張してしまい、本人いわく「心臓は止まりそうだし冷や汗は出るし、背中はびっちょりだし脇の下もびっちょり」で、カンニングペーパーがあっても1番の歌詞を何度も歌ってしまうこともよくある。また紅白歌合戦では、ステージ袖では毎回緊張のあまり手が震えて水を飲むのもやっととのこと。その一方で、バラエティ番組では基本的に一切あがらない。また楽曲のレコーディングでは、誰かの視線を感じると緊張でベストコンディションで歌えなくなってしまうため、誰からも覗かれないようにカーテンを閉め切り、真っ暗な中で譜面台の明かりだけをつけてレコーディングを行う。
暗い所が大嫌いである。
タレントとしてよりも歌手としての和田については評価される傾向があり、親交のあるカンニング竹山は和田の歌唱力をエラ・フィッツジェラルドに例えている。
中学時代からレイ・チャールズのファンである。中学生の頃から独自に歌を歌い始めたきっかけは、レイの歌の素晴らしさに加え、黒人で視覚障害者である彼の“差別に負けない生き方”に共感したこと。和田のデビュー30周年のライブでは、レイがわざわざ来日してゲスト出演してくれたとのこと。
このため歌手業においてレイの影響を公言し、初期の公演実況録音盤では、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ、チェイスなどカバー曲をステージレパートリーにしていたことが知られている。映画やテレビ出演々技とは一方で楽曲「あの鐘を鳴らすのはあなた」の成功から、独特な合いの手、シャウト(アー!、Come on !ハッシッシッシ…、など)和田の個性的な歌唱上の特徴を控えたもので1973年から放映NHK教育の人形劇「プルルくん」主題曲担当など、児童の合唱曲模範になる録音を残している。
40周年ではニューヨークのアポロシアターで東洋人初のワンマンライブを実現。2022年に変形性股関節症になり、膝に水がたまった影響で、しばらくはお腹に力が入らなくて歌えない状態となった。
2007年(平成19年)4月10日、東京・西麻布に和食屋「わだ家」をオープン。後に東京と大阪を中心に6店舗が展開。和田は監修という立場で、経営は夫の会社である株式会社エー・アンド・ケイが行っている。1980年代には美容院を経営していた。
毎年、和田の誕生日パーティーは、多くの芸能人を招待して行われることで有名である。例として、2008年の誕生日パーティにはみのもんた・高田純次・陣内孝則等の大物芸能人や、番組共演者とアッコファミリーの出川哲朗・勝俣州和らが参加している。
全国ネット番組では基本的に標準語で話すが、関西出身者との共演、ドラマで関西出身の人物を演じる時には関西弁を使う。また『ラブアタック!』など、視聴者参加番組で関西から来た参加者にインタビューする際も関西弁で会話する。
先述通り、『森田一義アワー 笑っていいとも!』の看板コーナー『テレフォンショッキング』において、単独最多出場ゲストである(通算22回出演)。
なお、大阪制作の番組でのレギュラー出演は少なく、また『ラブアタック!』を最後に大阪制作のレギュラー番組を持っていない。
出演する番組や記者会見において、他の芸能人や『NHK紅白歌合戦』の出場者、放送内容に対する辛口コメントが多く、マスコミはそのコメントを採り上げることが多い。特にプロ意識に欠ける言動があった芸能人については辛辣な口調で批評する。「芸能界のボス」「芸能界のご意見番」の異名はこれに由来する。
本人は「芸能界のご意見番」と呼ばれることは嫌っており、「言われているのなら返上する」「オブラートに包んでいるつもりなんだけど、声もよく通るし迫力があるから。他の人で“そこまで言っていいの?”っていっぱいいる」と自身よりも過激な発言をする人物がいるのに、自身の発言が目立って取り上げられることに不満を見せている。
2016年まで10回行われている週刊文春の「女が嫌いな女」のランキング開始以降、常に上位に位置している。2013年で初めて1位になり、2015年の2回連続で1位となり、嫌いな理由として「威張り過ぎ」、「大物ぶって鼻につく」、「見ただけで不愉快になる傲慢な態度。ときどき小心者ぶるところがさらに不愉快」、「自分の親しい人ばかりかばうご意見番なんて嫌だ」などが挙げられた。2016年の調査でも2位のベッキーを大きく引き離して3回連続で1位となり、嫌いな理由として「身内びいきなことが多々あるので、もういい加減ご意見番から引退してほしい」、「とにかく偉そうなところが鼻につく」などが挙がった。
上記に絡み、和田と縁の深い竹山隆範は「アッコさんは我々も暴力性とかネタにしちゃってる部分があるけど、日頃は凄く女性で付き合いやすい六十代のおばさん。でもここまで来られたそれはバレないで女に嫌われるナンバーワンでいてほしい。それが和田アキ子だからと。」コメントした。その一方、産業能率大学の「新入社員の理想の上司」調査では、現行の調査方法になった1998年度から2013年度まで必ず10位以内にランクインしていた。逆に2016年「上司だったら面倒な女性芸能人」では2位の泉ピン子に大差をつけて1位になった。また老害だと思う芸能人でも2位の張本勲に倍以上の大差で1位になった。
上記のいわゆる「上から目線」は反省する面があると自覚しており、なぜ年々発言が過激になっているかについて、最大の理由は「所属事務所のホリプロのみにとどまらず芸能界全体において先輩の刃向かえない立場の芸能人の死去や引退等による『叱ってくれる人がいなくなった』」と自身の番組やゲスト出演した番組で何度も挙げており、そのまま自虐ネタにするときもある。
2007年(平成19年)の『第58回NHK紅白歌合戦』に初出場した杉本真人について「ぜんぜん知らない人」と番組中に発言した。しかし、過去に杉本から和田へ楽曲が提供されていたことが後に分かり、『アッコにおまかせ!』放送中に土下座して謝罪したこともあった。
山岡久乃とは、1973年(昭和48年)、TBS系ドラマ『あんたがたどこさ』で初共演して以来、山岡を「(芸能界での)おっ母(かあ)」と呼び、深く尊敬するようになった。
森繁久弥とは、ドラマ『桃から生まれた桃太郎』『あんたがたどこさ』での共演を機に知り合い、大御所だった森繁になぜか気に入られるようになった。和田は、母親同然に可愛がってくれた人を含む“4人の母”の中の一人として、森繁の妻・森繁杏子を挙げて感謝している。和田は森繁のことを親しみを込めて「森繁のじい」と呼んでいた。
水前寺清子とは、1970年代に確執が囁かれ、水前寺が和田のレギュラー番組から出演オファーがあった際、「アコが嫌いだから出演しない」と断り、それを聞き和田が涙をこぼしたと『女性自身』(1974年2月9日号)に報じられた。水前寺は2016年11月4日放送のフジテレビ『ダウンタウンなう』で、「週刊誌に(番組に)出てくれないんで、一晩中泣いたと書かれたんですよ。その時に、私はあの方が元気いいところを知ってましたんで、『泣くタマか!』と言ったのは覚えています。売られたケンカは買います。この事件は、(喧嘩を)売られたと思いましたから。私が全く知らないところでこういうことがあって、『一晩泣いた。どうしてくれるんですか?』って言われたんで。『泣くタマか』って言ったのは、今でも本当に申し訳なかったと思います。アッコちゃんは、本当に今はとってもよくしてくださるし、優しいです」と語った。
紅白の出場歌手が発表される以前から衣装を制作している小林幸子に否定的な考えを持っており、この件がきっかけで2人の間に確執が生じた。もっとも小林とは1986年には週刊誌上で不仲さが取り沙汰され、1990年代に入っても和田は「あの小林幸子の衣装はなんだ」とことあるごとに文句を述べていた。小林は和田の意見に対し、「(紅白の衣装は)見ている人に楽しんでもらおうと思ってやっている」「(紅白に)もし出場できなかったらコンサートで着ます」「アッコちゃんは私よりも年上だけど、芸能界では私が先輩なんですから、陰でコソコソ言わないで何か意見を言いたいのならばじかにはっきりと私に言いに来たらいいのに」などと当時のワイドショーのインタビューなどで反論している。なお、和田は小林本人の前で批判は行わない。
今陽子とは親友の間柄で50年以上に渡る交流がある。
大のお笑い好きで知られる。歌手でありながらお笑いタレントとの親交が深くタモリ・ビートたけし・明石家さんま・島田紳助・横山ノック・上岡龍太郎・せんだみつお・爆笑問題・ダウンタウン・博多華丸・大吉・品川庄司・ライセンスの藤原一裕や、アッコファミリーの松村邦洋・出川哲朗・勝俣州和・カンニング竹山・有吉弘行・ますだおかだ・よゐこ・陣内智則などと親交がある。
タモリとは『金曜10時!うわさのチャンネル!!』で共演して以来、親交がある。笑っていいとも!のテレフォンショッキングでは番組開始から5日目の1982年10月8日に初出演しており、同コーナーにおいて、単独最多出演ゲスト(22回)である。またタモリ、ビートたけし、明石家さんまのお笑いBIG3とも親交が深く、ドラマ和田アキ子殺人事件では3人と共演している。
上記親交のある芸人の中でも特にデビュー当時の島田紳助は、元不良ということもあり非常に悪い態度だった。しかし、ある番組のゲストとして紳助が来た際に、彼の芸能人としての大きな可能性を和田は予感し、自身が司会を務める『歌のトップテン』で共演。また楽屋を同じ部屋にするなど、自らしつけ係を買って出た。このことがきっかけで紳助とは自他認める弟分という意味も込めた親友的な存在となり、自身の悩み等いろいろと相談できる間柄となった。『歌のトップテン』、『B.C.ビューティー・コロシアム』では司会コンビを組む(『毛髪クリニックリーブ21』のCMでも共演)。
元芸能人で、『ラブアタック!』などで共演した横山ノックや上岡龍太郎とも親交がある。上岡とは大阪にいた頃からの友人で、横山ノックも素人時代から芸能界入りしても面倒を見たため「親代わり」や「保護者」と和田自身が語り、ノックもこれを容認していた。このこともあり、横山と上岡が司会をしていた『ラブアタック!』の司会に和田が3人目の司会者として就任する際には、当時準メイン司会者だった横山は和田にその座を譲り、自らはサブ司会者に降格し、以後番組終了まで横山は和田のサポートしていた。
出川哲朗が『徹子の部屋』にゲスト出演した際に黒柳徹子と対談した際の内容によると、出川を楽屋に呼び出した後、見られるのが恥ずかしいという理由で、楽屋に居たスタッフやマネージャーを全員退出させてからバレンタインチョコを渡すという一面もあるという。
政治家の安倍晋三とは食事をする場所が同じということなどの共通点から親交があった。晋三の父親の安倍晋太郎にも可愛がられていたという。
1972年に日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞した際、待機する客席で名前を呼ばれた瞬間号泣して興奮状態となり、そばに座っていた沢田研二(同賞の候補者の一人)の腕を思わずつかみ、無関係の彼を連れたまま壇上に上がるという一幕があった。
1973年からのバラエティ番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』では「ゴッド姉ちゃん」として、せんだみつお、湯原昌幸、ザ・デストロイヤーらとドタバタギャグを繰り広げた。姐御肌のキャラクターや、女性としては高い身長、靴のサイズの大きさ (27cm) などにより、和田の「デカくて・コワい・強い」というイメージが全国的に広まった。しかしその後、「ゴッド姉ちゃん」のイメージ定着を嫌ったことや、1978年(昭和53年)放送開始のドラマ『翔べ! 必殺うらごろし』(朝日放送製作、テレビ朝日系列へネット)への出演などがあり、歌手活動とテレビ番組出演との両立が困難になったことから、歌手に専念したいとの意向で、日本テレビへ強引に降板を申し入れた。これに絡んで、1979年(昭和54年)に『金曜10時!うわさのチャンネル!!』は打ち切りになった。この一件が原因で、以後2年間和田は日本テレビへの出入りが禁止されるなど両者は折り合いが悪くなった(後に和解)。また、同番組の降板時、レギュラー出演していた他のバラエティ番組も全て降板した。
1975年(昭和50年)、マチャアキのガンバレ9時まで!!(日本テレビ)の収録のために中野サンプラザに居た際に楽屋泥棒を捕まえ「警視総監表彰」を受け、当時の大手新聞各紙で大いに報じられたが、新聞紙面にて年齢が公表された件で事務所がデビュー時に決めたプロフィールとズレが生じ、以降プロフィールは訂正された。
和田が「どんぐりカット」と呼んでいる独特の髪型は、ライザ・ミネリの髪形を真似たものである。1976年頃にのどのポリープ手術で入院する際、入浴に制限があるため手入れがいらない髪形を探していたところ、たまたまライザ・ミネリの写真を見て気に入り、それを和田に似合うようにアレンジした。
2007年、2008年、2010年と大腸ポリープの手術を受けていることを明らかにしている。2010年に至っては8個のポリープを除去するために2回入院したと語っている。
化粧や嘘泣きができるので、女として産まれて良かったと思っていると語っている。
本人が事実と認めている伝説の一つに「CDが登場したばかりの頃、CDのケースを拳で割って開けていた」というものがある。本人曰く「CDケースの開け方がわからず、てっきり壊して取り出すものだと思っていた」「拳で割っていたのは最初だけで、痛いのでその後はハサミの柄などで割っていた」とのこと。
2000年2月3日、節分の豆を買いに外出したところ、自宅近くの交差点でライトバンにはねられ右足骨折で数週間入院。当時の東京スポーツの記事の見出しには、事実とは逆に「車が大破!」と書かれていた。
中央競馬と地方競馬の馬主資格を持っており、所有馬には「ルンバデブンブン」や「ダイナマイトソウル」等、自身の曲・アルバムのタイトルに因んだ名前を付けている。2004年(平成16年)11月28日には歌手として、東京競馬場で行われたジャパンカップのレース発走前に『君が代』を独唱し、同レースの優勝プレゼンターを務めた。
2008年(平成20年)3月3日、読売テレビ・日本テレビ系で放送のアニメ『ヤッターマン』中、大河原邦男のデザインによる和田をモデルにした三悪(ドロンボー)側メカ「ワダアッコー」とヤッターマン側ビックリドッキリメカ(ゾロメカ)「オマカセメカ」が登場。両機は自身の2008年(平成20年)4月23日発売のアルバムCD『わだ家』のジャケットの表紙に採用された。
和田のことをモノマネをするときによく歌われる『古い日記』の歌詞に出てくる、「ハッ!」という掛け声はスティービー・ワンダーを意識したものである。ちなみに本人曰く「ものまねは、瀬川瑛子さんのまねしかできない」という。
自身はプロ野球にはあまり詳しくないが、夫の飯塚、弟、現在のマネジャーは読売ジャイアンツファンであり、2015年の読売ジャイアンツ開幕戦(東京ドーム)では巨人カラーのオレンジのラインを入れた衣装で国歌斉唱を行った。
2014年6月、「夢は『いつも旬でありたい』ということ。でも、歌手という自負がなくなったらやめる」と自身の引退について語った。その上で「ドレスが唯一似合ってると思っているし。第2の和田アキ子はいないと思う。(体が)大きくなきゃだめだし、声もハイトーンではだめ。一代で終わるとしたら和田アキ子を全うしたい。まだまだやりたいこといっぱいある。頑張りたい」とも語り、引退はまだ先であることも仄めかした。なお、引退については幾度も考えたことがあるとのこと。
2016年8月20日放送のフジテレビ『ミュージックフェア』で「Pokémon GOにはまっている」と発言した。
できちゃった婚には否定的な考えである。
長く活躍していることもあり、知名度も高い。2020年7月22日に放送された『水曜日のダウンタウン』の「古今東西 日本人知名度ランキング」では、第6位 (94.0%) にランクインした。これは女性では第2位であり、男女関係なく歌手としてはトップである。
1970年・第21回に初出場以来、1978年・第29回まで9年連続で出場。
1986年・第37回に8年振りに再出場。以降、2015年・第66回まで30年連続で出場。
40回目の出場がかかった2016年に2度目の落選、その後の紅白復帰は無し(2023年時点)。
1987年、1991年、1995年、1998年、1999年、2001年、2008年には紅組トリを務めた(紅組トリ7回は石川さゆりに次ぐ現役歌手2位。全体では美空ひばりの13回に次ぐ3位)。
1987年、1988年、1997年と合計3回紅組司会も担当、1987年の『第38回NHK紅白歌合戦』では「抱擁」で紅組トリを務めており、組司会とトリの兼任となった。なお、1970年代より幾度も紅組司会の候補に挙がっていた。また、山川静夫以来2人目且つ女性では史上初の昭和と平成の紅白で双方司会経験者でもある。
1998年(平成10年)、『第49回NHK紅白歌合戦』で「今あなたにうたいたい」を歌い、自身初の紅白の大トリを務める。抜群の声量を生かし、曲の途中ではハンドマイクを使わずに歌うパフォーマンスを見せ、観客席から大拍手が起こった。
2005年には、m-floとのコラボ曲「Hey!」のヒットにより、「m-flo loves Akiko Wada」名義で、自身初となる白組での紅白出場。
2012年(平成24年)、『第63回NHK紅白歌合戦』に出場し、女性歌手として島倉千代子を抜いて単独で歴代最多出場歌手(36回)となる。その後も2015年(平成27年)『第66回NHK紅白歌合戦』まで30年連続出場(通算39回)を果たした。通算39回出場は当時の女性歌手の最多出場記録となった。
(注意点)
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