形原藩(かたのはらはん、かたはらはん)は、江戸時代初期に三河国宝飯郡形原(現在の愛知県蒲郡市形原町)を拠点として存在していた藩。発祥の地を知行していた大身旗本の形原松平家が、1618年に関東地方で加増を受けたために大名に列したものであるが、翌年には転封したために藩(大名領)として存続したのはごく短期間であった。
形原松平家は松平氏の一族で、松平信光の子・松平与副が宝飯郡形原に移り住んだことに始まるとされる家である。徳川家康のころの当主は松平家忠・家信父子で、家忠が天正10年(1582年)に36歳で死去すると、家忠の弟の松平家房が家信(永禄8年(1565年)生まれ)の軍代を務めていた。
天正18年(1590年)、徳川家康が関東に移されると、家信もこれに従って移転した。関東に移る直前の松平家信の領分は2250石とされるが、関東移転後は上総国五井(現在の千葉県市原市五井)で5000石を領した。
関ケ原の合戦後の慶長6年(1601年)、家信は旧領である三河形原に5000石を与えられて五井から移転した。このときの家信の領地は、宝飯郡形原村など13か村であり、かつての形原城を陣屋とした。
元和4年(1618年)9月、家信は御留守居に就任するとともに、安房国長狭郡内において5000石を加増されて1万石の大名となり、形原藩を立藩した。藩政は嫡男の康信と、城代の松平家房に委ねられていたという。
元和5年(1619年)9月、家信は摂津高槻藩2万石に加増移封された。これにより形原藩は廃藩となった。
三河国の13か村はいったん幕府領となったが、同年末には松平清直(長沢松平家)に与えられた。松平清直は形原に陣屋を置く5000石の交代寄合となったが、延宝元年(1673年)に3代目の松平信実が無嗣のまま没し断絶した。その後、形原村は幕府領(代官支配地)・旗本領などとなったが、享保年間に巨勢至信が宝飯郡に知行地を与えられ、形原に陣屋を置いた。巨勢至信は加増を重ねて享保17年(1732年)に5000石に達し、以後幕末まで巨勢家が形原の領主として続いた。
譜代。1万石。
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