海保(かいほ)は、千葉県市原市の五井地区にある大字。郵便番号は290-0266。
千葉県市原市北西部にある五井地区に位置する。町村制施行に伴う町村合併により廃止となった海保村を起源にもつ大字である。字東端の境界上とほぼ一致する形で館山自動車道が通っており、市原サービスエリア(下り)が設置されている。
2021年(令和3年)在、海保には(おおむね北部から)「中谷」「中郷」「上郷」「南和」の4つの町会が組織されている。
南北に長い領域を有する。北部は養老川流域の平地、南部は丘陵地である。
北は柏原・廿五里・町田、東は今富、南は立野・豊成、南西に泉台・片又木、西に畑木と接している。
2000年(平成12年)1月1日現在の国土交通省地価公示によると、海保字堰上1632番2で8,000円/m2である。なお、これ以降は海保における国土交通省による地価公示は行われていない。
海保一帯は、古代に
律令郡制が崩壊すると、海上郡は海北郡(海保郡)・佐是郡・真野郡(馬野郡)といった中世的郡単位へと細分化された。海北郡の範囲ははっきりしないが、養老川以西、馬立以北で、東は姉崎に至る地域との説がある。姉崎を含む市原市西北部一帯を真野郡(馬野郡)とする見方があり、この場合はおおむね海北郡の西に真野郡、南に佐是郡が位置していたことになる。
『千葉県市原郡誌』では、海上郡が南北に分かれて海北郡と「海南郡」となったことを想定するが、史料上「海南郡」という名称の使用例は確認できない。『日本歴史地名大系』は、位置関係からすれば馬野郡か佐是郡がそれ(「海南郡」)にあたるか、とする。『角川日本地名大辞典』は『千葉県地名変遷総覧』を引き、「海南郡と称されるべき地域が佐是郡になった」という見解を紹介する。
海保という地名は、一説に海北(かいほ)が転じたものという。また一説に、古代海上郡内に「海上保」が置かれ、のちに「上」が省かれたという説もある。この一帯を指す地名として「海保荘」・「海保郡」も用いられた。
なお、地内には公家台(くげんで)という小字があり、当地の領主の居城(海保城)であったと伝えられている。
江戸時代初期、海上郡に端を発する諸郡(海北郡・佐是郡)と、古代市原郡に端を発する諸郡(市東郡・市西郡)が「市原郡」としてまとめられた。
「海保村」について、1594年(文禄3年)の「石高覚帳」では「海宝村」とあり、村高1042石とある。江戸時代初期には姉崎藩領となり、松平忠昌・松平直政兄弟が領主となった。この関係で、森厳寺には兄弟の父・結城秀康の位牌が納められている。その後は幕府領・旗本領の相給の地として領主が交代した。
「元禄郷帳」では837石、「天保郷帳」・「旧領旧高取調帳」では899石とある。他村よりも土地が高い場所にあったため養老川の水を利用できず、村内に10か所の堰を設けて農業用水とした。
大政奉還後の1867年(明治元年)、当地は菊間藩領となる。1871年(明治4年)に廃藩置県により菊間県、同年末には府県統合によって木更津県所属となり、1873年(明治6年)6月に千葉県が発足するとその所属となった。同年7月、大区小区制のもとで千葉県第5大区の管轄となった。1874年(明治7年)、森厳寺に海保小学校が開校した。1878年(明治11年)には郡区町村編成法のもとで市原郡役所の管轄地域となった。
1889年(明治22年)の町村制施行に伴い、廿五里村・野毛村・町田村・海保村・島野村・飯沼村の6か村が合併して東海村が発足し、「海保」はその大字となった。
南部の「南和」地区一帯はかつて手入れの行き届いた里山があったが、20世紀末には荒廃した状況になっていた。21世紀に入ると開発が行われ、残土で埋められた谷にソーラー発電所が造成された。また、大規模な物流団地が造成されている。
年表は以下の通りである。
2023年(令和5年)4月1日現在の世帯数と人口に関する情報は以下の通りである。
歴史的に「海保村」あるいは「海保」(現代の「海保」の範囲と一致するとは限らない)の戸数・人口として以下のような数字が挙げられている。
市立小学校・市立中学校と県立高等学校の通学区域は以下の通りである。
駅はないが、最寄り駅は姉ケ崎駅である。 ※ただし、駅まで徒歩30分以上かかる
字内を通過する路線は以下の通りである。
高速道路
国道
県道
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