1978年のクラウンライターライオンズでは、1978年のクラウンライターライオンズの動向をまとめる。
この年のクラウンライターライオンズは、根本陸夫監督の1年目のシーズンである。
このシーズン終了後、ライオンズの経営権が福岡野球から西武グループに移ったため、クラウンライターライオンズとしての最後のシーズンである。また、平和台野球場を本拠地とした最後のシーズンでもあった。
監督が鬼頭政一から根本陸夫に代わったが、ドラフト会議で指名した江川卓(法政大学)に入団を拒否され、更に春季キャンプ中に江田孝コーチが急逝と次から次へと災難が起こる中のシーズン、真弓明信(118試合出場、117安打、8本塁打、38打点、打率.280、遊撃手部門ベストナイン獲得)や立花義家といった若手や、中日から移籍したウィリー・デービスや巨人から移籍(1975年以来の復帰)の伊原春樹の活躍はあったものの、投手陣がエースの東尾修(45試合登板、303.1回、23勝14敗1セーブ、防御率2.94)以外は頼りにならなかった。前期は若手の台頭もあり借金3ながら4位と健闘。だが後期に入ると負けが込んで5位に転落、総合成績でも結局5位に終わった。
そしてシーズン終了後の10月12日、福岡野球が国土計画に経営権を移管する事を発表。これに伴い球団名が「西武ライオンズ」に変更となり、本拠地も福岡県から埼玉県所沢市に移動、1950年以来29年続いた福岡のライオンズの歴史は幕を降ろしたのだった。翌年からは所沢に移転するも坂井保之球団代表と根本監督は続投し、新球団での若手育成及びトレードでの大物獲得に重要な役割を果たしていくことになる。
*阪急が前後期完全優勝したため、プレーオフは行わずそのまま年間優勝
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