![1964年の阪急ブレーブス 1964年の阪急ブレーブス](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/af/Hankyu-Nishinomiya-Stadium-2.jpg/400px-Hankyu-Nishinomiya-Stadium-2.jpg)
1964年の阪急ブレーブスでは、1964年の阪急ブレーブスの動向をまとめる。
この年の阪急ブレーブスは、西本幸雄監督の2年目のシーズンである。
貧打に喘ぐチームの救世主として、現役大リーガーのダリル・スペンサーがこの年入団。スペンサーとゴードン・ウィンディの加入で打線に厚みの増したチームは開幕前からAクラス候補にあげられ、5月までは前年優勝の西鉄や南海と首位争いを展開。西鉄が失速した6月以降は南海とのマッチレースとなり、一度は南海に代わって首位を奪還するが9月以降経験豊富の南海に差を広げられ、球団創設以来の初優勝はならなかった。投手陣では米田哲也・梶本隆夫・石井茂雄・足立光宏がローテーションを守り、この4人でチーム勝ち星の半分を稼ぐなど好調で防御率は3.01と優勝の南海を上回った。打撃陣では3番ウィンディ、4番スペンサー、5番石井晶のクリーンナップが打ちまくり、1967年の初優勝時の主力選手がチームの中心となった。141本塁打、543打点はリーグ2位だったが、機動力不足も目立ち68盗塁はリーグ最下位に終わった。シーズン終了後、1955年に入団しチームの中心選手として活躍したロベルト・バルボンが近鉄に移籍した(その後1974年に通訳兼コーチとして阪急に復帰)。
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