![1977年のヤクルトスワローズ 1977年のヤクルトスワローズ](/modules/owlapps_apps/img/nopic.jpg)
1977年のヤクルトスワローズ(1977ねんのヤクルトスワローズ)では、1977年のヤクルトスワローズの動向をまとめる。
この年のヤクルトスワローズは、広岡達朗監督の2年目(途中就任の前年を含む)のシーズンである。
就任2年目の広岡監督は、この年の春季キャンプより「麻雀禁止」・「花札禁止」・「禁酒」・「ユニフォーム姿での禁煙」・「練習中の私語は禁止」などと、徹底的な管理を行いそれまでの「ぬるま湯」的なスワローズを一変しようとした。広岡監督の管理野球が吉となり序盤から好成績をあげ、特に若松勉は中盤に巨人の張本勲との猛烈デッドヒートを勝ち抜いて首位打者を獲得、来日2年目のチャーリー・マニエルも巨人の王貞治と本塁打王を争うなど活躍、また投手陣にも鈴木康二朗や会田照夫といった新鋭を起用、その結果、チームは貯金4ながら国鉄時代以来16年ぶりに勝ち越し、最終的に巨人に15ゲーム差をつけられながらも球団初の「2位」に躍進、翌1978年のセ・リーグ初優勝&日本一への基礎が出来上がった。その一方で、鳴り物入りで入団したドラフト1位ルーキー酒井圭一は序盤に一軍入りしたものの活躍せず、また9月3日には鈴木が王貞治に、世界新記録となる「通算本塁打756号」を打たれるという出来事もあった。また1974年に太平洋から移籍し、4年間ヤクルトの主砲として活躍したロジャー・レポーズがこの年をもって退団した。投手陣は鈴木、会田、松岡弘、安田猛の主力組に加え新人梶間健一がローテーション入りし、リリーフには巨人から移籍の倉田誠や井原慎一朗、西井哲夫が控えるなど整備された。
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