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皆川淇園


皆川淇園


皆川 淇園(みながわ きえん、享保19年12月8日(1734年1月1日) - 文化4年5月16日(1807年6月21日))は、江戸時代中期の儒学者。父は皆川成慶(春洞、白洲)で、実弟に国学者富士谷成章(層城、北辺)、甥に国学者富士谷御杖がいる。淇園は号で、名は愿(げん)、字は伯恭(はくきょう)、通称は文蔵(ぶんぞう)、別号に有斐斎(ゆうひさい)がある。生まれは京都。

生涯

皆川春洞の第二子、長男として京都正親町坊(中立売室町西)に生まれる。9人兄弟であった。4、5歳頃には杜甫の詩を覚えていたといわれる。

伊藤錦里や三宅元献などに儒学を学んだ。易学について研究を深め、独自の言語論により「名」と「物」との関係を解釈する開物論を唱え、「老子」「荘子」「列子」「論語」など多くの経書に対する注釈書を著した。亀山藩(松平信岑)・平戸藩(松浦清)・膳所藩(本多康完)などの藩主に賓師として招かれた。

宝暦9年(1759年)より京都・中立売室町西にて門人を受け入れ始めた。また、江村綬の錫杖堂詩社に影響され、柴野栗山や赤松滄洲らと三白社という詩社を起こす。

絵画の腕も卓越しており、山水画では、師の円山応挙に劣らずという評価も受けている。

晩年の文化2年(1805年)には様々な藩主の援助を受けて京都に学問所「弘道館」を開いた。 志半ばにして、翌年、74歳で没する。

門人は3,000人に及んだといわれる。門弟として富士谷成章(実弟)・巖垣龍渓・稲毛屋山・小浜清渚・東条一堂・北条霞亭などがいる。

京極の阿弥陀寺に葬られた。墓誌は松浦清が文を製し、その書は本多康完が記した。東京国立博物館には「明経先生像」と題された淇園の遺像が残る(渡辺南岳筆、東京国立博物館 情報アーカイブ)。

大正4年(1915年)、従四位を追贈された。

主な著書

  • 易原
  • 名疇
  • 問学挙要
  • 助字詳解
  • 淇園文集
  • 淇園詩話
  • 易学開物
  • 老子釈解
  • 習文録
  • 実字解

脚注

参考文献

  • 鴻儒皆川淇園(淇園会編、明治41年12月20日、淇園会刊、第4章に高瀬武次郎「淇園先生の開物学」を掲載、第7章「皆川淇園」は天囚西村時彦の大阪朝日新聞連載記事(一)~(十七)を収録)
  • 近世後期儒家集(日本思想大系、岩波書店)

外部リンク

  • 『春秋左氏伝』 - 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ、2020年4月28日閲覧。皆川漢園の自筆書き入れ本。

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 皆川淇園 by Wikipedia (Historical)