Aller au contenu principal

毛利就馴


毛利就馴


毛利 就馴(もうり なりよし)は、江戸時代中期の大名。周防国徳山藩7代藩主。第5代藩主・毛利広豊の十男。幼名は専之助。名を就馴(初め「なりよし」、後に「たかよし」)、就友(たかとも)と変える。

生涯

寛延3年(1750年)11月6日、徳山藩の第5代藩主・毛利広豊の十男として、江戸の今井谷邸で生まれる。

宝暦14年(1764年)2月22日、第6代藩主の兄・広寛が死去。他の兄は早世または既に他家を相続していたので、同年4月21日に広寛の養嗣子として家督を継ぎ、「就馴」と名乗る。

就馴は生まれつき英邁闊達で、よく下情に通じて人民を愛し、家老・奈古屋蔵人を重用して治績を挙げる。また、藩士に命じて各家に伝来の古文書や系譜を呈出させ、藩祖・就隆及び第3代藩主・元次の詩文を編集して散逸を防ぐなど、大いに意を文事に用い、天明5年(1785年)には藩校の鳴鳳館を創立して文教興隆の基礎を築く。

寛政8年(1796年)9月24日、次男の広鎮に家督を譲って隠居。寛政11年(1799年)3月26日、病と称して帰邑の暇を請い、同年5月に下松の仮寓に入る。文化元年2月(1804年)、富田に別邸を設ける。

文化4年(1807年)9月23日、名を「就友」と改め、文化13年(1816年)12月23日に総髪して「政翁」、また「泰翁」と号し、風月を友として悠々自適の日を送る。

文政11年(1828年)3月20日に富田の別邸で死去。享年79。墓所は山口県周南市舞車の大成寺。

系譜

  • 父:毛利広豊(1709-1773)
  • 母:清光院
  • 養父:毛利広寛(1735-1764)
  • 正室:浄願院 - 関政富の娘
    • 次男:毛利広鎮(1777-1866)
  • 側室
    • 長男:福原房純(1772-1836) - 庶長子。福原就清の養子
  • 生母不明の子女
    • 男子:毛利馴仁
    • 女子:板倉勝意継室
    • 女子:豊子 - 吉川経礼継室
    • 女子:小笠原正弇室

脚注

参考文献

  • 徳山市史編纂委員会『徳山市史 上』(1971年)

Collection James Bond 007


Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 毛利就馴 by Wikipedia (Historical)


INVESTIGATION