![加藤茶 加藤茶](/modules/owlapps_apps/img/nopic.jpg)
加藤 茶(かとう ちゃ、1943年〈昭和18年〉3月1日 - )は、日本のコメディアン、ミュージシャン、司会者、ドラマー、俳優。
ザ・ドリフターズのメンバーとしてテレビ・映画に多数出演。1960年代後半から70年代前半にかけて子供達の間で人気者となる。ドリフの活動縮小後は、加トケンやこぶ茶バンドでも活躍した。
本名︰加藤 英文(かとう ひでゆき)。身長163cm。
愛称は「カトちゃん(加トちゃん)」「ヒデ坊」「チャー坊」など。父はギタリストの平八郎(たいら はちろう)。
1943年、東京府東京市世田谷区(現:東京都世田谷区)生まれ。5歳の夏(1948年)の1か月間だけ母親・寿磨子(1916年〜1980年)の実家・愛媛県新居浜市に住む。12歳の時、ギタリストの父親・平八郎(1915年〜1955年)が癌を患ったため、母親、妹とともに父親の郷里・福島県福島市へ転居し福島で育った。
少年時代には平泳ぎが得意で、中学生のときの全校水泳大会の自由形では他の選手が全員クロールのなか、加藤だけが平泳ぎだったのにもかかわらず1着になったというエピソードがある。その後、無線に興味があったことから電気学園福島工業高等学校に入学。
1960年の正月に叔母に会いに上京した際、滞在中に高校中退を決断し、トロンボーン奏者を目指してスターダスターズのバンドボーイに就く。しかし、トロンボーンは高額で容易に入手できないことが分かると、ドラマーに捨てておいてと頼まれたドラムスティックを削って再生し、ドラムのチコ菊池からドラムを1日8時間、1週間教えてもらう。その半年後に横浜にいる菊池の兄のバンドのドラマーとして加入。 スターダスターズを辞めたのはある日手当ての100円をマネージャーに催促したところマネージャーに100円を投げつけられ、この態度に怒った加藤はそのマネージャーとの喧嘩に発展し、クビになったからである。
その後、1961年にドラマーとしてクレージーウエストにメンバー入りし、仲本コージ(後の仲本工事)と出会う。
1962年、碇矢長一(後のいかりや長介)と同時期に、「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」のメンバーに加入した。
1964年には、ドリフ初レギュラー番組『ホイホイ・ミュージック・スクール』での「加トちゃんぺ」のギャグが受け、一躍人気者になる。放送作家の田村隆によれば、『ホイホイ』の収録で90秒の音楽ギャグのオチがよくないとみんなでいろいろ考えていたところに、ディレクターの白井荘也が「小野チン(小野ヤスシのニックネームであった)が、ヒゲ付けて目玉を寄せてぶっ倒れるオチにしよう」と提案してきたが、小野がこれに拒否的な態度をみせたことで(当時ディレクターは反論など許されないような絶対的な存在だった)、周囲の穏やかな空気が止まったのを察知した加藤が「それ僕がやります」と自らその役を買ってでて演じたことから生まれたギャグだった。そして、付け髭の糊が剥がれやすかったために、たびたび2本指で押さえていたものがギャグとして通用したと加藤本人が語っている。
1964年、ドリフが分裂し(詳細は当該項目を参照)、小野ヤスシらはドリフを脱退して「ドンキーカルテット」を結成するが、加藤はいかりやとともにドリフに残留した。新生ドリフ活動開始直後、当時所属していた渡辺プロダクションの先輩・ハナ肇に「芸事で飯を食っていこうとするのなら、水に係わりのある芸名にした方がいい。お前は、みんなから「加トちゃん」って呼ばれてるんだから、加藤茶にしなさい」と言われ、加藤茶になった。
1969年より『8時だョ!全員集合』にて、さまざまな一発芸をヒットさせ、1970年代前半には小学生の間でカリスマ的存在になる。
社会や人間関係の縮図をデフォルメした初期のコントや映画においてはお笑い(いつも損をする役、イジメられ役、道化)の中心で、ドリフターズ・メンバーの中で最も持ちネタやギャグが多かった。特に『全員集合』で披露した、「タブー」の曲に合わせて踊る「ちょっとだけヨ」で大ブレイク。同時期に「1、2、3、4、やったぜ加トちゃん!ぐるりと回ってウンコチンチン」も大人気となった。
このころ加藤は、付き人兼居候として志村けん、運転手としてすわしんじ(後のすわ親治)を抱えていた。本人曰く、1974年3月の荒井注脱退の際、いかりやは新メンバーとして豊岡豊の加入を考えており、芸能雑誌ではすわしんじも候補に挙がっていたが、加藤が「(長年ドリフに付き、コントの作り方もよく知り、また芸能活動経験もすでにあった)志村を加入させた方がいい」と強く主張し、これにいかりやが折れてまだ当時無名の存在だった志村が新メンバーに決まった。
志村が一躍人気者となった後は、一手にギャグを受け持つ存在から、志村とのコンビで笑いを生み出す存在へと立ち位置を変化させた。特にドリフ大爆笑では志村と息の合ったコントを披露していた。このことが、『全員集合』の後番組『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』『KATO&KENテレビバスターズ』へつながっていき、加藤と志村は加トちゃんケンちゃんと呼ばれるようになった。その反面、往年のギャグを披露することはあまりなくなった。
新生ドリフでは、『全員集合』終了までソロ活動を行わせなかったといかりやは語っているが、加藤はクレージーキャッツの植木等と映画で共演していた。
なお、いかりやの著書『だめだこりゃ』によれば、かつて加藤はドリフを辞めようとしたことがあるとのこと。旧知の仲である小野ヤスシは、ドリフを脱退してドンキーカルテットを結成する際に加藤を誘ったが、いかりやと前リーダーでオーナーの桜井輝夫らの説得で残留した。このころはプロダクションには所属しておらず、前リーダーの桜井輝夫がオーナーとして関わっており、前出の「お前、どうするんだ?」と説得したのは桜井とされている(いかりやは加藤を直接説得はしていない。また桜井も普通に「どうするんだ?」と尋ねたに過ぎなかった)。また、ドンキーカルテット側からも「すでにカルテット(四人組)名義で仕事を取り付けてしまったためにグループ名を再び変更する必要がある」「辛うじて世間に顔が売れている加藤が残留すればドリフは存続する」との事情から加藤に対し「ドリフに残った方がいい」と進言されたとしている。その一方で、小野やジャイアント吉田らが正式にドリフを脱退していないにもかかわらず、まだ活動を始めていない「ドンキーカルテット」としての仕事を取り付けたことに違和感を感じたことも、ドリフへの残留を決めた動機の一つであるとされている。
このころ、クレー射撃は加藤が一番巧く、公式大会での優勝記録も多数残している。本人によると「協会からオリンピック代表候補の打診もあったが、ドリフが一番忙しい時期だったので、事務所に行かせてもらえなかった」というほどの腕前であった。なおクレー射撃の銃所持免許は、度重なる交通違反による前歴から取消処分を受けている。また競艇のファンでもあり、ボートレース振興会のキャンペーンの冊子にも登場したことがある。また競艇の大レースのプレゼンターを行うこともある。
『加トケン』終了後は単独でバラエティ番組に出演するかたわら、俳優としての活動も行い、主演ドラマ『パパと呼ばせて!』では映画『アパートの鍵貸します』でのジャック・レモンを彷彿させる独身の中年男を好演し、NHK総合テレビで放送の『武蔵坊弁慶』では、それまでのイメージを覆す非常にシリアスな役を演じた。また「加トちゃんBAND」「こぶ茶バンド」を率い、お笑いだけでなく、本来の持ち芸であるミュージシャンとしての活動も活発化させた。『はぐれ刑事純情派』では、鑑識官を演じた。
1987年11月に18歳年下の女性と結婚。その披露宴の模様は11月21日に『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』内で録画中継され、芸能人の結婚披露宴中継では郷ひろみ、森進一、渡辺徹に次ぐ歴代4位となる36.3%の高視聴率を記録した。その妻とは2003年3月に熟年離婚をしたが、「病気療養中のいかりやに心配をかけないように」との心遣いから、離婚のことはいかりやの死後まで公表しなかったという。前妻との間には3人の子供がいる。
2004年、いかりやが死去したことに伴い、ドリフ最古参メンバーとなった。いかりやの葬儀の際には最古参メンバーということで、年長の高木ブーに代わって弔辞を読んだ。このなかで、加藤は「これから俺たち4人で、ドリフターズ、やっていくよ。あんたが残した、財産だからね。(中略)あ、でもそっちからいきなり『全員集合』って言われても、俺たちすぐには行けないからね…」と語りかけた。
2006年9月、長女の文代がデビュー。
2006年10月30日、微熱と体のだるさが1か月以上続く体調不良により緊急入院。同年12月のこぶ茶バンド公演も出演中止が決まった。病名は"Stanford A型大動脈解離"だと本人が2006年12月26日の会見で発表、生還を果たしリハビリ中であることを語った。実際の会見では「スタンダードA型大動脈解離」と言い間違えている。この際に彼を看病したのは、熟年離婚をした元妻であった。この手術の際の検査により、長年AB型だと思っていた血液型が実際にはA型であると判明した。仕事復帰は困難ともいわれたが、わずか4か月で『鬼嫁日記 いい湯だな』に出演するかたちで復帰した。2008年には『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』のチャリティーマラソンランナーに内定していたが、「Stanford A型大動脈解離」の影響により辞退することとなった。
2011年3月1日、フジテレビ『カスペ!』枠で加藤の芸能生活50年を記念しての特別番組『ドリフ大爆笑!! 加藤茶芸能生活50周年』が放送された。
2011年、長男と同い年である23歳の女性と、68歳にして再婚したことが報じられた。入籍は6月23日で、45歳の年齢差(『スポーツ報知』2011年8月1日)。当時、妻の父親は37歳、母親は44歳だったという(『女性セブン』2011年8月18日号)。入籍当初は新妻がマスコミの前に登場することはなかったが、2012年3月1日に、埼玉県越谷市の結婚式場「ベルヴィ ギャザホール ザ・シーン」で行われた結婚式と披露宴で、初めて姿を見せた。以来、夫婦でテレビ出演することが増え、2012年12月には加藤綾菜の名で、自身がプロデュースするアクセサリー類の通販サイト『P.E(ピーイー)』を立ち上げている。
結婚当初妻は“財産目当て”などの冷ややかな野次を浴び続け、週刊誌などのバッシングを受けていたが、2019年10月10日放送分の『直撃!シンソウ坂上SP』では、パーキンソン症候群と戦う加藤のリハビリを支えるなどの献身ぶりが伝えられた。また、綾菜の父親は多数の事業を手掛ける実業家であり、実際は加藤茶の”逆玉”であったと後に報じられている。
2020年4月1日、前月29日に志村が2019新型コロナウイルス感染に伴う肺炎で急逝したことをうけ、残されたドリフのメンバーとともにフジテレビの追悼特番に出演し、番組内で弔辞を述べることが報じられた。内容は、先に逝去したいかりやへの弔辞を彷彿とさせるものであった。加藤は弔辞の中で、「天国の長さんも、まさかお前が最初に来るなんて思ってなかっただろうなぁ。ビックリしたと思うよ。長さんの次は高木ブーだと思っていたもんな。」と早すぎる死に触れ、「5人がそっちに『全員集合』したら、そっちのお客さんを『大爆笑』させようぜ。約束だぞ」と語りかけ、「ゆっくりと休んでくれ。大好きな志村よ」と締めくくった。
1969年ごろより舞台で禿げヅラに丸メガネにちょびヒゲ、ステテコに着物を着た酔っ払いに扮することが多くなり、これが後に加藤茶の代表キャラ「加藤茶太郎」となる。そもそもこの禿げヅラ、丸眼鏡、ちょびヒゲはクレイジーキャッツの植木等が演じたキャラクターが元となっており(元祖は大宮デンスケ、または三木のり平か)、実際舞台上で植木等と同じ扮装をして共演したこともあった。なおこの禿げヅラは特製で、舞台でいかりやや志村に強めに叩かれてもヘルメットの役割も果たしていたことを加藤は語っている、ちょびヒゲは当初は付け糊で装着していたことで「加トちゃんぺ」のギャグが誕生したものの、途中からはメイクで描くようになった。90年代からは加藤のキャラはほぼこのキャラクターで定着しており、『志村けんのバカ殿様』やテレビのCMに出演する際もこのキャラクターで登場する場合が多い。90年代からはフジテレビ系アニメ『サザエさん』の波平の影響からか禿げヅラの真ん中にに一本毛が追加されている。のちにタレントショップ(かつて原宿・竹下通りに自身のショップを持っていたこともあった)や自身のホームページなどで売られるキャラクターグッズも、それらを装着した姿をモチーフにしたものが多い。
ここではソロ活動での出演作のみを記述する。ザ・ドリフターズとしての出演作についてはザ・ドリフターズを参照。
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