![アントン・チェーホフ アントン・チェーホフ](/modules/owlapps_apps/img/errorimg.png)
アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(ロシア語: Антон Павлович Чехов:アントーン・パーヴラヴィチ・チェーハフ/ラテン文字(英文表記)Anton Pavlovich Chekhov、1860年1月29日・タガンログ - 1904年7月15日・バーデンワイラー)は、ロシアを代表する劇作家であり、多くの短編を遺した小説家である。
アントン・チェーホフは1860年、アゾフ海に面した港町タガンログで父パーヴェル・エゴーロヴィチ・チェーホフと、母エヴゲーニヤ・ヤーコヴレヴナ・チェーホワの3男として生まれた。兄にアレクサンドル、ニコライ、弟にイヴァン、ミハイル、妹にマリヤがいる。父方の祖父エゴールは農奴だったが、1841年に領主に身代金を支払って一家の自由を獲得した。父パーヴェルはタガンログで雑貨店を営んでいた。 p チェーホフは1867年にギリシア系の学校に入学し、翌年にはロシア系のタガンログ古典科中学(en)に入学した。1876年に一家は破産し、夜逃げしてモスクワに移住した。しかしアントンだけがタガンログに残ってタガンログ古典科中学で勉学を続けた。この頃から詩や戯曲などを書いていたといわれていて、作品名こそ伝えられてはいるが、作品そのものは現存していない。
1879年に中学を卒業してモスクワに移り、モスクワ大学医学部に入学した。この頃、生活費を稼ぐためにアントーシャ・チェホンテーなど複数のペンネームを用いて雑誌にユーモア短編を寄稿するようになった。学業と作家活動を兼ねる多忙な日々を送り、アントンの友人が家を訪れると、父であるパーヴェルが「いまアントンは忙しいから」と面会を断ることも多々あったという。1884年には医学部を卒業し、医師としての資格を得、また実際に医師としてモスクワの自宅において診察などを行うようになった。1884年12月には結核に感染して喀血し、以後死去するまで結核に悩まされることとなった。1885年末には首都サンクトペテルブルクに滞在し、文壇から歓迎されるとともに、親友となるアレクセイ・スヴォーリンとの交友が始まった。
作家として駆け出しの頃のチェーホフはユーモア短編を主に書いていたが、いわゆる「本格的な」作家への転機となったのは1886年に老作家ドミートリイ・グリゴローヴィチから激励と忠告を受けたことだったといわれている。グリゴローヴィチはチェーホフの文筆家としての才能を称賛しつつ、ユーモア短編の量産はせっかくの才能を浪費するものだと警告し、これを機にチェーホフは文学的な作品の創作に取り組むようになった。
1887年に書かれた初の本格的な長編戯曲『イワーノフ』は翌1888年の初演の評判こそよくなかったものの、1889年にサンクトペテルブルクのアレクサンドリンスキイ劇場での再演は好評を博した。チェーホフは文壇の寵児となり、おどけて自らを「文壇のポチョムキン」と呼びさえした。当時の書簡には、ペテルブルクの道を歩くだけで花束を胸元に捧げられ、女性たちに囲まれたと記している。チェーホフはこの頃、レフ・トルストイの思想に傾倒し、「退屈な話」(1889年)は人生の意味を見失って不安と懐疑に苛まれる老教授のわびしい心情を描いたが、この作品はレフ・トルストイの短編『イワン・イリイチの死』を下敷きにしたとたびたび指摘される。
1890年に入ると、チェーホフは4月から12月にかけて当時、流刑地として使われたサハリン島へ「突然」でかけ、囚人たちの過酷な生活や環境をつぶさに観察し記録を残した。この時チェーホフは現地の日本人外交官とも交流し、さらに帰途、日本への渡航も計画したが、これはコレラ流行のため断念せざるを得なかった。1890年の見聞は旅行記『サハリン島』(露: Остров Сахалин)に編んでおり、この旅を作家チェーホフの転機とみなす指摘は少なくない。翌1891年には新聞社主のアレクセイ・スヴォーリンとともに西ヨーロッパを訪れた。スヴォーリンはチェーホフの作品をすでにいくつも出版した人物であり、2人は長く親密な友人関係を築いた仲であった。しかしドレフュス事件を受け、チェーホフはアルフレド・ドレフュスを擁護するとスヴォーリンと対立し、両者の関係は決裂に至る。
1892年にモスクワ郊外のメリホヴォに土地を購入して移り住んだチェーホフは、地主になったことを大変喜んでおり、また医師として周辺農民を診察し治療もし始めた。1895年秋には長編戯曲『かもめ』を執筆した。この作品は翌1896年秋にサンクトペテルブルクのアレクサンドリンスキイ劇場で初演されると、ロシア演劇史上、類例がないほどの失敗に終わった。しかし2年後の1898年には、モスクワ芸術座による再演が大きな成功を収めている。同座はこの成功を記念してシンボル・マークを変え、飛翔するかもめをデザイン化した意匠を採用した。
演劇界の動向に対してチェーホフの健康は悪化しつつあり、1897年3月には大量に喀血して倒れた。医師に転地を勧められたチェーホフはクリミア半島南部のヤルタで静養したが、同年10月には父パーヴェルを亡くすと父の最期の地メリホヴォを離れる決意をして土地を売りに出す。チェーホフはヤルタに建てた家が完成すると、翌1899年にメリホヴォを転出した。ヤルタでは短編小説「犬を連れた奥さん」などを執筆し、転入した1899年にはモスクワ芸術座が『ワーニャ伯父さん』を初演、同座初演は1901年の『三人姉妹』が続く。チェーホフはこの上演でマーシャ役を演じた女優のオリガ・クニッペルと同年5月に結婚した。翌1902年、マクシム・ゴーリキーの学士院会員選出の取り消しに抗議して、ウラジミール・コロレンコとともに会員を辞退した。
1904年には最後の作品『桜の園』がやはりモスクワ芸術座によって初演され、期間中の1月17日はチェーホフの44歳の誕生日と筆歴25年の祝賀を兼ねた。だが本人はすでに結核で病み衰え、舞台に立ち続けることはできなかった。同年6月、転地療養のためドイツのバーデンワイラーに赴くと、翌月の7月15日(ユリウス暦7月2日)に同地で亡くなった。最後の言葉はドイツ語で「私は死ぬ」であったと伝えられる。墓所はノヴォデヴィチ墓地である。
アントン・チェーホフはロシア文学の中で、あるいは世界文学史でも有数の巧みな小説作家である。
当時ロシアの文壇では長編こそが小説であるという風潮が強く、チェーホフのように第一線で短編小説を絶えず発表した書き手はいなかった。しばしばフランスのギ・ド・モーパッサンとも比較されるが、伏線を計算して配置するプロットに技巧を凝らした小説にはあまり関心をもたなかったとされる。典型的なチェーホフの物語は外的な筋をほとんど持たない。その中心は登場人物たちの内面にあり、会話の端や細かな言葉、ト書きに注目するほかない。しばしば語られることではあるが、チェーホフの小説や劇においては何も起こらない。あるいはロシア人研究者チュダコーフが指摘するように、「何かが起こっても、何も起こらない」。
小説にとどまらず、チェーホフは最晩年の作品である戯曲『かもめ』、『三人姉妹』、『ワーニャ伯父さん』、『桜の園』の作者として、伝統的な戯曲と対極を成す新たな領域を切り開いた劇作家でもある。これらの作品の与えたインパクトの多くは、例えば『かもめ』の終幕に代表される巧みなアンチクライマックス(遁辞法)による。
井上ひさしは、チェーホフは演劇革命を起した人物だとし、一に主人公という考え方を舞台から追放した、二に主題という偉そうなものと絶縁した、三に筋立ての作り方を変えたと分析している。
ソ連時代には「文豪チェーホフ」というイメージに適う「紳士チェーホフ」という人物像が政治的にあてはめられていた。当時出版されたチェーホフ全集などで、家族がそれにあてはまらない箇所を削除したことがわかっている。日本でも、チェーホフ作品の翻訳者として知られた神西清による「チェーホフは酒を絶っていた」などの言葉がある。しかし、チェーホフはむしろ酒豪の部類に入る人間であったし、書簡などを読めばいわゆる「下ネタ」を嫌っていたわけでもなく、オリガとの交際中も複数の女性と関係を持っていたことは伝記的な事実である。チェーホフ自身は、象徴主義的な方法による演劇を嫌っており、『かもめ』の中でコスチャの劇中劇としてパロディー化したが、同時に象徴派の詩人モーリス・メーテルリンクから大きな影響を受けたとも告白している。他に影響を受けた劇作家に、ヘンリック・イプセンがいる。『かもめ』は、イプセンの『野鴨』(チェーホフが気に入っていた作品のひとつ)抜きに、今日演じられるものには成らず、全く書かれなかった可能性もあった。
没後ロシア文学界ではチェーホフの評価は高かったものの、国際的な評価は第一次世界大戦最中、コンスタンス・ガーネットにより作品が英訳された後も低かった。
しかしチェーホフの評論家の鋭い分析に挑む挑戦的な文学スタイルで、1920年代からイギリスではチェーホフの戯曲が人気を博し、今日ではイギリス演劇の代表的なものとなっている。またアメリカ演劇界は写実的な演劇を上演するスタニスラフスキーの演出技巧の影響を経た後、それに遅れるような形でチェーホフの影響が次第に強くなってくる。テネシー・ウィリアムズやアーサー・ミラー、クリフォード・オデッツなども好んでチェーホフの技法を用いている。
イギリスの演劇作家であるマイケル・フレインは、チェーホフのおどけた家族が見る社会に焦点を置いて描く作風に影響を受けた作家としてよく挙げられる。短編作家の多くも同じように少なからず、チェーホフの影響は受けている。その代表格としてキャサリン・マンスフィールドやジョン・チーヴァーがいる。またアメリカの作家のレイモンド・カーヴァーもチェーホフのミニマリズム的な散文に影響を受けているし、イギリスの短編作家のV・S・プリチェットもチェーホフの作品から影響を受けている。
またチェーホフの作品を元に制作された映画では、エミーリ・ロチャヌーの『狩場の悲劇』(1978年)や、ニキータ・ミハルコフとマルチェロ・マストロヤンニの合作の『黒い瞳』(1987年)、ルイ・マルの『42丁目のワーニャ』(1994年)、アンソニー・ホプキンスの『8月の誘惑』などがある。
日本では明治後期の1903年に瀬沼夏葉によって日本語訳が始まり、チェーホフの生前にすでに六篇が日本語に訳されている。筋らしい筋のないその作品スタイルは、私小説を主体とする近代日本文学でも当初から高く評価され、大きな影響を与えた。具体的な例としては志賀直哉『剃刀』が「ねむい」、井伏鱒二『山椒魚』が「賭」、太宰治『斜陽』が「桜の園」に着想を得ていることが指摘されている。
チェーホフが死去した後、晩年を過ごしたヤルタの家は妹のマリヤが管理しており、やがて博物館として開館した。マリヤは1957年に死去するまでこの博物館の館長を務めていた。1922年にはモスクワにもチェーホフ博物館が建設され、1954年にはかつてモスクワでチェーホフが暮らしていた旧居へと移転した。これに対し、その前に住んでいたメリホヴォの屋敷はすでに人手に渡っていたが、ロシア革命によって国有化され、コルホーズとなっていた。やがて1940年にここにもチェーホフ博物館を建設する決定がくだされ、1944年に正式に開館した。チェーホフの生地であるタガンログでも、チェーホフの生家が「チェーホフの家」として、通っていた学校は「A.P.チェーホフ文学博物館」としてそれぞれ博物館になっている。このほか、チェーホフが1890年に訪れたサハリンにおいても、1995年に州都ユジノサハリンスク市において「「A.P.チェーホフ」サハリン島文学記念館」が設立され、2013年に移転改装された。
1954年には、チェーホフ没後50周年を記念して、メリホヴォからほど近いモスクワ州のロパースニヤ市がチェーホフ市と改名された。また1946年にはソ連の実効支配下のもとで、旧日本領の南樺太西海岸南部にあった野田町はかつてサハリンを訪れたチェーホフにちなんでチェーホフ町へと改名された。2019年5月31日にユジノサハリンスク空港(所在地はサハリン州都)がチェーホフの名前を冠するアントン・チェーホフ空港へと改名されるにつき、ロシア大統領ウラジーミル・プーチンが大統領令に署名した。チェーホフの出身地であるタガンログでは、劇場や図書館などに献名されている。
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