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勝負審判(しょうぶしんぱん)は、大相撲において、行司とは別に相撲勝負の判定に加わる審判のことである。日本相撲協会寄附行為相撲規則によると審判委員(しんぱんいいん)と定義されている。
勝負審判は、土俵の東西に各1人、行司溜に2人、正面に1人の合計5人配置され、日本相撲協会審判部所属の年寄が交替で務める。出場する勝負審判の装束は紋服白足袋でなければならない。なお、5月場所から一重の羽織に紋付き、7月・9月場所は麻の着物に一重の紋付き姿である。
勝負審判は、勝負の判定を正しくし、公平に決定する責任があるから、行司の軍配に異議を感じた場合は、直ちに速かに、「異議あり」の意思表示(物言い)をして、 協議に入らねばならない。控え力士から物言いがあった場合は、勝負審判はそれを取り上げ協議しなければならない。判定については審判5人による多数決で、見えていない場合は「見えていない」と表明して、評決に参加しないこともできる。行司は意見は述べられるが評決には参加できない。審判委員は一門の利益代表ではないが、一門の力士が絡んだ判定の場合には意見の強く押し通せる審判の声が通る場合もある。行司は「反則勝ち」「同体」の軍配をあげることができないため、実際に反則があったり同体であったりしても物言いがなければそのままとなる。
協議の際には審判長はビデオ室に控える親方の意見も参考にし、土俵上の各審判に伝える。正面の位置に座る審判が審判長となり、物言いの協議に際し、最終的に判定を裁決する。審判長は十両土俵入りまでは審判委員の一人が務め、それ以降は審判部長もしくは審判部副部長が務める。
勝負審判は勝負の判定だけでなく、土俵上一切の競技進行に目を配り相撲競技規定に抵触または違反のないようにする責任がある。たとえば、仕切りで十分に手を付かず立ち合った場合は勝負審判が相撲を止めることがある。過去には勝負が一度決まった後に手付き不十分で取り直しにしたこともあった。
1976年7月場所では、「待った」の応酬で8回も仕切りを長引かせた若三杉と荒勢の対戦の際に、勝負審判全員が土俵にあがって両力士に直接注意を促したこともあった。水入り後の組み直しには満足するまで行司に注意しなければならない。
錣山の証言によると以前は力士の監視に関して「力士の足だけ見ていろ」と言われていたが、近年では髷掴みの問題も多く取組中の力士の様子をくまなく監視する必要があるという。
行司溜赤房下(東寄り)の審判が時計係となる。時計係審判は呼出と行司に制限時間(仕切り・水入り等)を伝える役目と、全体の進行を見極め、制限時間を調節する役目を担っている。また、白房下は一種の「予備役」で他の審判に故障が起きた場合は、その位置に回る。
本場所の場合、勝負審判は4班に分かれて行う。1班ごとの勤務時間は以下の通り。
日本相撲協会には「審判部」が置かれ、勝負審判はここに所属する年寄が務める。審判部が所管しているのは以下の業務である。大相撲の世界において絶対である番付の編成を所管することから、審判部の役割は特に重要であるとされる。番付編成においては各力士の師匠が審判部に所属するか否かがその力士の番付昇降に大きく影響するとも言われる。横綱・大関昇進の際は、審判部長が理事会の招集を要請することが昇進の前提となっている。審判部は、各部所との連繋を密にし、土俵上で結集した成果が上るよう努めるものとする。
このほか、一門に横綱、大関が出た場合、その昇進伝達式には審判委員は理事とともに伝達の使者として昇進力士の部屋(地方場所では宿舎)に派遣される。
審判部長は理事から、副部長は副理事(かつての監事)から理事長によって任命され、それ以外の年寄が副部長に就任した場合は役員待遇となる。原則として違う一門から 選任されるが、理事長が直接適任者を指名するので、一門無所属の年寄が任命されることもある。
審判部長は戦後から平成中期まで歴代すべて横綱経験者が務めていたが、2002年2月の改選時において大関止まりの二子山親方(元貴ノ花)が、横綱未経験者から初めて審判部長に就任した。さらに2010年2月には関脇止まりで幕内優勝未経験の友綱親方(元魁輝)が審判部長に就任した(元横綱千代の富士の九重親方とあわせて部長二人制)ほか、2012年2月には同じく鏡山親方(元多賀竜)が単独で審判部長に就任するなど、近年は横綱経験者に限らず務めている。また、審判部長や審判部副部長が怪我や体調不良で休場する場合、後述する編成担当が出来る前は、名古屋・大阪・福岡の各地方場所担当部長が代理で務めていた。
2020年3月の改選時からは、取組と番付の編成のみに専念する審判部長・審判部副部長が置かれることになった。編成担当の者は原則として審判長を務めないが、他の部長・副部長が体調不良などにより審判長を務められない場合は、その代役を務めることになる。
審判委員は審判部に所属する年寄が勤める。審判委員の人数は当分の間20名以内とされ、現在5系統ある各一門(出羽海一門、二所ノ関一門、時津風一門、高砂一門、伊勢ヶ濱一門)からの推薦に基づき理事長より任命される。一門に所属していない親方は当然ながら一門からの推薦を受けられないため、審判委員に就任することは通常ない。偶数年2月の役員改選時における職務分掌異動で任命され、主任の年寄が委員に昇格する際に新任されることが通例で、一度退任した後に、再任されることもある。また、定期異動外でも審判委員の病気勇退等で委員待遇平年寄から委員へ昇格させる形で抜擢されるケースもある。近年は役員改選時に平年寄や主任のまま審判部の職務を任じられ、審判委員となるケースもある。
また、2014年に導入された再雇用制度を利用し、一旦停年の後参与として再雇用された親方が審判に就任することもある。審判部に所属する年寄は、大相撲中継の解説には出演しない。
審判部は「花形」部署とされ、審判委員は横綱・大関経験者等、現役時代の実績に秀でた年寄が就任する傾向がある。戦後から2012年頃までは就任したほぼ全員が最高位前頭2枚目以上であり、一門からの推薦もおおむねこの基準で行われていたが、2012年以降は前頭2枚目以上の経験のない親方の就任例が急増している。それ未満の最高位で就任したのは以下の通り。
勝負審判は、かつては江戸時代からの呼称である中改(なかあらため/ちゅうあらため)、明治時代の高砂改正組による改称後は検査役(けんさやく、番付上の表記は勝負檢査役)と呼ばれた。
現在のように、審判が土俵下から判定をみるようになった理由は、1930年の天覧相撲をきっかけにしたもので、それ以前は土俵の周囲の四本柱(現在の房の位置にあった)のところに座っていた。当時の行司による「四本柱の下に検査役が座っていた時代は柱の前に行けず(検査役の正面に立って視界を遮るという理由で柱の前で立ち止まることを禁じられていた)動きにくかったが土俵下に下りてからは気にせず動けるようになって裁きやすくなった」という証言がある。土俵下に降りたことで観客からも取組が見えやすくなるという利点もあった。
また、1950年代までは取締、理事に次ぐ協会の幹部であり現在の審判委員より地位が高かった。そのため検査役は選挙で選ばれ、力士の有資格者も投票した。元横綱・大関等は引退後1、2年ほどで検査役となりその後理事・取締と昇進することが一般的であった。元横綱の太刀山が引退して年寄・東関を襲名後まもなく廃業した理由は、検査役の選挙で落選したことが一因であった。
1968年の機構改革によって、勝負検査役の名称が審判委員に改められ、この時、部長・副部長以外の審判には部屋持ち親方を充てないこととした。この規定は1978年1月場所まで続いた。
かつては、年寄名跡を借用している年寄でもこの職務に就任することができたが、現在は、原則として年寄名跡を正式取得している年寄しか就任できなくなっている。横綱・大関経験者は引退の時点で委員待遇を受けているため、名跡を取得している親方の中には引退から数年で勝負審判に選任されるケースもあり、芝田山親方(元横綱・大乃国)は5年期限の年寄・大乃国時代に勝負審判に選任されている(就任から間もなく芝田山を襲名したため、大乃国親方としての出場は1場所のみだった)。役員経験者の年寄は大抵腰掛けの形で審判委員を務めるが、玉ノ井親方(元大関・栃東)のように審判委員を経ずに副理事に昇格したケースもある(玉ノ井親方は副理事退任後の2018年3月に、委員に降格し審判委員となった)。
1945年の6月場所では、空襲が激しく物資が不足していたため勝負検査役は国民服姿であったという。
(2024年4月2日現在。編成担当の年寄は記載しない)
就任場所は審判部所属になって最初の場所、最終場所は審判部から外れる、もしくは審判部副部長に昇進する直前の場所を記載した。
アマチュア相撲では、この役割を担当するものを、副審と呼ぶ。副審は正面・向正面・東・西の四人が配置につく。
公益財団法人日本相撲協会監修『ハッキヨイ!せきトリくん わくわく大相撲ガイド 寄り切り編』
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