マーク・ブランデル(Mark Blundell 、1966年4月8日 - )は、イギリス生まれの元レーシングドライバー。1992年のル・マン24時間レース優勝者。
元々オートバイ・モトクロスのライダーであったが、1984年にイギリスフォーミュラ・フォード1600に参戦し、4輪レースのキャリアが始まった。1987年から1989年にかけて、国際F3000選手権に参戦。1988年に表彰台に3度立つ活躍でシリーズ6位を獲得した。
ミドルブリッジから国際F3000に参戦していた1989年シーズンの途中、ウィリアムズF1から声がかかり、FW13をテスト、その後正式にテストドライバーに就任。テクニカル・チーフのパトリック・ヘッドから「ブランデルはとてもクレバーにドライブする」と評価を受ける。
1990年には後に名車FW14Bに搭載されることになるアクティブサスペンション開発のテストも任された。同年のメイン参戦レースはWSPCで、日産ワークスの一員としてル・マン24時間ではポールポジションのタイムをたたき出した(後述)。これらの結果とウィリアムズで重ねたテスト走行でブランデルは自信を付け、F1レギュラー参戦を希望していた。ちょうどこの年はF3000時代に所属したミドルブリッジがブラバムを買収しており、ブラバムは当初ロベルト・モレノを91年の候補としていたが、モレノが急遽ベネトン・フォーミュラで参戦することになったことで、ブランデルにブラバムと契約するチャンスが訪れた。なお、同年5月からはクラウディオ・ランジェスの不振のためユーロブルンから何度もF1参戦の誘いがあったが、チームの拠点がイタリアだったこと(ブランデルはイギリスのチームを希望していた)と、不振のチーム状況からこれには断りを入れている。
1991年にブラバムからF1にデビュー。第3戦から新車BT60が登場し、第11戦ベルギーGPで6位入賞、初の1ポイント獲得に成功する。8月に一度は翌1992年に向けてチーム残留が決まったが、のちにオーナーの中内康児と意見の相違が生じ、同年限りでチームを離脱。1992年はマクラーレン・ホンダのテストドライバーに就任した。
1993年にリジェからF1再参戦。ブラバム時代のチームメイトだったマーティン・ブランドルと再びコンビを組むことになった。リジェはこの年からセミオートマチック・ギアボックスをウィリアムズからの技術協力で搭載することになっており、かつてウィリアムズでセミオートマの開発をしていたブランデルの経験が買われての契約だった。この年は表彰台に2度上がるなど、同胞ブランドルと共にチームをランキング5位に押し上げた。
1994年にティレルへ移籍、前年より所属する片山右京のチームメイトとなった。予選の速さでは片山の陰に隠れたが、第5戦スペイングランプリで3位を獲得しヤマハエンジンにF1初表彰台をもたらすなど決勝で好走。最終的な獲得ポイントでは片山を上回った。しかし翌年のシート交渉ではティレル残留を熱望するも、ミカ・サロが大手電話会社ノキアをスポンサーに付けティレルのシートを獲得したため、ブランデルはまたも他のシートを探すこととなった。
1995年に再びマクラーレンと契約し、テストドライバーとなる。しかしレギュラードライバーとして加入したナイジェル・マンセルが開幕前テストから好タイムを出せず、「コックピットサイズが体形に合わない」と不満を口外しはじめると開幕2戦を欠場。代役としてリザーブ契約でもあるブランデルが1戦ごとに契約を結ぶ形態ではあったが実戦機会を得た。更にマンセルがMP4/10の出来を不服とし、その後2レースを走ったのみでチームから離脱。以後はブランデルが最終戦までレギュラーに昇格し、2度の4位を含めチームメイトのミカ・ハッキネンを凌ぐ6度の入賞を記録したが、表彰台には一歩届かなかった。
シーズン終盤に翌年からのデビッド・クルサード移籍加入が発表され、シーズンオフには恒例となってしまった翌年の正シート探しに注力することとなったブランデルはマクラーレンでの走りを高評価したメルセデス(マクラーレンにエンジンを供給)の支援もあり、ザウバーへの移籍を画策し交渉を続けたが、ベネトンのシートを失ったものの同年のF1で2勝を挙げたジョニー・ハーバートとのシート争奪戦に敗れ、以降ブランデルがF1のシートを得ることは無かった。
1989年と1990年は、日産と契約し世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)に参戦した。
1990年のル・マン24時間レースでは予選専用のエンジンを積んだ日産・R90CKで2位を6秒以上引き離す3分27秒02を記録しポールポジションを獲得した。
一旦F1のシートを失った1992年にプジョーワークスと契約しスポーツカー世界選手権(SWC)にフル参戦。1992年のル・マン24時間レースではプジョー・905を駆り優勝した。
1995年をもってF1を去った後、アメリカ合衆国のチャンプカー・ワールド・シリーズ(CART)に活躍の場を求めた。1996年からパックウェスト・レーシングに加入。チームメイトはマウリシオ・グージェルミンで、パックウェストは元F1コンビ2台での参戦だった。リオのオーヴァルコースでは、後年にブランデル自身が「自分のキャリアで最もひどいクラッシュだった」と語るハイスピードクラッシュを経験した。ブランデルは1997年にシリーズ3勝を挙げる活躍を見せランキング6位を獲得。CARTには5シーズンフルエントリーしたが、2000年は最高位7位のランキング21位と結果が振るわず、翌年に向けて契約を更新できずパックウェストのシートを新鋭スコット・ディクソンに奪われた。
2001年のル・マン24時間レースでは、結果的にはリタイヤとなったが、LMP675カテゴリーのMGローラEX257をドライブし、格上のLMP900カテゴリーであるクライスラーLMPや、キャデラック・ノーススターLMPを上回るスピードを見せた。2002年には、MG・ZRスーパー1600を駆って、世界ラリー選手権(WRC)・ラリーGBにスポット参戦し、リタイア。
2019年にはイギリスツーリングカー選手権(BTCC)にアウディ・S3で参戦、久々の現役復帰となったが、結局この参戦は同年限りとなり、翌2020年1月に現役引退を発表。一方で同年2月には自らのチームとして「MBモータースポーツ」を設立し、BTCCにホンダ・シビックで参戦、自らはチーム監督を務めることを明らかにした。
現在は、解説者として活動する他、ドライバーマネージメントも手掛けており、ゲイリー・パフェットやマイク・コンウェイ、ヤン・マーデンボローらがマネジメント傘下にいる。
* ドライバーが少なくとも1周レースリードラップを記録したレース (リードラップ記録者には1ポイントが与えられる、2002年はフィーチャーレースのみ、2003年から全レースで適用)。
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