![アンドレス・ガララーガ アンドレス・ガララーガ](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6c/Andres_galarraga2002.jpg/400px-Andres_galarraga2002.jpg)
アンドレス・ホセ・パドヴァニ・ガララーガ(Andrés José Padovani Galarraga , 1961年6月18日 - )は、ベネズエラ出身の元プロ野球選手(一塁手)。右投右打。
現役時代は「ビッグ・キャット」という愛称で親しまれた。
1978-79シーズンにベネズエラのウィンターリーグでデビュー。当時モントリオール・エクスポズの監督だったフェリペ・アルーの推薦で、1979年1月にドラフト外でエクスポズと契約。1984年にはマイナーリーグの2AでMVPを受賞。
1985年には3Aでルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、メジャーに昇格。8月23日のロサンゼルス・ドジャース戦でメジャーデビューを果たす。同年、24試合に出場し、打率.187、2本塁打を記録している。
1986年は105試合の出場で、打率.271、10本塁打、42打点を記録。
1987年は打点を90の大台に乗せ(90) 、打率も3割を記録した(.305) 。
1988年はデビュー3年間の通算本塁打25本を上回る、シーズン29本塁打を記録。オールスターゲームに初めて出場した。打撃面での活躍が評価されて、この年にシルバースラッガー賞を受賞。
1989年から1990年の2年間は打撃面では打率が2割5分台だったが、守備面での活躍を評価され、2年連続でゴールドグラブ賞に選出されている。
1991年は本塁打が2桁に届かず、打率も2割2分を下回った。ルーキーイヤーを除いたデビュー以来、自己最低の数字に終わってしまう。
1991年11月25日にケン・ヒルと交換で、セントルイス・カージナルスへとトレード移籍。
1992年シーズン2試合目4月7日のニューヨーク・メッツ戦で、死球により右手首を骨折。この故障で44日間故障者リスト入りしたため、前年よりも少ない出場試合数となったが、前年より多い本塁打と打点を記録。シーズン終了後FAとなった。
1992年オフにコロラド・ロッキーズと契約した。
ロッキーズ移籍1年目の1993年は120試合の出場で、本塁打22、打点98を記録。更に打率.370を記録し、首位打者のタイトルを獲得。右打者ではジョー・ディマジオが1939年に打率.381を記録して以降最高だった。また、ベネズエラ出身選手として初の打撃タイトル獲得となった。そしてカムバック賞も受賞。
1994年は1994年から1995年のMLBストライキのあった年だったが、ガララーガは打率.319、31本塁打、85打点という成績を残した。
1995年には自身初の100打点を突破(106)。
1996年は自己最高の159試合に出場で、打率.304、47本塁打、150打点を記録し、自身初の本塁打王と打点王のタイトルを獲得。更に、シルバースラッガー賞にも選出された。
1997年は154試合に出場で、打率.318、41本塁打、140打点と前年より本塁打・打点の数字が落ちたものの、2年連続で打点王のタイトルを獲得している。
1997年シーズン終了後、ロッキーズはガララーガに対し2年契約を提示したが、ガララーガはワールドチャンピオンになるため、フレッド・マグリフの後釜としてアトランタ・ブレーブスへ3年総額2480万ドルでFA移籍した。
1998年は打率.305、44本塁打、121打点を記録。
1999年に非ホジキンリンパ腫という癌の告知を受ける。その為、癌の治療に専念。
2000年に癌細胞が消え去ったため復帰し、2度目のカムバック賞を受賞した。オフにFAとなった。
2000年オフにテキサス・レンジャーズへ入団した。
2001年7月24日にチーフ・マグルダー、エラスモ・ラミレス、トッド・オジアスの3選手と交換にサンフランシスコ・ジャイアンツへ移籍。打率.256、17本塁打、69打点の成績を残したが、オフにFAとなり、NPBの中日ドラゴンズがマーク・マグワイアやホセ・カンセコらとともに新外国人候補としてガララーガをリストアップしていたものの、獲得はならなかった。
2002年3月7日にモントリオール・エクスポズと契約を結んだ。この時はレギュラーポジションを確保するには至らなかったものの、104試合に出場。
2002年オフに再びサンフランシスコ・ジャイアンツに入団した。
2003年は2000年以来となる打率.300を記録。しかし11月に癌が再発し、入院する事になってしまった。ガララーガは再入院となった時、この事を外部へは一切知らせなかった。
2004年8月6日、復活したガララーガはアナハイム・エンゼルスと契約を結んだ。7試合に出場して本塁打1を記録。通算本塁打を399本とした。同年の11月1日にFAとなった。
ニューヨーク・メッツとマイナー契約を結んだ。しかし、翌2005年の春季キャンプ中の3月29日、若手にチャンスを与えるため引退を発表した。
ベネズエラ出身選手としての最多本塁打記録を保持していたが、2015年5月16日にミゲル・カブレラに更新された。
2009年3月に第2回WBCのベネズエラ代表コーチを務めた。
2013年3月に第3回WBCのベネズエラ代表コーチを務めた。
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