![ロバート・ステュアート (カースルレー子爵) ロバート・ステュアート (カースルレー子爵)](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/51/Lord_Castlereagh_Marquess_of_Londonderry.jpg/400px-Lord_Castlereagh_Marquess_of_Londonderry.jpg)
第2代ロンドンデリー侯爵ロバート・ステュアート(英: Robert Stewart, 2nd Marquess of Londonderry、1769年6月18日 - 1822年8月12日)は、アイルランド生まれのイギリスの政治家・外交官。襲爵前に称していたカースルレー子爵(Viscount Castlereagh)の儀礼称号で知られる。
ダブリンでアングロ=アイリッシュ系貴族の家系に生まれる。父は初代ロンドンデリー侯爵ロバート・ステュアート。アイルランド議会の議員を務めた後、イギリス議会に入り、アイルランド王国のグレートブリテン王国への併合を定めた1800年の合同法の制定に尽力した。その後、イギリスの外交を主導し、ウィーン会議にもイギリス代表として出席した。
父の死により侯爵位を継いだ1821年頃から精神に異常をきたし、1822年に自殺した。過労が原因であったと言われる。
後任の外務大臣になったジョージ・カニングとは犬猿の仲で、1809年9月には決闘まで行い、カニングに重傷を負わせたことがある。この事件でステュアート、カニングの両名はそれぞれ陸相と外相を辞任する事態となった。
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